体質がくるっと変化するときがある。
性癖が変化するとも言うのかな。

今までボクの内閉世界において高次の扱いを受けていた神の産物がある日を境にぱったりと失われてしまうときがある。瞬間がある。そうなると神に価値はなくなりオルタナティブ(エロイ響きだ)を用意せねばならんようになる。こんなこと遣りながら20年以上生きてきたものだから僕は酷く飽きっぽい性格になってるみたい。ちょっと興味が失せるともう別のものにうつつを抜かしてる。こっから先もんなこと遣りながら主体性を欠いたような行き当たりばったりノ人生になるのかもしれない。
イデオロギーと観念論→データベースと妄想論

笑 

2004年4月11日
認められないやつがすきなのね。結果を出してるのに認められないやつだとなお好き。で、すごいことをやって誰にも認められないまま死んだ後、普通に忘れ去られて行くやつにすんごいヒロイズムを感じるわけで。なんでかっつーと本当にすごいやつ、て基本的に認められないからだと思う。狂気であったりカリスマ性を表ざたにする暇もなくひたすら求道者の道を行けば結局のところ自分自身を律する必要性が出てくるわけで、つまり結果のみを純粋に求めつづけてる人、てのは超人化するけどもどこまでも外界への依存性が少なく結果として不人気な人間になっちゃうんじゃなかろうか。いや誰のこといってんのか、てのはボクサーで言うところのマービンはグラーとかバーナードホプキンスみたいな選手のことな。花形のスターの最大のライバル役でしかない彼らですが、実際のところの実力は結局花形のスターを食うところまで来てたし。ほとんどのスターは彼らに葬られたし、現在進行形で葬られつづけている。実力と認められること、てのは実はイコールではないんだよな。

ただ、認められることなく終わっていって最終的に「忘れられる」てとこに酷く僕がヒロイズムを感じてしまうのは単に僕がもっと認めてもらいたいのだけどどーせてめえらに俺のすばらしさは分かるまい、とか言う腐った自意識過剰が混じってることは言うまでもなく。やはり僕はさっさとくたばるべきですね。100回死ね、て感じですよ(笑

免罪符

2004年4月6日
また恥ずかしいこと書いてたなあ。恥ずかしいこと書くとしばらくネット開く気がうせるんだよな。死にたい気分になるし。もう最近は死のうかな、死のうかな、て配達中、車の中でいっつも独り言逝ってますよ。ぜんぜん死なないどころか、死ぬしぐさすら遣らないところが典型的な駄目駄目君なんですがね(プゲラッチョ

この前の文はひたすら自分でも何言いたいのかわけわかんないままぐだぐだ書いてたのでもう少し簡略化してみたいと思った。で簡略化すると

「人間はどーして結果よりも過程を気にするのか?」
という疑問に対して
「結果、失敗した際の免罪符が欲しい」という答えになる、
てことをこの前の僕は書きたかったのだろうと思う。

例えば駄目だった際に
「俺はやってはならない道だけは踏み外さなかった」とか
「両親に迷惑をかけるわけには逝かなかった」とか
「一生懸命頑張ったけど才能が足りなかった」なんていうのは
基本的に過程、というものに帰結すると思う。
過程は美しかった、と言えば自分の人生を肯定できるから。
一生懸命やったといえば慰めにはなるから。
道だけは踏み外さなかったと言うのは道を踏み外してまで失敗したときのことを恐れているから。

結果、成功を収めることに対してどーして罪悪感を持ってしまうのかというのは結局のところ、結果そのものを恐れているからではないかと思う。どこまでも超越性を肯定できるのであらば結果オンリーで罪は一掃出来るはずなのに超越性に対して疑いであったり、偽りの精神が少しでも含まれていればそれが過程という免罪符へと変化していくのではないかと。

過程が美しくあれば良い結果がついてくるのではなく
過程が死に物狂いであるとき初めて良い結果が現れるのだと思う。

(ただ、求める結果が「美しく成功する」とか贅沢でかっこいいこと考えてる人に対してこの話は適応できないと思うけど。そういう人は美しく死に物狂いでなけりゃならんからすげー大変)
決断の際に大事なのは責任、とか覚悟、とかあるのだけど具体性をもたせて言及すれば最終目標を見据えて行動できているか、ということなのだと思う。

