アクエリオンの最終回観た。シルヴィアが未亡人になっちまったよ。ラストがギャグとしか思えない(ギャグなんだろうけど)野郎3人の合体で片がついたおかげでぜんぜんアポロに悲壮感がないのが良かったけどさ。
また1万2000年後に合おうぜ、とかそりゃねーよなー。シルヴィアはシルヴィアとしてアポロはアポロとして天寿をまっとうしないと意味なさげっぽいような。まあ俺が輪廻転生とかぜんぜん信じないたちだからこういう気分なのだろうけど。あいつら3人は絶対アクエリオンの中で喧嘩してますね。男3人で合体とは…美しくない、何故私がこんな男と…、うるせえ、飯は何処だ、とか言ってそうだ。うふふ(水島調

アクエリオン本編とは関係ないんだけど、この作品を観て最後にわかったことは身体の重要性だったね。富野がいつも身体身体言ってる意味がどーにもぴんとこなかったんだけど、体全体で表現するということは精神的にも肉体的にもかなり健康なのだという点。ハンマー投げで投擲の後にうがーぐおーぬがーとか言ってるけどあれもああいう余韻を残さないとあそこまで距離が飛ばせないからやってることだと思うし、ボクサーがKOの後に咆哮をあげるのもそういう意味。ダンサーが体いっぱいで表現する「あまり」の部分はそうでなければいけないからだし、音楽家が全身で楽器を弾くのもそういった全身の内から出る力で表現しないと表現しきれないパワーがあるからだとわかった。そういう自分の瞬間瞬間の動きに酔う、リズムを刻む、ということが常々大事なことなんだろう。

僕は絵を描くのだけど、こういう地味な活動に身体性はあまり関係ないんじゃないかとか思ってたけど実はそうじゃなくて、多分絵も一緒で、体全体で描ききらないといかんのだろうなあと考えを改めた次第です。こういった身体性の重要性を教えてくれたという意味では観てよかったなアクエリオン。
いよいよロイジョーンズがターバーと3度目の戦いに挑むわけですが、なんとも微妙な心境だ。かつては神だった男がたった一度の敗北で一気に名を落とし、更なる敗北でもう終わったボクサーとして評されることとなった中で、もう一度立ち上がろうと思った理由、がどのようなものかが想像しにくいからだろう。

勝ったところで落ちた評価が戻ってくるわけじゃない。負ければそれこそ自分の輝かしいキャリアに更なる傷を負わせ、引退間際に3連敗した男として後世まで語られるという悲惨な結果が待っている。

ハイリスクローリターンのこのラバーマッチにどうしてロイは打って出たのだろうか?だが、その勝ってもたいした名声も名誉もいただけないこの戦いにあえて挑むロイの姿勢にはやはり王者の心を感じずにはいられない。なぜなら、純粋な自分の中から湧き出るプライドがこの戦いへのモチベーションを掻き立てていると思うからだ。ロイはファンやお金や名誉のために今度の戦いに挑むわけじゃない。たった一つの失われた自身のプライドのためにリングに上がる・・・

てのは勝手な僕の妄想ですが

↓で、結果

3−0の判定負けでしたorz
やっぱ距離の差かなあ。生粋のアウトボクサーがアウトボックスされたらもうやりようないよな。全盛期ならスピード差でいくらでも遣り合えたんだろうけども。しかもロイはまだやるつもりらしい。まあやるなら最後まで応援するけどさ。いっそのことデュランとかホリフィールド路線歩んで欲しいね。50歳くらいまで現役でw
時間が過去、現在、未来のどの点においても矛盾した概念であることを考えた上で、暫定的な時間としてとりあえず人間が認識し得るのが現在のみであると考えてみると、多分人はいつ死んでも後悔を免れないのだろう。

今、死にたくないと思っている人間が認識している今とは今以外の何者でもなく、その現在には過去も未来も含まれていない。

安らかに死に行くかのように見える老人にとっての今、とは膨大な過去の遺産によって築かれた今なのではなく、現在の意識により不確かに捏造された過去を圧縮して進み行く「今現在のみ」であると考えれば、老人とて、潔く今、死んでも構わないと思える人間なんてそうそういるものじゃないと思える。

後悔というものは輝かしい過去であるか暗い過去であるか、というものはあまり関係のあるのものではなくて、死を意識したそのときに訪れる現在の意識過程だろう。

良く「この歳になるのはあっという間だったよ」といい歳した爺さんから聞くのだけどあたりまえだろう。そのお爺さんが認識しているのは「過去からここに至る今」という膨大なデータの集積によるものなのではなく「捏造された過去を今が認識している」という状態なわけだから。今、この瞬間しかそのお爺さんには認識がないのだ。つまり、感覚的には、ぜんぜん長生きしていない。
今生まれた意識は次の瞬間には消失し、また別の今が生成される。今は常に生まれては死滅しまた生成される。2秒後において2秒前の自分はすでに消失し、その2秒後の自分も3秒後には死んでいる。常に今だけが生まれては消え、死んでいく。

幸せの今を実感しているなら一瞬の凋落としての死に後悔するし、苦しい現在を進行していれば、どうして今死ななければならないのか、俺は今幸せではないのに、という後悔が生ずる。自己の死という最悪のエピローグによって自分の物語は収束していく。救いがあるとすれば、多分いつエンドロールが来て終わったのかすら認識せぬままこの世から消失するということくらいか。

