モラレス負けたな。だんだん体系が馬場さん化してたし最近の試合振りはどこがエルテリブレなのか微妙なとこだったので実はあんまり驚いてない俺がいる。
今後期待してるカードはウラジミールクリチコ対サミュエルピーター、ジャーメインテイラー対バーナードホプキンス、ロイジョーンズ対アントニオターバーあたり。ジョーカルザゲ対ジェフレイシーには期待してたけど延期だとか。
順当に逝けばクリチコがピーターを退けるだろうけど30台のオサーンばかりのヘビー級に渇を入れて欲しいのでピーターを応援。前半たぶん結構打たれると思うけどピーターの無尽蔵(未知数だが)の打たれ強さに期待したい。で、クリチコのノミの心臓に期待したい。
テイラーめ、まったくテイラーめ。一回微妙な判定モノにしただけで名前が先に来るのかよ。テイラーめまったくテイラーめ。調子乗りすぎ。無慈悲なエクスキューション期待してますよホプキンス師匠。負けたら泣くorz
ロイは多分今回こそは苦しい試合になるだろう。前のように調子こいて近距離で打ち合いとかしたらまたぬっ殺されるのがオチだと思うし、アウトボクシングしようにも相手のほうが距離が長い。毎回距離を詰めては離れる運動量が必要になるが現在のスタミナの落ちたロイに12Rそれが出来るかどうかは激しく疑問だ。
カルザゲはまたこぶしを怪我したらしくレイシーとの対戦は来年に持ち越しだとか。カルザギは時間が空けばあくほどレイシーが強くなってって取り返しつかなくなりそうなのが怖くないんかなあ。いや怖いから延期なのか。レイシーのぶん回し連打にはいまいち美を感じないのでカルザギ兄貴の左ストレートで一蹴して欲しいんですけどねえ・・・
今後期待してるカードはウラジミールクリチコ対サミュエルピーター、ジャーメインテイラー対バーナードホプキンス、ロイジョーンズ対アントニオターバーあたり。ジョーカルザゲ対ジェフレイシーには期待してたけど延期だとか。
順当に逝けばクリチコがピーターを退けるだろうけど30台のオサーンばかりのヘビー級に渇を入れて欲しいのでピーターを応援。前半たぶん結構打たれると思うけどピーターの無尽蔵(未知数だが)の打たれ強さに期待したい。で、クリチコのノミの心臓に期待したい。
テイラーめ、まったくテイラーめ。一回微妙な判定モノにしただけで名前が先に来るのかよ。テイラーめまったくテイラーめ。調子乗りすぎ。無慈悲なエクスキューション期待してますよホプキンス師匠。負けたら泣くorz
ロイは多分今回こそは苦しい試合になるだろう。前のように調子こいて近距離で打ち合いとかしたらまたぬっ殺されるのがオチだと思うし、アウトボクシングしようにも相手のほうが距離が長い。毎回距離を詰めては離れる運動量が必要になるが現在のスタミナの落ちたロイに12Rそれが出来るかどうかは激しく疑問だ。
カルザゲはまたこぶしを怪我したらしくレイシーとの対戦は来年に持ち越しだとか。カルザギは時間が空けばあくほどレイシーが強くなってって取り返しつかなくなりそうなのが怖くないんかなあ。いや怖いから延期なのか。レイシーのぶん回し連打にはいまいち美を感じないのでカルザギ兄貴の左ストレートで一蹴して欲しいんですけどねえ・・・
やっぱり何度か考えてみるに事象は代替可能なものと代替不可能なものをはらんでるのだなと思い直した。
黒人はやっぱりボクシング強いし日本人は柔道が強い。すべてがそのように代替可能であって、あるようにある、のであるなら住んでいる土地や環境で人間の生き方や宗教がそうそう違ってくるはずもないのに、一神教と多神教ではやはり理念も考え方も違う。その人種によって向いている文化も違うのだ。これは代替不可能なものだ。
トラウマが必要以上に恐ろしければ、やっぱりそれは人生のバックボーンとなるものではなく、記憶を封印したいほどの重たい真実としてのトラウマになるだろう。主体的な側面だけじゃなくて環境いかんでも、人間は左右されて生きていく。
周りが秀才ばっかりだと自分も影響されて賢くなるし、馬鹿ばっかりだとやっぱり自分も馬鹿になる。中には突然変異体の天才が時々生まれるけれどこれも蓋然的でしかなくて確定的なわけじゃない。ただ、いつの時代もやっぱり天才は天才だっただろう。これもやっぱり真実で。
だから、環境のせいにしていじけるのも、自分の実存の至らなさを嘆くのも、どっちも真実性の側面をはらんではいるけど、どちらも真実それ自体には至らないということだ。
で、多分、僕たちの世代は現在の自分の至らなさを「環境のせいにしていじける」ような人が多いような気がするんだな。もう少し自分の主体性に問題がなかったかを省みるべきなのではないだろうか。つまり、僕が自身のトラウマだと思っている程度の高校時代の苦痛なんて、なにくそ根性で跳ね返せるレベルの絶望でしかないんじゃないかと思うわけだ。なにくそ根性でひっくり返したい。