「僕は信念の元に男を貫いた」とか玉砕精神の伴う立派な行動が出来たからといって、その人間が見据えている最終目標から踏み外れた行動をしていては結局その人の取った行動は無駄でしかない。

高校野球のピッチャーなんてのは自信過剰なせいか練習好かずが多いのだけど(つーか練習好かずなピッチャー以外の奴とであったことねえな)結果として試合前に疲労を溜め込まれてしまうよりぜんぜんマシであるし、そもそも高校野球は試合前でも練習がハードで(僕の高校だけかもしれんけど)、やたら根性論が通用してしまうヤヴぁイ世界なので練習好かずなくらいが丁度良かったりする(まじめに遣る奴は試合前に疲労を溜め込んでろくな成績を残せない場合が多かった)

ピッチャーなのにバッティング。ピッチャーなのにタバコ吸う。ピッチャーなのに試合前日に抜く。ピッチャーなのにやたら勉強が出来る。一見すべて無駄に見えるこの行為だって迷わなければOKだろう。最終目標(この例の場合プロ野球選手とでも定義しとく)へのベクトルがまっすぐ定まっているという確信が自分自身にあるのなら大いに無駄な行動もすべきだと思う。(これはあくまで極端な例だけど)

問題なのは、自分の行動に疑いを持つことだ。まじめに練習。まじめに禁煙。まじめに彼女作らない。まじめに野球一本筋。これらを徹底できる奴が実際にいるのかどーかは微妙なのだけど「まじめ」であることの強迫観念に囚われてしまう人の方が圧倒的に多いのが実のところだろう。

「僕はこーでなくてはならない」
「私はこーありたい、こーあるべきだ」
「立派になるために以上のプランを実践する必要がある」
「男たるものなんたらかんたら。。。」
「手段を選ばないのは卑怯」

とかよく使われやすい俺定義を並べてみても日本語、つーのは何故か強迫観念がかって見える。いや見えるというより実際そーなのだろう。つまり「まじめ」なのではなくて「まじめなフリ」をしてる人が大半なのだ。どこまでも透徹しきった聖人君主みたいな、キリスト様みたいな方も中にはいるかもしれない。ナチュラルに「まじめ」にすべてのプランを実行してしまえる超人もいるかもしれない。が、それは実際のところ限りなく少数派だと思われる。大抵の人は透徹であることを欲求しているだけだし、こうであるはずだ、と思い込みたいだけなのだ。

だから皆勤賞を逃せば自分の体のねじが一本なくなったような気がして、がっかりするし。サボることや、非道に走ることに躊躇を覚える。背徳心が芽生える。何か恐ろしい情景であったり卑怯極まりない行動を目にすれば「俺は(私は)こんな手段を選ばぬ人間にはならない。こんな酷いことはしない」というが本当は自分が、そーではないかもしれないことへの恐れが世の中の悪と定義されることへの嫌悪へとつながる。そもそも非道を行う勇気すらないのがスノッブのすばらしいところだ。

おっとまた話がまたメタ構造世界へ旅立つところだった。要するに最終目標がしっかり見据えられているのなら、道を踏み外す際、嘘で(表面上)取り繕う際に、迷うことはまずない、ありえない。内面と外界がしっかりシャットアウトできている人間は本気で嘘を貫き人をだませるだろう。だって最終目標がしっかり見据えられているのならどんなわき道だって、どんなやり口だって、自分自身に嘘をつくことはないのだから。そしてそーやってついた嘘は決して卑怯でもないし弱さでもない。そこで初めて圧倒的な絶対論が成立しえる。そしてんなもん誰も出来やしないのも事実なのだ。だってみんなに嫌われたくないモンね。みんなに認めてもらいたいモンね。

所詮は僕の理想論だし、肉体と精神の乖離を頭に入れてないナチズム的思考なのだけど(つまり僕自身が一番脅迫観念かかってる

     