過去は今と何も繋がっていない。現在は過去から未来へと向かうベクトルの中間地点に立っているのではなくただ存在しているのは現在だけなのだと考えると、未来への展望とか過去の記憶とか、すべて無意味に思えてくるけど、実は今ここにある現在すら過去と未来がなければ生成されようがないわけで、相互に不確かなのだよな。
ただ、後悔だけが轍の後に取り残された雑草やら昆虫やらの残骸のように横たわっているというか。ああ…重いな。
必死なやつがウザがられる理由は簡単だ。ニヒリズムがシニシズムに転換しただけの話。虚無としてのニヒリズムは何をやっても無意味という思想的土壌を生み出し、結果として「あいつ何必死に頑張ってんの?何やっても無駄なのに馬鹿だよねー」というシニシズムを生む。

僕は必死な人間が、ただ一生懸命最善を尽くす人間が好きで、たまにそういう人がナにやっても無駄だよ。馬鹿じゃん?て言われてるのを見ると何かもう頭がどす黒くなっていって、お前らがいなくなれよウンコどもめ、とか思ってしまう。

必死な人間は結果的にいろんな人間に迷惑をかけ、良い結果を残せるとは限らない。ただ迷惑なだけのやつで終わることが往々にしてある。むしろその確率の方が高い。そして今現在のこの実社会においては一体全体何が「よい結果」であるのかすらわからない状態になっている。ただ、厭世家の皆さんが、このままじゃ駄目だよ。どうしようもないよ。て言いながら互いに互いを牽制しあっている。でもどこがどうどうしようもないのかすらわからない。もう、そんな中で必死にあがく人間はただただ社会に打撃を与える迷惑なやつでしかなくなる。

この世にある明確なもの。それを探して23年ですが、何処をどう探しても見つからないコギトエルゴスムですら怪しい。定かでない。ただ動け、と昨日の友人には言われた。動いた後に考えればいいだけで、動かなかったら何も出来ない、と。
その向こう側がどんな結果であっても多分そこに最適な回答は何処にもないんだろうけど、もうね、いいじゃん。Vガンダムで言う終わりのないディフェンスってやつw必死になりたいよ。必死で必死に必死が自分を締め付けて殺してしまうほどに必死でありたい。

多分いつまでも無限後退とかトートロジーの罠にハマってくんだろうけどね。同じテキストをずっと繰り返すように、人生という自己実現的な物語も同じ思考と場面の連続で出来てる。抜け出したくでも抜け出せるものじゃあないんだな…

モクシュラ

2005年9月28日 エッセイ
東京の友人から唐突に電話がかかってきた。彼は出会い系のサクラのバイトを今、執行中らしい。要するに詐欺だ。その詐欺をさも誇らしく語る彼はつまりもう「そっち側」の人間になったとしか言い表しようがない。

が、そのとき僕はそれを否定も批判も肯定も出来なかった。その活動の一体どこに狂気が潜んでいるのかをロジカルに組み上げられなかったからだ。ある人なら、本当に彼を友人だと思うのなら怒ってでも止めてあげるのが筋だろう。というだろう。でもところで彼にどういう落ち度があって、どういう罪(法的な意味でなく根源的な)があったのかと問われると答えようがない。

彼は、向こうも騙されているのはわかってやっているし、こちらもそれは承知の上でメールを交換している。彼らはお金持ちだからそれから搾取する活動の何が悪いのか、だからこれは詐欺ではない、というわけだ。

彼は詐欺を狂気として認識し、その狂気から逃れれるために詐欺じゃない活動としての意味を構築した。まるで、そうであるかのように見えるけど詐欺は詐欺だ。でもじゃあ、その詐欺の一体どこがまずいのかな、と思っちゃったりするわけだ俺は。
ある意味で卑怯だろう。

何故なら少なくとも僕はそういう類の仕事を何処かしら毛嫌いしているからだ。毛嫌いの本質は「嘘をつく人間が許せない」という生理的な嫌悪感からだ。が、世の中が欺瞞で成り立っていて、この社会そのものが悪だと実感している身として、その程度の小悪党的な活動に一体どのくらいの罪があるのかなんて検討もつかない。人は生きている以上罪を重ねていくものだし。ただ、生きて空気を吸っているだけで空気中の微生物を殺していく、食事するだけで生き物を殺す。
知的生命体である人を殺戮することそのものにも一体何の罪があるのかなんてわからない。ただ、あるのは嫌悪感だけだ。狂気のパラダイムで構成された擬似人格の似非善良な人間の抑制機能だけが嫌悪感の正体。

人間は一度コミットしてしまえばその狂気の狂気性に一体何の罪があるのかわからなくなり、結果的に間違えているとわかっていても、自己肯定の罠に引っかかる。そして狂気に染められ狂気に沈むけど、じゃあ今ここにある現実の、まっさらな罪なき現実(のように見える)の何処が狂気じゃないのかと言われると、それも答えようがない。ただ、俺を君色に染め上げようとしないでください、としかいえない。

