濱野さんの言うアーキテクチャ論に決定的にかけてるものってやっぱ身体性の話になっていくのだろうか?これってどうしても相容れない関係になっているように思える。ようは外部性(=つまらないコンテンツ)という対象がなければアーキテクチャが機能しないという二極化問題というか。

果たして日本のアーキテクチャは単体で駆動しうるのかな?外部からの身体的なアプローチなくして機能しうるのか?現在の島宇宙的なネットワーク構造には、コンテンツが消費しつくされ枯渇したデータログを再起動する底力はあるのか?

コンテンツ⇔「甘え」「信頼」「共同体」⇔アーキテクチャ。これらを統合する共有知の誕生に期待したい。

友敵理論?

2010年3月23日 メモ
政治的なるものはすべて友と敵を分けることでしか成り立たない云々、というのを聞いたことあるんだけど、政治的というより生きること自体が友敵理論だよなあ。人類は中途半端に頭が良くて、救いようもないくらい馬鹿だから生きるのがこんなに苦しいのだきっと。

人間自体には何も期待しちゃいかんと思う。人類というゴミから更に排泄されたウンコの中に、ほんのまれに黄金が紛れ込んでたりするからそれだけ大事にとっとけばいいんじゃないか。

3月7日の日記

2010年2月6日 メモ
ブラックジョークが通用しないタイプの人って若干付き合いにくいなと感じる。ギャグで言ってることをマジに受け止められてキレられたり落ち込まれたりすることがあると、どう対処していけばよいかわからない。俺の三次元コミュニケーションのチキンレースはクラッシュだらけです。
多分俺にとってはライトな話題のつもりでも、その人にとってはすごくヘビーな問題だったりするのだろうな。他者への想像力不足と配慮のなさがこの軋轢の原因なのだろう。しかし、ギリギリまでブレーキングを我慢したい気持ちもある。スリル満点だがミスれば両者大ダメージ。いいこと何もなし…!

pycl氏曰く、「月並みなこと言えば、人間関係はこじれてなんぼのものだと思うよ。他者への想像力なんてものはあてにせず、相手の諸事情、性格、考え方を衝突の中で理解していく他ない」とのことであった。
そうかもしれない。

あきまん氏曰く、満足と気持ちいいの違いはフラグが立つかたたないかなのだそうだ。
「気持ちいい」ははこれだけコンテンツのそろってる社会だと楽勝で獲得できそうだが、「満足」ってのは恐らくどの時代であろうと闘わないと獲得できないものだと感じる。そして満足を得るための闘争が怨嗟や嫉妬ではないことを祈りたい。雑魚キャラ臭いから。願わくば、純粋な殺傷本能(キラーインスティンクト)、打倒本能であってほしい。中二っぽいから。

sitube氏曰く、
「こういうのが読みたいけど描いてくれる人がいないので自分で描くしかない」というものがきちんと描ければ、自分と同じようなセンスの人が楽しんで読んでくれるのかもしれない。でも、それがとても難しい。なので、まずは自分がどんな物が好きなのか、どんな物が読みたいのかを整理して、それに近い既存の作品は何が足りなくて何が間違っているのかを研究するといいのではないかということだった。ぱくる場合はあちこちからぱくってまぜこぜにするといいらしい。

2月15日の日記

2010年1月17日 メモ
東浩紀の言葉を借りるとするなら動物化した人間たちのデータベース的欲望が生み出す「身勝手で独断的な」男性性、女性性を引き受けたくないんじゃないないのかな、我々(オタク)は。若い世代全員の舌が肥えてしまって不味い料理を食えなくなった結果のように思える。

自分にとっては糞不味いデータベースを押し付けてくる他者というものはもはや敵対者以外の何者でもないだろう。こうやってモテ非モテ論争というものは巻き起こっているのではないかなあ。極論を言えば。

2月10日の日記

2010年1月12日 メモ
そもそも男側にも女側にもイケメン&可愛い子をgetしないと負けだろ、というような敗北意識、社会的階層的意識、があって、その辺取っ払うことできればみんなそれなりにうまくやってけるとは思うんだけど。ブサメンでも社会性を放棄すればそれなりに愛せるだろう。多分。

リア充って恋愛に社会性がないと生きていけない生物で、それが(金持ちの彼氏とか、可愛い彼女とか)権威として発動することを望んでいるように思える。オタクはそれが嫌いだから(もしくは実現できないことを知っているから)そのような出来レースからドロップアウトする。

RPGやセカイ系の物語で社会から隔絶されたところに収束を求める理由は、傍から見ると醜悪であるかもしれない自分たちの関係性を唯一無二のイデアであるかのように振舞うために必要な儀式なのかもしれんな…