2004年3月27日
最近イタイのばっか書いてるなあと思ったら熱出して寝込んでしまった。要するに疲れてただけかー。今日のK1はマンコだったな。ボクシングのほう(日本人の世界戦は正直面白くないと思うけど)がぜんぜん面白いのに何故みんな気づかんのか。
時々自分がとんでもなく冷たい人間なんじゃないかと感じる。今日の仕事の終際、祖母が具合が悪いというので、歳を考えるとちょっとしたことでも一大事になりかねないので家まで送っていったのだけどその間、僕にとって一番の優先事項が何だったのかと言うと実は「腹が減った」とかだったりして、祖母への心配と敬いの心は何でもいいので早く晩飯にありつきたい、という気分に押され気味だったりする。

僕は性根が多分「悪人にあこがれる甲斐性なし」だと思うので普段から毒を吐く訓練をしとかないとすぐ優男(駄目男)になってしまうので必死こいて悪ぶったこと書きまくって頑張ってるのだけど、んな機械的散文的なことばっか頭の中で思考してたせいか、これがもともとの本質なのかは微妙なところなのだけど現実での祖母の死やら両親の死、祖父の死、友人の死を目の前にしたとき悲壮にくれてやる自信が正直なところ、ない。

母方の祖父が死んだときも悲しまなかったし(ちょっとは悲しかったけど)、例えば明日、自殺願望の気配ちょい有りのとても仲の良い友人が首くくって逝きました、とか言う話を聞いても僕は機械的に頭の中を整理してしまうのではないかという気配がある、ような不安。

けれども最近思うのは、僕の人生におけるテーマはもともと「現象」であったのではないかと言うことで。世界から自分自身に至るまでの一括りをすべて「現象」として捕らえたい欲求があるわけで。僕はあくまで僕という現象でしかなくあくまで世界(セカイ)とやらを構成しているひとつのパーツに過ぎないのだと思いたいし、自我とか信念とか、そういう観念的な何かにすがりたくない。

自我の拡大がそのまま共同体の形成へと連なるから(だって故郷に帰結する、とか奮起してるナショナリスト気取りの人間だって結局自分自身が幸せになりたいだけだし)結果として人間全体は幸福になれないし、もともとありえもしない幸福なんて概念にすがらなくてはいけなくなる。救済も混沌も人が勝手に二元論化してバランスを図ってた便宜的な言葉でしかなかったはずなのにいつのまにかそこに帰属意識を感じてしまってる人たちが近代の傾向だったと思える、とか考えるとやっぱり僕は人間を「現象」以上のモノとして捕らえたくないと考えるようになった。それくらいに皆が情念を抑えてくれないと、本当に「実力」があるはずの人が可哀相だし、頑張った(フリ)をしてる人が認められたり、ヘンな人情話とかへりくだりが人間関係に浮かび上がってくるのは限りなく残酷で醜悪だと思えるわけで。(矛盾してるなあ

・・・
あー、いつのまにか話が遠くに逝っちゃったな。つまりこういう機械的かつ臨機応変な人間力を身につけたいと思ってるうちにいつのまにか人情味の薄い頭も薄い人間になっちまったのかなあ、と。でも最近の人って僕みたいな人増えたと思うのね。
ふむ、こういう一人相撲は見ていて恥ずかしながらも非常に厨房的かつセカイ的。セカイ系スレでも君は非常にセカイ系だとお褒めの言葉をいただいたわけだし、このような思考回路のことを「スーパーオナニズム」と命名してみてはいかがだろうか?ハイパーオナニズムとか
この前の日記の前半部は面と向かって言えなかったことを日記で愚痴ってた感じだな。自分としては叱咤激励のつもりだったが客観的に見て不愉快に感じる部分があるかもと思った。要点だけ抽出させてもらうなら「男なら他人に力を借りて何かをなそうとか思っちゃいかん」(絶対者をいくら求めても最終的な決定権とか勇気とか才能、努力なんてモノは自分次第なのだから)てことが書きたかったわけで。