あの時僕が、生理的な嫌悪感だけで、それは詐欺だし、悪いことだ、そんなのやめちゃいなさいよ、と言えば彼とは多分喧嘩になっていて、もうお前とは友達じゃねーよ、みたいになったかもしれない。それでも彼のことを思うのならとめるべきだっただろうか?でもとめたところで、彼のその後の人生が一体どのように肯定的な人生になるのかなんて、僕にはわからなかったので、言えなかった。彼には夢があるのだし。でもまあ夢なんて多分、代替可能な生きる希望の残骸でしかないと思うんだけどね。

Ray / レイ

2005年9月26日 映画
DVD ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2005/11/25 ¥980 ジョージアの貧しい家庭に生まれたレイは、少年時代に緑内障で視力を失うが「施しは受けず、自分の足で立って生きなさい」という母の教えを胸に、17歳でシアトルのクラブでデビュー。盲目の天才と呼ばれ、レコード会社と契約。ゴスペルとR&Bをミックスさせたソウルミュージックでスーパースターになる…。

いや・・・良かった。特にレイチャールズについて詳しいわけじゃないのだけど、CDはもともと持ってたので曲に関してはすんなり入っていけた。お気に入りのあの曲はこういう経緯で作られたのかーてのがわかって感嘆した。
タイソンやアリばりに人生のどん底と頂点を行ったりきたりした人生だったんだな、この人。ジェイミーフォックスが主演男優賞に輝いたのもうなずけるくらいの、はまりっぷりだった。それにレイが死んだ年にこの映画が公開されてるわけだから尚更、時事的にもそうなるのは必然だったんだろうな。ディカプリオ乙(笑)
あと奥さんの役やってた人、綺麗だったなあ。他の黒人さんはみんな同じ顔に見えて誰が誰かなかなか区分けに戸惑ったが。あれだけテラモエスな奥さんもらっときながらあっちでバコバコこっちでバコバコ忙しいおっさんだな。なんてうらやましいやつだ。

何かいろいろ怒りまくって夫婦喧嘩したりしてんのに、薬中のレイに対してあなたが愛してるのは私でも息子でも家族でもない、音楽でしょう?このままでは最愛の音楽まで手放すことになるのよ。それでいいの?みたいなこと言ってたのはなんかもう、ええコやん?ていうか萌えた。一瞬涙腺緩んだよ。

まあなんつーかとにかく良かったよ。ノンフィクションものとしても単純な映画としてもかなりいい出来なんじゃないかな。

ちなみに80年代のボクシング界を支えた、シュガーレイレナードの本名「レイチャールズレナード」はレナードの親父がレイチャールズのファンだったからつけられた名前らしいね。てことはシュガーの系譜は
シュガーレイロビンソン→レイチャールズロビンソン→シュガーレイレナード
と続いてたわけですよ。うほ
試合は観てないので詳細はわからない。判定は114-111×3の3-0でクリチコの勝利。ピーターはスタミナ難を露呈してしまった感じかな?クリチコより先にばてたらしいし。183cm110キロはやはり少し重過ぎるのかもしれない。タイソンの180?100キロでもかなり骨太に見えるからね。クリチコは計3度のダウンを奪われながらも判定では勝利するあたりはさすがなのだけど、なんか説得力ないよなあ…wやっぱボクシングはもう少し採点基準をいじったほうがいいんじゃねーの?と思うんだけど。新井田の試合とかホプキンスvsテーラーの試合観てもそう思った。ジャブを有効打にしすぎるのはイクナイと思う。KOするつもりのないほうにポイントが流れていく、てのは正直納得いかない部分がある。元をたどれば多分アリやレナードを勝たせるためにルールを無理やり改正させたんじゃないか、とか思うんだけどどうだろう?正直、みんながみんなレナードみたいなせこいスタイルになったら、ボクシング業界に未来はとても暗いものになると思うのだけど。
せめてクリンチをあまりに多投する選手は減点の対象(ジョンルイとかw)にする、とかあまりに差のないラウンドは10-10をつけてもいい、とかにしないとどうも締まらない試合が多くて見てランないときがある。明らかにダメージがある方の腕が上がったりね。なんでだよ?て思わんのかなあアメリカのファンのかたがたは。

コットは激戦を勝ち残ったみたいで何よりだ。こういう内なる闘志を秘めてるタイプの選手は好きですよ。野武士、て感じでいい。欠点としては昔よりアグレッシブになったせいかガードを開く瞬間瞬間をよく狙われてるっぽいよなあ。あとガードの真ん中と、リーチがさほどないせいかボディがよく開きっぱなしになるのもネックか。攻防一体の戦い方を身に着けないとメイウェザーとの対戦はさすがに厳しいかも。とは言ってもSライト級最強候補には違いないけど。

新井田の試合はペース主導権争いが見ごたえあったんだけど、序盤からもう少し手を出してかないとまずいんじゃねーか?と思ってたらポイントかなり競ってて危なかったなあ。どっちも有効打ないときは手を出してるほうに行っちゃうからな結局。余裕があるならその分、もっと積極的に仕掛けてくべきだったと思う。中盤は明らかにペースとってただけに変な余裕見せないで前半もしっかり有効打をまとめとかないと危ないっすよ・・・10R目になっても息がほとんど上がってなかったし、本人としては不完全燃焼かもナア。

佐藤とバレロに関しては微妙だ…バレロは15R連続1RKOするほどの選手には見えなかったなあ。倒せない相手と対峙したときどういう風に組み立てるのかは興味あるけど。

粟生はスピードあるしパンチもありそうだしで、マジで期待できそう。最初の一発目反応できなかったあたり、ちょっと気を抜きやすいタイプなのかなあ、とか勘ぐってしまうけどw