アバターを使った自由恋愛が確立する未来のお話。
気づけば男は男同士と、女は女同士とカップリングを組む世の中になってしまった。
どうしてこうなった。

801とか百合ってやっぱ、男性性、女性性を放棄したい、てことなんだろうな。
女の皮被った男に、女の皮被った男になってようやくバランスがとれるという。
ユニセックスに至るのはもはや既定事項にも思える。

ユニセックスに至ったアバターたちは男の娘は男の娘と、女は男としての女とだけ交わり続けるのだろうな。
お互いに理想のデータベースを検索し、
それに合致したキャラクターを演じることでリビドーを発散させる。

データベースをある程度共有できるのは同性だからだというのが根底にあるよね。
中には例外もいるけど。9割はそう。801や百合が物語として何の違和感もなく受容されているのはそういうことなのだ。
現実に性差が判別できない状況に至れば理想の他者は同性であることが前提で、究極的には自分に至る。





そもそもスポーツ選手って脳筋しかいないわけだからストイックなキメ台詞的なことはさして言えないに決まってるのだ。語彙が足んないんだから(野村監督とかは面白いけど)。イチローなんてかっこよさげなこと言ってるだけでフィルター取っ払ったら、文字通りかっこよさげなだけのオッサンだよね。

アスリートの深さ、美しさ、尊大さというのは言語的な部分から切り離されたところに存在するのではないかな。

彼らはもともとストイックなんて言葉は意識しないし、クレバーな戦略性なんて考えちゃいない。ただ、そのように動けば「勝てる」という事実だけを知っているのだ。だから言語では何一つ理解しない。

僕はその彼らの任務遂行的で無慈悲で純粋で無垢な「勝利」への執念を見たときに神的な瞬間が訪れるのだと思っている。そしてその表現の仕方はその選手それぞれにあって、その差異がわかる人とそうでない人だと理解の度合いが変わってくる。

スポーツものの物語媒体が日の目を見ないのはそのような神が訪れる瞬間を文字表現するのが難しいからなのだろうな。誰もイチローと王貞治のホームランの質の違いの言語的表現なんてものに興味をそそられる人はいない。その行為を目の当たりにして、美しいかそうでないかを理解するのだ。

かろうじてスポーツ漫画なんかはスポーツの本質を模写することに7割くらいは成功してたりすると思うのだけど、あれも極限状態のアスリートの心理描写に台詞が混じれば混じるほどにノイズになってアスリートが魅せる本来の美とはかけ離れてしまうのではないかと感じる。

『スラムダンク』という漫画で試合がクライマックスを迎える際に、一話まるまる一切文字を挿入しない表現があったりするのだけど、井上先生はスポーツのそのような本質的な部分を理解してる人なんだろうなあ。未だにスラムダンクを超えるスポーツ漫画というものは読んだことがない。




そもそもガンダム片手に「反戦」とか「思想」を語りだすのはさすがに痛すぎるだろう。あれは群像劇として優れているのであって戦争もSF設定もあくまでもガジェットに過ぎない。富野意外のガンダムが痛いのハッタリであるはずのイデオロギーを半ば本気でやってるせいだと思う。道化の自覚がない






目的論的証明(自然神学的証明):世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだ。
本体論的証明(存在論的証明):「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だ。
宇宙論的証明:因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと根本原因があるはず。この根本原因こそが神だ。
道徳論的証明:道徳に従うと幸福になるのは神がいるからだ。






イマジネール(想像的)な死闘

2月8日の日記

2010年1月10日 メモ
たとえばフォロー数が少なく、フォロワーを何千、何万という単位で抱えてる人間にはやはり一定の権威と圧力が宿るわけで。みんなはそのような「大名様」の顔色を伺いながらツイートをしなくてはいけなくなったりする。何でかって言うとその人のことを好きだから嫌われたくないわけだ。

みんなが「俺のフォロワー何百人行った!万歳!」てなるのは結局そういう「影響力」を身に着けたかも知れない、という自己実現的な欲求があるからで。それは個である以上当たり前なのだけれど、それらの権威ある意志の裏側には累々と転がる一般意志たちの死骸が…てのは避けたいところだなあ。

せめて残滓でも残ればいいなとは思うけれどね。だからみんな、怖がらずに発信を続けていくしかない。たとえ一方通行だとしても。

もともと人間てコンスタティブなところにしか反応しない生き物で、「物語」なるものが世に受容されればされるほどに、パフォーマティブなところに人々の視線が誘導されるようになっていった経緯ってあるような気がするなあ。

1月25日の日記

2009年12月27日 メモ
必然とは物語的なもの
偶然とは現実的なもの
蓋然とはゲーム的なもの

こんなイメージ
朝生で東さんが言ってたことを自分なりにまとめてみる。

ネットというテクノロジーを持ちながら、それを使わず古臭い選挙なんかというストーリー(友敵理論w)でしか政治を語れないのはさすがにどうかと。政治はSNSでもっと透明化し、間接的にでなく直接民主制も可能であるという話。