D氏は「すごい奴がいない」と愚痴っていたがすごい奴がいないなら、まず探す努力をしたのか?、探す努力の前に現在の自分はどーなのか?、探し出して自分は何をなそうと言うのか?、ただ依存したいだけではないのか?、結局自分自身で成し遂げたかったことが何なのか?、その辺を見失ってるような気がした。

僕としては弱ってるD氏を感じてとても残念だった。自分の友人が弱気になってるだけなら愚痴も聞くし相談にだって乗るだろう。しかし彼の悩みはそもそもからして「矛盾」であり「イジケ」でしかありえなかった。

すべてを掌握したい欲望があるならば、どーして傍観者でいたいのか、傍観者でいたいのならどーして皆に認めてもらいたいのか、認めてもらいたいのならどーして渦中に飛び込もうとしないのか、リスクを背負う姿勢を見せないのか。「嫌いな人間がいたからバイトをやめた」というのはまさに厨房的、衝動的、行き当たりばったり人生だとしか言いようがない。将来に一体何の展望を抱いていたのか、と聞き返したくなる。やれることからやっていく我慢強さが必要だろう。

あるいは僕が全く知らないだけで彼も必死で努力したのかもしれない。親元でのうのうと暮らす僕にこういった発言権なんてものはそもそもからしてないのかもしれない。でもあの時点でのDが酷くかっこ悪かったのをどーしても見過ごすことが出来ないみたいだ。僕だっていじけてる人間だが、自分のやることに一貫性がないとは思わない。自分の度胸のなさと向かい合い、やれる範囲のレベルの計画の実行は進めていると断言できる。そーなるといよいよもっていじけてる暇すらなくなる。

世の中を恨むのならとことん恨んでもOKだろう。しかし、だったらそこにそもそもの「救い」を求めるのは贅沢だし、圧倒的破壊者として生きるのなら「理解」してもらおうなんてもってのほかだ。他者に依存するな。誰も救ってくれやしない。いくらでも利用するなら利用するでいいのだろう、でも依存しきってしまってはホントに何も出来なくなる。自分の決定権は他人にどーこーできるモノではない。結局のところ自分の道は自分自身で切り開くしかないのだと思う。

相変わらず喧嘩を売ったような日記だが、Dは自分自身を持続させる確固たる主体が必要だと心の底から思えるわけで。俺も。
僕は佐賀で友人のD君は山形に住んでいる。
もともと彼も佐賀にいたのだけどもD君は少しばかり荒唐無稽なところがあり山形に飛んで逝ってしまった。ちょっと言い回しがヘンだ。彼なりの決意を固めての旅立ちだったのだろうが、それでもこの前電話したときは弱っていた。僕も弱ってたので励ましてもらうつもりが励ますハメになった。まあ人間は便利に出来てるので自分より弱ってる相手がいるのを確認すると勝手な優越感で自己回復出来るものなのでそれでOKだったのだろう。

僕は男の子だし彼も男の子だから極端な話、酷い言い方をすれば彼が何時くたばったとしても、それは僕には関係のないことだ。あくまで僕は自己欲求を満たすために彼を利用するし、彼も同じであろう。これはおそらく僕たちの友情の形だ。そういう関係が好きだし、そういう友情が本当の友情だと思ってる。男が男のために命をかけるなんて男じゃないと思うからだ。男はあくまで孤高であるべきであり、友情がために覚悟を決めるべきではない。同姓はあくまで目的を争う競争者であるか、利用しやすい協力者であるかだけの問題でしかない。

ところで
突拍子もない勝手な妄想なのだけど、D君が例えば学校ではアイドル的存在でミナからもてはやされ、個人的にも萌え萌え(死)な女の子だったりして、まだ僕に貫通を許してなくて、しかしながらエロイボディを供えた女の子だったりしたら僕はどーしたのだろうか。それだけ弱ってるのなら、ともっと必死に励ましたのではないか。ていうか僕は彼女を愛してるかもしてない、とばかりに山形までぶっ飛んでたかもしれない。だって相手は女の子だ。寂しくて死にそうになってるのなら守ってあげないといけない。でもこれって愛なのか?モロに下半身で動いてる気がする。D君が女の子だったらもっと必死に励まして、D君が男だから自分でなんとかしろと叱責するのが僕だ。愛、てなんだ?愛とは下半身?