長谷川はマジすげー。あんなに速い日本人選手今までいたのかな?ウィラポンに勝ったのはフロックじゃないな。相手が同じカウンターパンチャーだったからスピードがある分交錯する瞬間瞬間は常に長谷川のパンチがヒットしてたのは気持ちよかった。でもしつこく前に出てくるタイプの選手には結構手を焼きそうだな。そんな感じ。

長谷川も新井田もディフェンスいいのが良いな。非力な挑戦者相手に手数でぼこぼこにされて負けるという日本人特有のしょぼい負け方の危険性がないのはすばらしい。二人の長期政権に期待してますよ。
K1見逃した…orz

この前バレラVSピーデンの前座でへススチャベスと試合してTKO負けしたリーバンダージョンソンが死亡したらしい。試合後、急に頭痛と吐き気を訴えて病院に運ばれて、いったん回復の兆しを見せたけどまた容態が悪化して死亡したとか。ジョンソンは薬物の使用が死亡の一要因になってるっぽいので死因を検証する組織が発足したらしい。デラホーヤプロモーション的には試合自体がジョンソンの死に繋がった要因である責任を出来るだけ回避したいんだろうな。

あの試合は観てて結構興奮したので観た後は満足だったんだがその後死んだと分かるとなんだかまた見直すのは抵抗があるなあ。レフェリーのストップ自体は実に妥当なところだったと思うし、どっちも気持ちを見せあって打ち合ってたからセコンドも止めるに止められなかっただろう。今年に入ってからラスベガスでは2人目の死亡事故らしいね。また変な団体から圧力かかって12Rから10Rとかになったらやだなあ。ジョンソンはカワイソスだけど。

明日はウラジvsピーター。
後藤さん、富野信者としてネタとして、俺たちが守ろうとしているものってのはいったい何なんだろうな。とか荒川チックなこと書きながら布教活動にいそしむ俺です。

ここでZガンダム?の予告編観れるよ。

http://www.z-gundam.net/special/index.html

ゆかなフォウはエロ可愛い。正直、島津より上手いんじゃねーすか?と2ちゃんで言ったら袋叩きにされました。声優オタこえー、2ちゃんはおっかねー。
というのもネタではいはいクマクマといわれた。俺みたいなこと言う人が結構いるということだな。いやまあ普通にうめーよ、ゆかな。
どーでもいいが腹立たしかったことを書いておこう。悪意をばら撒くわけだ。叩く対象を意図的に分散させとけばいざってときにぶりぶり怒り散らかさないですむ。

バレラの試合ツマンネ。後ろでホプキンスとデラホーヤがしゃべってるのを見るほうが試合観るより面白かったよ。ピーデンもいったい何がしたかったのかわからん。勇気出して中に入るわけでもなく、かといって勝とうとする姿勢も見られない終始引け腰な対応。正直眠くなった、というか寝た。こんなんタイムリーにするならウラジミールvsピーターをタイムリーにしてくださいよ。

舞-HIMEは舞衣編をクリアした。唐突な感じは否めないがいい感じのBADENDに感動した。割かしええ話やん?買ってよかったかもと思い始めている。けど、お兄ちゃんコだけは攻略する気になれんのだよなあ。全編スキップで逝くか…

ハルヒを読んでたら途中で眠くなった。全部読んでから寝たら4時間ほど爆睡してた。死にたくなった…orz

ファイトナイトは引退後も続けられたみたいで、現在32歳50勝48KO。5枚のベルトを奪取。一試合ごとに1歳老人化してしまうのを何とかしてくださいよ。

という廃人生活を送っていたら今の時間(夜中1時)になっていた。あんたの人生を何とかしてくださいよ>俺

何かを憎む気持ちってのはどうして消えないんだろう。専門的な話とかになるとどうしても思想的な対立で、その敵対者さえ消えれば世界は平和になるのに、俺は幸せになれるのに的な、手前勝手な思考が頭を支配する。傍から見ればなんとも馬鹿らしく、しかも何で争っているのか理由が理解できない話だ。そして自分を馬鹿だと半ば客観的には理解しつつも間違えた方向性にどんどん突き進んでしまう。間違えているとわかっていても感情を抑制できない。なんて気持ちの悪い。
ISBN:4044292078 文庫 いとう のいぢ 角川書店 2005/08/31 ¥630

んんん、谷川流氏はどうも短編向けの人なのかな?それとも単に俺がみくるをあんまり好きじゃないせいなのかもしれないけど、無駄に長い文章を読まされた気が・・・。涼宮ハルヒの溜息(2巻)のときと似たような退屈さが全編にわたって展開された感じがする。つか、この話も長めの短編のひとつとして書けばやれないこともなかったような。どうもみくるメインの回ははずれが多い気がする。種明かしが中途半端だったせいでフラストレーション溜まるしな。わざわざ長編にしたのは続巻に向けての伏線の種まきといったところだろうか。

しかし、これだけ大風呂敷広げてちゃんとたためるのかな。水面下で宇宙大戦争とか仁義なき戦いとかクロノトリガーっぽいバトルが展開されてんだろうし。
小泉とキョンが種明かししながらしゃべってるときが一番おもしれーよなこのラノベ。
DVD ビデオメーカー 2001/01/27 ¥15,540