東が言っている直接民主制というものは実はあの場においてはそのように説明しなければ話が通じないからその言葉がチョイスされたに過ぎず、本当に大事なのはネット上に残るデータのログになってくるんじゃないかなと予想。ツイッターで、データベース民主制、とかいってたっけ?
そこには好き勝手人間たち(主にオタクとかw)がやってる意志(一般意志w)の集積だけが散らばっていて、そのデータを纏め上げるのが東理論における「政治家」の役割になってくるのだろう。大雑把な見方としては。
だから政治家も官僚もそんなにいらなくなるという話になる。民主も自民も両方滅びろ、ていう話ですなwこれは爽快だ。

東の具体的な政策の提案としてはBIがあげられていた。複雑化した制度をもっと単純化すべきという話だろう。財源はどうすんだよ?ていう話になっていたけど、年金廃止やら増税やらでまかなえんこともなかろう、という暴論だが確かにどう考えても帰ってくる見込みのない年金なんぞ支払いたくもないのである程度賛同できる。東の提唱する「とりあえず死なない社会」というのは言い換えれば「みんなで貧乏我慢しようぜ社会」になるんだろうが、国に大量の死体が転がる未来が来るよりゃずっとましな予感。このまま爺婆が増えて、労働者人口が落ち込んでいくとマジでそこいらに死体が転がってる世の中きそうだしな。それは悲しすぎるだろう。

SNSで政治が運営できるのか?という現実問題はあるよなあやっぱ。国民の6割だかにしかネットは普及してないんじゃなかったっけか。東はやはり天才だけど危うさ、てのは常に伴うよなあ。宮台や浅田がシニカルに静観してるあたり、過去の自分と重なるとこがあったりするんだろうかねえ?

独立の気力なき者は、かならず人に依頼し、
人に依頼する者はかならず人を恐れる。
人を恐れる者はかならず人にへつらうものなり。

常に人を恐れ、人にへつらう者はしだいにこれに慣れ、
その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを知らず、
論ずべきを、論せず、人さえ見ればただ腰を屈するのみ。

福沢諭吉
すべての言説は普遍性を装っただけの私的な利害、らしい。
まあ、よくわかる話だ。

だからパワーポリティクスでいいんだと。
これもよくわかる話だ。
宮台真司先生の政治的な立場。

ルソーによると全体意思と一般意思てのがあって、
全体意思とは私的利害の集合体。
一般意思というものはそれぞれの生き方とか法則が非人格的に統計されているもの。

全体意思はMIXI
一般意思はgoogle

政治とは全体意思を避けようがないもの。2世紀前は一般意思を実現化するテクノロジーがなかったが、現代にはある。
だから俺は総選挙には興味がない、というのが東浩紀先生の政治的立場らしい。
けど、エビデンスはない。なるほどなー。
グーグル的なものがもっと賢くなればこの可能性は現実味を帯びてくるのかもしれない。

あー、でもさ、もし一般意思がイデオンだったりしたらどうすんの?とか思ったりした。一般意思ですから!て放置プレイだと洒落にならんよね。洒落にならなくてもいいのかな!ひゃっほーい。

9月2日の日記

2009年8月4日 メモ
ハビトゥス
人々の内に社会的学習によって構築される、言説・行動の生成原理。社会学者ピエール・ブルデューの用語。

・ポストフェストゥムは、祭りの後。現在が過去によって支配されているような時間意識。

・アンチフェストゥムは、祭りの前。つねに未来を先取りし現在よりも一歩先を読もうとする態度。

・イントラフェストムは、祭りの最中、時間意識は現在の優位、もしくは永遠の現在。

8月27日の日記

2009年7月29日 メモ
国家論の話
・国家とは合法的に暴力を行使できる主体のこと?

・政治とは友と敵を分けることであり、
自由主義や個人主義は友と敵を分けないことである。
したがって自由主義というものは本質的に非政治的である。
とカールシュミットが1926~8年あたりの言説。友敵理論。「政治的なものの概念」1932年。
この理屈はナチスに利用されてしまったそう。

・ギートステイト、明るい未来予測、みたいなもん?2045年あたりを想定している。

・ルソー「孤独の散歩者の夢想」、ドフトエフスキー「地下室の手記」、ニーチェ「この人を見よ」ブログっぽくて面白いらしい。

・友敵理論は1か0かでしか考えられない政治的な立場で。それを越えたところの政治的立場がリベラリストなんだという話?
ヘーゲルの思考システムの正反合は二分システムでしかない。頭が悪い言説なのだという話。結局人は二元論でしか考えられない。

・思想とは常に言語の限界点の話。

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