そもそもえらい人たちが考えた語源としてはダイレクトにエッチしたいです、と述べるのが恥ずかしくて恋に変換されたのかもしれない。恋とか友情とか親が子を観る保護欲とかモノに対する異様な執着心の総称として「愛」に変換されるのかな、とも思う。ストーカー的なことや憎悪もある種の「愛」の形なのかもな。だからこそ愛憎は表裏一体と呼ばれてるのだろう。

でも例えば、男が漢に惚れるとか、よくある男気の世界観として「俺はアンタに惚れたぜ」を「俺はあんたを愛したぜ」なんて変換したりするととホモセクシャルな世界観にどっぷりつかってしまう。これは矛盾だろう。この場においての「愛」は性欲的な意味合いしか持ち得ないわけで。

ボーイズラブとかアレもよく分からんのだけども、最終的に愛を高尚なところにアウフヘーベンしてのボーイズラブなのか、いや、あくまでこの男の子はあの男の子のアナルをファックしたいだけなのか、その辺が全く分からないので混乱する。女性作家のよくやるボーイズラブ、て結局なんなん?みたいな。

日本語は難しい。

くそー

2004年2月27日 趣味
絵を描くとき入りすぎると駄目だ。何度も経験した。未だに悪い癖だと思う。傍観的な目を少しは残しとかないとすんごい汚くなる。厨房が必死に書きなぐった長編小説みたいな痛々しさがある。入りすぎるあまりこれが自分の本質なのかと疑いたくなるしそれが本質ならば絶望するしかない。それは嫌だし誰もが僕の絵を嫌いになるだろう。僕自身も嫌いになる。オマエごときが分かったつもりで何芸術家気取ってンノ?て言われた気がしたりする。そして萎縮してまたビクビク何におびえてるのかわかんない絵が出来る

考察

2004年2月21日 趣味
抽象画はとにかく不規則なので難しい。絵の完成形のひとつの到達点というのはまず、統一性を持たせる、という点にあると思う。つまり法則性をもたせること。目の大きいデフォルメを効かせた可愛い萌えキャラを描く場合、その周辺にいる人間達の中に一人だけ北斗の拳みたいなごつい萌えキャラが混じっていればそれは違和感が出るし、その世界の法則において目というものが大きくなければ人物そのものが成立しえない、ということになるわけで。

カクカクした線でもって人物を統一するなら中にひとつだけ丸っこいラインの人物が存在するとまた違和感が出てくる。

彩色についても同じことが言える。陰影について影の部分を青、明るい部分を赤、と決定した場合、その法則に従い色をおいていかなければ一部分だけここは緑で逝こう、なんてやってみたり、明るい部分は赤、と決めたにもかかわらず青をのせたりすると、とても不規則な絵になって統合性が取れなくなり、絵に違和感が出てくる。もちろんある一部分を目立たせるために意図的に法則から逸脱する色をのせることもあるのだけど、まるっきり別々の色合いでまとめていくとどうしてもまとまりのない絵になってきてしまう。
具象画で表現する場合、たくさんの色を使って塗り固めていく遣り方は多分失敗の元だろうと思う。(陰影をちゃんと把握出来るプロ並に上手い人は別だけど僕みたいなトー素には単一色をベースにまとめたほうが統一感が出るんじゃないかな)

で、抽象画、てのはいわゆるその不統一性というものでもってして絵を統合しなくてはいけないからまた難しいのだと思う。不規則であり、法則性がない、という状態の統一性を保たなければならないんではないかと。不規則な規則、てなんだよ、て感じなのだけどロジカルに抽象画を紐解いていけばそういうことになるんじゃないかと思った。でないとどうして、何でもありなはずの抽象表現にこんなにも差が出てきてしまうのかが感覚として分かってるはずなのに言葉に変換できないというのは悔しいので。