キッズステーションで放送されてたのを何年かぶりくらいに観た。よくこれだけいかれた映像作品を富野監督はやってのけたものだと感嘆した。ガキの頭は吹っ飛ぶは、ヒロインは蜂の巣にされるは主人公は腕がぶっちぎれて爆死するわで。最後は皮肉にしか思えない転生ラストだし。あれ絶対転生じゃないよな。飛翔した先ではまたも煉獄の炎でみんなやきつくされてるに決まってんだ。

富野監督は僕が「悪意を探求する欲望」といってるものについて単純に「業」という言葉で説明している。
バッフクランの総統であるオッサンは己が業を理解してもなお欲望を抑えられない。自分の過ちを認めてもなお正当性をあきらめきれない人間だ。これが避けようもない代替可能な悪意の正体である。
コスモたちの場合だとイデ(神)の意志を知ってなお抗うことをやめられなかったという点がそれにあたる。無駄であるとわかっていながら、自分たちが間違いを犯した罪びとであることを自覚してもなお運命に逆らわずにはいられなかった。その逆らうという行為に意味を見出しているわけじゃない。イデを超えて生き延びられるかもしれない、という欲望に執り憑かれ、運命に逆らったのだ。

そして避けられようもなく訪れるのは戦争による種の絶滅であり、その過程の原因は、どうしようもない悪意の根源としての業が原因だとこの作品は述べている。
僕たちは自分が間違えていることを自覚してなお、自己の正当性の主張をやめられない。そして本来的で客観的な善の精神は夢幻泡影に帰する。もしくは悪の根源へと自動的に転化される。

これらの例を考えると思考と業とはまったくかけ離れたものであると実感せざるを得ない。僕らが科学や言語学や論理学、哲学や思想などの知性もったところで富野監督のいう、この業は超えられない。
むしろそれらは更なる誤解の溝を深める不完全性の定理wでしかない。それらを知ってアンガージュする人たちは、その知りすぎた頭に一度問い直してみるほうがいいだろう。果たして自分に間違いの可能性がないのかという点、と、その主張するという主体性のプライドは本当に必要なのかという点。人がよりよく生きることにロジックやインテリジェンスは必ずしも必要なわけじゃない。だから、そこに相互理解が必要なわけでもない。いいやつ、悪いやつ、というもののくくりに思想性とか宗教とかが介入してくるのは本来おかしな話なんだと思う。

が、そうは言っても人は社会的な動態であり、誰かの影響なくしては生きていけない。他人に悪意を向けられれば更なる悪意で対抗する。果たして僕らの脳みそはめぐりにめぐってまた「間違い」へと到達する。知りすぎてまた人間不信に陥り、疑心暗鬼になる。悪意は自意識の中で過剰に増殖し世界を真っ黒に彩る。だから直視できない、してはいけない。

そんな不完全性の世界に生まれてしまった人類たちのかくも悲惨なラストでこの物語では閉められる。ハルマゲドンを回避するためのメシアは存在しない。いや、存在はするが、当のメシアは率先して人間を排除しにかかる。人間の排除こそが恒久的な平和だと言い切る終わらせ方は本当に身も蓋もない。

思うんだが、富野監督はこんな話を作ってしまって、どうして生きてらのだろうか。完全に人間を否定しきった物語を作ってしまって、普通の精神じゃちょっと生きてられないんじゃないかと思うのだけどw
ツンデレが流行る理由について考えてみた。
構造的にツンデレは昔から存在したわけで、それが言語として定着した結果として体系化され、商業用に特化されたというのがツンデレのここまでの経緯だと俺は思う。

で、昔からあったツンデレ、て何?といえば最初に姿を表したのは、幼馴染系のキャラとかだろうか。高橋留美子とかが始祖になってんじゃないかな。もっと前からあるのであれば梶原一騎の、お嬢様系列に見られる白木葉子様(はあはあ!)とかになんのかな。あくまで推測だけどツンデレの構造が体系化(データベース化)する前の無意識的な作家性が生み出したツンデレはここらへんが、漫画の世界では最初なんじゃなかろうか。

さらに、物語じゃなくてツンデレが台頭する必然性を物語以前までの過去にまで遡ると、そもそもの日本人の精神性が発端になってんじゃないかと思う。わびさび、てのかな。もともと日本人は「分かりにくさ」とか「奥ゆかしさ」を好む人種で、露骨にあのコとファックしたいよ〜、とか愛してるよベイベー(死)、とかはっきりと自己主張をしたりはせん生き物だったはずなのね。

たとえば、いつもは口うるさい迷惑な近所のオヤジが、何気に毎日他人のうちの前までしっかりお掃除してやってたりしてね。これがツンの構造。嫌われ者であるという自覚のあるそのオヤジはみんなのために頑張ってたりするのがばれるのが照れくさいもんだから何も言わず黙々と掃除し続けてたりして、で、隣のお嬢さんがある日気づいてあげて「いつもどうもご苦労様です」て。そう言って貰ってオヤジは赤面して照れるわけだ。これがデレの構造。

不言実行やつつましさの精神なんて欧米にはあるわけもなく、戦後にドカーンと押し寄せたアメリカ文化のおかげで主張はバンバンしなさい。つって、日本型の精神性は中途半端な似非アメリカチックな教育政策(ダブルバインドってやつですね!)のおかげで表面上、ばっさり切り捨てられて、みんなアイデンティティクライシスなわけだ。
で、俺が思うにツンデレの構造が流行る理由はまさにその失われた精神性を回復させたいという日本人の無意識的な欲望がそうさせるんかな、とか思ったりする。

ツンデレ、てのは、慎ましさや、分かりにくさ、奥ゆかしさを好む日本人の精神構造をそのまま表象してる言葉なのだと思う。だからいろんな場面、いろんな場所で実は適応可能なわけだ。「萌え」と同じく説明しにくい状況を簡単に説明できる便利な言語ツールだ。
だから流行る。

たとえば、フルメタルジャケットの教官が兵隊を罵倒しまくった上で時々誉めてあげたりとかもツンデレだし、旧来の日本型の親父像もツンデレ的だろう。サイトの掲示板を荒しまくった迷惑千番な変態君もツンデレだし仕方ねーよ、で許せる。「あいつ人当たり悪いよなあ」とか言ううわさ話がたっても「しょうがないよツンデレだし」と対応すれば万事解決でそいつもイイ奴決定だ。ツンデレはこういった寛容な精神性まで育ててくれる素晴らしい言葉なわけですよ。・・・てのは拡大解釈が過ぎますかね。どうもすみません。

このままほっとくと冨野信者の僕の話では小宇宙レベルまで話が飛んでいきそうなんでもっと着陸しやすいとこに戻すと、やっぱりいわゆる電波男でも言われていた「純愛」、だけではなくて「一見分かりにくい純愛」、を取り戻したい、てのがオタクのみんなの本音なのかなあ、とか。そんな感じだ。

シンデレラマン

2005年9月18日 映画
実在のボクサー、ジムブラドックの選手時代の話を編集した映画。面白かった。台詞が結構オサレで音楽もええ感じでした。観客を泣かせてやるつもり満々の映画だった。ブラドックのことはよう知らんかったのでなかなか結構楽しめた。

以下ネタバレになるが、最後の試合の第15ラウンドは明らかに演出過多だよな、とか思ったけど隣に座ってた女の子があまりに壮絶な試合展開に怯えて隣の彼氏に抱きついてたのは萌えた。おそらく3年くらい前の思春期真っ盛りの(遅いなおい)自意識過剰な俺だったら、あざとい真似しやがって。これだから女は…!とかいいながら、女への恨みつらみをふつふつ滾らせて、いつのまにか社会問題の話にすり替えて怒りまくってたところでしょう。脳内で激しくバッシングしまくってたでしょう。しかし、成長して身も心もやせ細り、いつくたばってもおかしかない虚弱体質の化身と化した俺ですので、そのコのブラドックを心配するかわいらしい純粋な眼差しには癒されました。

ブラドック関連で結構知ってる選手がいたのでその人たちの戦績貼っときますね。ブラドックの中の人すげー、つえー。異様な無効試合の多さはスルーするのセオリーだ。

生粋のナショナリスト、ジムブラドック神の戦績
http://www.boxrec.com/boxer_display.php?boxer_id=012072

ブラドックに勝ってその後25回連続防衛記録の金字塔を打ち立てる伝説のボクサー、ジョールイスの戦績
http://www.boxrec.com/boxer_display.php?boxer_id=009027

映画の中で完全悪役のラスボス役を引き受けたナイスガイ、マックスベアー兄貴の戦績
http://www.boxrec.com/boxer_display.php?boxer_id=012077

ベア兄貴の強さを引き立てる演出の当て馬として見事に散った、プリモカルネラ師匠
http://www.boxrec.com/boxer_display.php?boxer_id=012086
ISBN:4063613615 コミック 古谷 実 講談社 2005/08/05 ¥560

前提として9月15日の日記読まないと意味わかんないかもしんない。
実は単行本持ってない。立ち読みで全部済ませた。買って読みたいほどに面白い漫画でもないし、全編にわたって不愉快さを意図的に描いてる漫画なので真剣に読むとZガンダム並の不愉快さを許容しなくちゃ読んでられなくなる。にもかかわらずなんで今、レビュー書いてんのかというとパズルのピースがきっちりはまり込むようにこのシガテラと前作のヒミズの作品としての意義がわかったからで、面白いから読んでよ、てわけで書いてるわけじゃない。ヒミズとシガテラは悪意を探索するという命題において対をなす作品だ。

ヒミズにおいての悪意とは外部に存在(であるかのように)し、主人公は悪の存在を駆逐すべく活動をする。心象的トラウマを抱える青年は自分に巣食う悪の遺伝子を呪い、その上で悪である自己と同じ悪を葬った上で死のうと決意するわけだ。しかし、対象としての悪や絶望など何処にも、この日常世界には存在しないことを知り、自身の何処にもない悪意を探索しつづける心こそ、絶望であることに気づき自殺する物語である。死ぬ直前に彼は彼女と結婚し、子供を育て、そして死ぬという「普通の幸せ」の未来を夢想するが、「悪」の存在しないその幸せの世界は自殺を引き止める理由にはなりえなかった。なまじ青年が悪意を直視してしまったがために引き起こされた自殺で物語は結末を迎える。