カーセックル

2004年2月14日
今シュガーレイレナードとトーマスハーンズが電車の中で殴り合ってる絵をかいてんだけど、なんだかな
ガンダムAに載ってる元カプコンのイラストレーターだった人が描いた漫画。正直面白かった。これは確か。でも浮いてたね。で、コマワリがかなりアマチュアレベルっぽいと思う。でも結局絵はむちゃくちゃ上手いから神々しく見えてしまったり、これがakimanの魅力に違いない、なんて錯覚しちゃう僕もいたりするんだけども、やっぱ手抜きだよなあ。富樫漫画を思い出しちゃうくらい。これだけ手を抜いても面白いからこれが作風になっちゃったらそれはそれで何というか・・・他のまじめに緻密に一本一本線を描いてる漫画家の人としちゃ立場ないんじゃないかなあと思ったり。ああいう遣り方はakimanだから出来るのだと思うけど、絵が下手な人が遣ったりしたら絶対叩かれる遣り方だとも思た

今日の日記

2004年1月29日
ふと心理学の教科書についてたうつ病診断みたいのやってみたら見事一歩手前のとこまで進行してたのでこの調子でキチがえて佐賀から追い出してもらいたいなあ、とか希望もってるんだけどそう巧くはいかんかなあ。目指せサナトリウム、てなもんなんだが。ああ、隔離されちゃ意味ないよな。上京してーよー

屍鬼

2004年1月25日
小野不由美の屍鬼読んだ。オもろかったア。坊主の何もしなさっぷりもさることながら大量虐殺の描写は富野スキーの僕にとっては気分爽快。やっぱいいなあ虐殺。人間の腐った腸全部見えてくるもんね。
ああー、もっと虐殺系の作品見てえなあ。一番いいのは、すかっとあっさり瞬殺モノ。出来るだけ情緒ははさまず散文的にすらすら、と逝って貰いたい。

セカイ2

2004年1月19日
セカイ系には他者性が抜け落ちてるのだけれども
セカイ系作家は何故か考えてることが同じ、
セカイ系の奴らは決して友人として交わることはないのに、
主張してることが似通ってる。
セカイ系に傾倒しようと思ったのではないし活動したわけでもないのに最終的な物語の落としどころはセカイ系にならざるえなくなっている。
何でかと言うとすべてが八方塞になってきてるからではないかなと。

国家、駄目
政治、駄目
社会、駄目
故郷、駄目
家族、駄目
宗教、駄目
思想、駄目
友達、駄目

どこに行っても救いなんてないことにみんなおぼろげながら気づき始めたのではないかと。で、最後にはママンに甘えるしかないのかな(笑

セカイ

2004年1月8日
セカイ系と呼ばれる物語作品、別の言い方をするとポストエヴァンゲリオン症候群と揶揄されてるこのセカイ系と言う分野についてちょっと考えてみた。そもそもセカイ系のセカイ、と漢字で書く世界とどう違うのかについても仮説をぶち上げてみる。あくまで僕の勝手な仮説なのだけども多分

セカイ=自分が見ている世界(主観)
世界=神の視点(客観)

相対化させるとこういうことを言ってるのではないかと思われ。で、人ってのはセカイから世界へと視点を切り替えることは永遠にかなわないからこの分野を突き詰めてくと結局行き着く果てはメタ構造の心象セカイになっちゃうのではないかなと。

自分→彼女→世界へとまっすぐ世界そのものの構造に直結するセカイ系は間違った認識であり自分→彼女→家族→社会→地球→宇宙こそが正しい認識のあり方である、というのがセカイ系批判をしてる人たちの常套句なのだけれどもこれってでも、社会とか法とかそういう枠組みは人間が生きていくために意図的に定義したものでしかないものなわけで、主観を取っ払わずに見たときのものの本質としてはセカイ系の描いてる縮図こそが正しいものの見方ともいえなくはないのではないかと。社会に帰属することでしか生きていけないのが人間の真実なのだけどそれってやっぱ哀れだと思うのね。いくらよりそって、孤独感紛らわしたって結局人はセカイの枠からは死ぬまで脱却できないから。セカイは一人の人間の一人のセカイを超えることは永遠にかなわないから。

すでに社会にコミットされてしまったオヤジからすればノスタルジーを思い起こさせ、まだ社会の荒波を知らん若者には端的に絶望と希望を提示してくれる作品達、セカイ系。セカイ系=ヒキコモリ文学にもなるのも、また事実だろうけどセカイから目をそむけてしたり顔で世界情勢や政治、社会を語ってみるのも結構寂しいような気がする。孤独は容認するしかないよなあ。

※ああ、でも自分→彼女→世界、てあたりはまだ救い求めるのが分かって萎えるよな。クロスチャンネルみたいに亡命者として孤独を享受してしまえよ、とか思ったりもする。
人類最強、てなんだ?という話を究極的突き詰めていくとこうなると思われる↓

まず二人の人間が互いに素っ裸(もちろんノーパン)で地面(マットみたいな材質が理想?それともコンクリート並みの固さが良いのか?ここではあえてマットの方を選択)と空気と重力以外何もない空間で争い、互いに死ぬことによってのみ決着がつく、というルール

最強論には僕ももちろん興味はある。ただ、このルール上で行われる戦いを想像してみてとても面白いものだとはどうしても思えない。カルト宗教的雰囲気さえ漂ってる。異常だ。それでも最強は決するだろうけども。現時点だと多分有名どころでノゲイラみたいなタイプを更に究極化させて行った先に最強が見えてるのではないかと思われる。でもさ、良く考えてみろよ。パンチ力のないへなへなした手足の長いねちねちした戦いを繰り広げる人が人類最強と言われてもそれが事実でアレ、「あ、そうですか。それはよかったですねでもボクは殴り合いが見たいので」と遠慮したくなるのが僕の今の心境。それに寝技なんて喧嘩で使用する奴はいない。まあ人数そろえる奴が一番強いんだけどね。それより銃持ってる奴が最強でそれより強いやつは核武装してる奴なんだけどね。そうなるとね・・・なんだかな。

その競技内においてトップアスリートであることが一番大事なことなんじゃないかと思うんだよね。

曙は負けちゃったけども。ひねくれてて逆説的過ぎるかもしれないけど、最強論自体がやっぱり胡散臭いのも事実なんだと思う・・・


※寝技は寝技でそれはひとつのスポーツ体系だからそれは認める。最強論が多分そこに導き出される結果にむかついてはいるけど。シルビアとかレノックスみたいな長身の一発をもったストライカーにも可能性はあるんじゃないかと思うけど、てその話になるとまた宗教がかってきてキモイ話になる。だから最強論はキモイしアスリートでいいやん、と思ってしまう。気に入らないからだ。
割と神経さかなでるタイプなのかもしれない。現実のコミュニケーションにおいても僕は良く人に嫌な顔されるのでそれが悲しいのであんま人としゃべらない。しゃべれないわけじゃなくてしゃべらない。良く相手がキレるんだよね。何かと叱られる。現実的にヘマをやらかしたわけじゃないのに対話論をとかれる、つーか。人と接すときはもっとこうすべきだ、みたいに示唆される、つーか。よほど腐ってんのかなあ僕の思考回路としゃべり口調は、とか思ってるんだけどネット上でも割と嫌われ者臭くて、てことは文体に問題があるのか、とか考えてるんだけど、単に口が悪い、てことなのか。まあ割と正面きって腹立たしいことは口に出すからな。でも相手を怒らせないよう喧嘩腰で話したりはしない。あくまでにこの点においては君の考え方には反対だ、てのが理想な対話の持って行き方か。それでも叱られたりするのは要するにナメラれてるからだな。おまえ程度が俺様に意見するな、てことか。正論だと信じてることが頭ごなしに否定されると理詰めで考えてたはずのことが一発でパーになりそうでその辺ちょっといやだ。かなりいやだ。

人間は自分の持ってる知識と相手の持ってる知識の分野に隔たりがあることを頭に入れながら対話を進めていくべきだと思うね。後、人間性も考慮しなきゃいけない。相手がキレ安いタイプだとしたらあまり挑発的なこと言うべきじゃないね。挑発したつもりなかったんだが叱られたんだがナ、昨日は。人が必死になって何かを成し遂げようとする姿はかっこいいし、すばらしいと思うけど。必死に憎まれるのは嫌だ。アレは恐ろしいもので

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