その対としての作品であるシガテラはヒミズの真逆をいく物語だ。「悪」は自身の中にこそ存在し、そのシガテラの毒によって回りの人間はどんどん不幸になっていく(かのように見える)という構造をとるが、ヒミズで描かれた、外側には「何もないこと」の絶望とは違い、こちらは実際的には外側に悪意が渦巻いている。反証的な考察もヒミズとは対照的であり、あくまで自傷的であり、外部よりも内部にこそ悪の根源があるのではないか、という思春期にありがちなくだらない自意識にとらわれている。そういう、ちょっと気の弱いオトコノコがこの物語の主人公である。そして自身こそ悪意の象徴ではないかと疑う彼は「絶望がある」という認識を捏造し、悪というシガテラから目をそむけ、直視しなかった。彼には少年時代苛めにあったという小規模のトラウマがバックボーンとして存在した。本当は「何もないことの絶望」を直視することをあえて、避けた。その結果として死なずに済むが、最終回ではあっさりとそれまで培ってきた、トラウマ的日常性を全否定する台詞が挿入されることになる。「僕はつまらない人間になった」(この一言だけでこの作品の意義がある、それまではすんげーつまんなくて古谷は何がやりてーんだよボケが、とか思ってたけど見直した)。悪意を模索しつづけた日々に見切りをつけ動物化(笑)した彼はその後の腐りきった死に損ないの日々をシガテラそのものであるかのように生きていく。
とりあえず喧嘩番長とファイトナイトと舞-HIMEのシステム制覇とは言えなくともクリアはした。

喧嘩番長は各エピソードがひねりなさ過ぎて、なんだかなーな感じだった。もっとアホいエネルギーを感じたかったんだが。ノーエクスキューゼスな雰囲気というか。警官と戦えたり車ぶっ壊せたりバイク乗れたりしたらもっとよかったんだが。バイスシティだと戦車一台get出来れば軍隊と戦争ドンパチやれるからよかったんだが。人死にまで出る割には笑って大団円てなるのも違和感感じたり。いや俺がタイムリミット内に間に合わなかったせいだけども。ラストバトルでアイテムなくなって一回殺されてむかついたんでリベンジマッチでは武器振り回しまくったらシャバ王になれました。鉄バットで殴ると相手がゴミのように弱いですね。

ファイトナイトは世界チャンプ相手になると相手のガード固すぎで試合がしょっぱくなる。しょうがないのでストレート系のパンチでこつこつ当ててせこく判定勝利をモノにしたけど、パーリングしてから即座に必殺ブローにコネクトできりゃ倒せたんだろうけどシャバ僧な俺には無理だった。ほとんどスウェーでかわしてたせいでそういう準備というか練習は出来てませんでした。一回防衛したらもう28歳だったので体力の限界を感じ引退。ライト級で通算戦績47勝46KO。現実だったら破壊的な強さなんだがwこのゲームじゃやっとこさ世界チャンピオンになれる程度のレベル。3団体統一王者なんて夢のまた夢なり。

舞-HIMEは玖我なつきがべらぼうにツンデレだったので大満足ですよ。恭司先生がテラキモスだが、ここはまあ目を瞑ろう。深優シナリオは深優が死んでしまうので切なかった。でも主人公をかばってとか、相手のすさまじい一撃を喰らって死亡とかじゃなくてだまし討ちで刺殺されるというかなりしょぼい死に方なのでそれくらい最強アンドロイドなら回避しろよ、とかいうツッコミは可能だが、ツッコンだところで深優は復活しません。恭司先生も最後はメルヘンに旅立っちゃうしね。現在、舞衣編をプレイ中。後の二人は果てしなくどーでもいいんだが、妹属性キャラに関しては苦痛ですらありそうなんだが、何とかプレイしてみようと思う。なんとなくエキストラメニューの?マークが気になるので。まあ文句言いながらもプレイ続行してるあたり結構気に入ったんだろうなこのゲーム。
オルタナティブとか代替可能とかいう単語にも飽きてきたんだが、最後にもう一文記しておきたい。代替可能な事象として特徴的なものに「嫌悪の対象」というものがる。これは結構恐ろしいもので、人間は決して幸せになれない生き物であることの根源的な理由がここにあると思われる。

つまり人はどんなに幸せであっても、何かに対して嫌悪感を抱かずにはいられない、という事実だ。人は常に何かの悪害、悪意、悪そのものというものを欲求している。どうして悪を欲求するか。それは自分が潔癖でありたいから、とか、悪を見下し相対的に自分の社会的立場を上位に見せたい、といった選民的な欲求だったりするのだろう。

しかし問題の本質はそういうことじゃなくて、人にとっての嫌悪の対象(悪)は、その人間がどんなに幸せであろうとも、裕福であろうとも、愛に満ち足りていようとも、常に主観的にではなく、見えない何かの意志に従って、なるべくして代替されていく、ということなのだ。常に仮想敵なり、非難する対象を索敵しなければ人は正気を保っていられなくなる。

集団や組織であれば内部に意図的に悪が見出され、その人物がスポイルされるのではなし、生きたまま公開私刑を味わうという必然が生み出される。内部にリンチ(弱者をいたぶり、組織全体の士気を煽る意味がある)の存在しない組織なんてない。大なり小なり、ではあるが。リンチがなければ、組織は成り立たない。上位の人間にとって弱者の人身御供を用意する行動は示威行為を意味する。組織を統括する手段としてやらなければならない活動。
個人であれば戦争を憎む人間。孤独を憎む人間。飢餓、宗教、政治、思想、人種、悪意、トラウマ、病気、組織、人間、オタク、ヘテロ、ホモ、家族、兄弟、他人などに対する嫌悪。そして自分自身、果てには幸せそのもの(没落の欲求)への嫌悪感が生まれれる。
これらは果てしなく人の内部から沸き立つものであって未来永劫、人の歴史において決して消え去ることはないだろう。存在不安とか自己疎外とか、そういったタームで説明できるかもしれないけれど、人は常に嫌悪の対象を求めてやまないのだ。
決してすべてを愛すことは出来ない。嫌悪するものが、悪の性質が自分という物語にコミットしてこないと生きられないのだ。

この悪を求める情緒量は人それぞれに大小はあるだろう。少ない人間はそれだけ情緒量も欠落してるのかもしれないw(俺みたいにw)
それでも人は、「叩かなくてもいい対象」まで叩かずにはいられないのだ。平和とか愛とかお祭りだとか楽しくて愛しくてたまらない大切な思いが、代替品として捏造された「嫌悪の対象(悪意)」に叩き潰されてしまう瞬間が現実にはある。この瞬間こそが人間の一番愚かしい側面ではないかと思える。どうあっても悪意は消えない、消せない。意図的に、そして必然的に、意志と関係なくして僕らの物語(実存)が悪の代替品を見出していくのだ。

本来的に、その嫌悪の対象が善であったか悪であったかは問題ではない。その物語にとって悪である、と決定付けられていることがおぞましいのだといえる。

神の見えざる手はこういうことを言うのかなと思う。だって、個人の意識とは関係なく、なるべくして、フィルターの向こう側に押し込めた、意識でも自我でもない言いようもない絶望感が人を取り込んでしまうのだから。その絶望感からは死ぬまで開放されることはない。いかにして目をそむけるかだけであって。直視する人間は早々に死んでしまう。
Video Game スパイク 2005/06/09 ¥7,140

やっぱり期待を裏切らなかったアホゲーw住人殴れるのが最高だ。俺の破壊的ルサンチマンを大いに解き放ってくれる優良なゲームですよ。くにおくんシリーズやバイスシティに通ずるものがある。
ただ、くにおくんシリーズ並のテキトーさ加減とかバイスシティ並の自由度があるかといえば結構規制も強いんだよな。毎回きっちりガンツケ合いしないとシャバ蔵扱いくらうし。卑怯にも後ろから殴りつけたり、車を叩き壊したり盗んだりしてみたい欲望に関しては結構厳しくて正々堂々と不良をやらないとみんなに嫌われちまうのがイタイ。
嫌われても別にかまわないシステムにしてくれてればいいのにね。嫌われると買い物が出来なくなってしまうから、変な格好させたりの着せ替えの自由度とか戦闘に役立つアイテムとかが獲得できなくなる。あくまで渋い番長じゃなきゃ駄目なのがちょっとね・・・
あと操作性がちょっと悪い気がする。もう少し単純なボタン構成に出来なかったもんかな。コンビネーションの組み立て安さは下に書いてるファイトナイトの方がよかった。こっちのは技を出してるうちに後ろから殴りつけられたりロックオンが中途半端なせいで直線の打撃がヒットしにくかったりの不都合がある。
考えてみるとその辺の問題はバイスシティに関してもいえた気がする。横スクロール時代のアクションゲーはそんな不都合は生じようもなかったのだけれど・・・

まあそれを差し引いても十分面白いんだが、くにおくんシリーズばりのアホい展開が欲しいのも事実だったりする。ボスキャラがしゃべってる最中にタコ殴りに出来たりするくらいの自由度が欲しかったw(くにおくんの時代劇参照)
Video Game エレクトロニック・アーツ 2005/09/01 ¥7,140

現存神のホプキンス大教祖が表紙だった、という理由だけで購入したのでクソゲーだとばかり思っていたら結構面白い。
右スティックでコンビネーションを組み立てるというのが新鮮で殴ってる感じがかなり快感。選手のポリゴンも結構本人に似てるのでグラフィッカーの人にはグッジョブと言いたい。
あとホプキンス強いよホプキンス。タフネスが尋常じゃねー。ホプキンスつえー。さすがミドル級最強王者。最近負けたけどorz

結構極め要素もあるのでそれなりに継続して楽しめる出来ではあると思う。ボクシングファンなら購入して損はないだろう。歴代の有名どころの選手はだいたい出てるしね。なんか条件をクリアすればもっと増えるし。

個人的にはアウトボクサーの弱さが気になるので、もしも三作目まで作れるようならレナードとかロイにもう少し光を・・・
テイルズとファイトナイトを天秤にかけて結構迷った末、ファイトナイト2を買った。あえてテイルズオブレジェンディアをツンデレイズムのために買うほどの男度は俺にはなかったorz
ゴメンよクロエたんorz
だってさ、ホプキンス大教祖が表紙のゲームなんて出ちゃったらそりゃ買うしかねーよ。ツンデレリビドーをもってしても勝てねえっすよ。ついでに何気に喧嘩番長まで一緒に買ったりしてますがね。

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