黒人はやっぱりボクシング強いし日本人は柔道が強い。すべてがそのように代替可能であって、あるようにある、のであるなら住んでいる土地や環境で人間の生き方や宗教がそうそう違ってくるはずもないのに、一神教と多神教ではやはり理念も考え方も違う。その人種によって向いている文化も違うのだ。これは代替不可能なものだ。
トラウマが必要以上に恐ろしければ、やっぱりそれは人生のバックボーンとなるものではなく、記憶を封印したいほどの重たい真実としてのトラウマになるだろう。主体的な側面だけじゃなくて環境いかんでも、人間は左右されて生きていく。
周りが秀才ばっかりだと自分も影響されて賢くなるし、馬鹿ばっかりだとやっぱり自分も馬鹿になる。中には突然変異体の天才が時々生まれるけれどこれも蓋然的でしかなくて確定的なわけじゃない。ただ、いつの時代もやっぱり天才は天才だっただろう。これもやっぱり真実で。
だから、環境のせいにしていじけるのも、自分の実存の至らなさを嘆くのも、どっちも真実性の側面をはらんではいるけど、どちらも真実それ自体には至らないということだ。
で、多分、僕たちの世代は現在の自分の至らなさを「環境のせいにしていじける」ような人が多いような気がするんだな。もう少し自分の主体性に問題がなかったかを省みるべきなのではないだろうか。つまり、僕が自身のトラウマだと思っている程度の高校時代の苦痛なんて、なにくそ根性で跳ね返せるレベルの絶望でしかないんじゃないかと思うわけだ。なにくそ根性でひっくり返したい。
うほ
2005年9月10日トラックバックとやらの使い方が分からない。ごくたまにトラックバックしてくれたりしてくれてる人には微妙に申し訳なかったりする。礼儀としてはどーすりゃいいのかな?向こうにもはっつければよいのだろうか?
ローゼンメイデン占いしたら銀様だったよ。ひゃっほーい。
http://u-maker.com/108189.html
ローゼンメイデン占いしたら銀様だったよ。ひゃっほーい。
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よつばと! 4 (4)
2005年9月9日 アニメ・マンガ
ISBN:484023163X コミック あずま きよひこ メディアワークス 2005/08/27 ¥630
最近こんなんばっかり買ってるな。もうやることないからな。時代という物語は最終回迎えたのに、世界という物語は相変わらず続いてて、そんな終わらない世界に生れ落ちたオタクはこんなん読んでぬるく生きるしかないんだよな。終わりなき日常を生き抜くための教科書みたいな漫画だよ。
あずまんが大王の系譜を次いだ漫画は今、ひとつのジャンルとして成立しつつあっていろいろあるんだけど、この漫画家はすでにもうワンステップ先に逝ってる。つか、あずまんが大王はそんなに好きじゃなかったんだけど、よつばとはすげえ面白い。オタクじゃなくても楽しめるオタク漫画だろう。
ストーリーは皆無。ただいつまでも終わらない日常が続いていくだけ。しかしそれは箱庭のセカイ的な狭さをはらんだものでもなくシニカルな絶望をはらんでいるわけでもない。ただ、その終わらない日常を面白おかしく、肯定も否定もなく、穏やかにギャグテイストに描き綴られてる。
ギャグとそのコマの間の取り方が絶妙。で、ちょうどいいさじ加減で萌えがミックスされてるからすげーよ。この絶妙なバランス感覚はどっから生まれるんだろう。
個人的には風香がかなり萌え。眉毛太かったり、ちょっと横っ腹余ってたり、服のセンス変だったり、空気読めなかったりとマニアックなエロ可愛さがあるよ。ぐひひ
最近こんなんばっかり買ってるな。もうやることないからな。時代という物語は最終回迎えたのに、世界という物語は相変わらず続いてて、そんな終わらない世界に生れ落ちたオタクはこんなん読んでぬるく生きるしかないんだよな。終わりなき日常を生き抜くための教科書みたいな漫画だよ。
あずまんが大王の系譜を次いだ漫画は今、ひとつのジャンルとして成立しつつあっていろいろあるんだけど、この漫画家はすでにもうワンステップ先に逝ってる。つか、あずまんが大王はそんなに好きじゃなかったんだけど、よつばとはすげえ面白い。オタクじゃなくても楽しめるオタク漫画だろう。
ストーリーは皆無。ただいつまでも終わらない日常が続いていくだけ。しかしそれは箱庭のセカイ的な狭さをはらんだものでもなくシニカルな絶望をはらんでいるわけでもない。ただ、その終わらない日常を面白おかしく、肯定も否定もなく、穏やかにギャグテイストに描き綴られてる。
ギャグとそのコマの間の取り方が絶妙。で、ちょうどいいさじ加減で萌えがミックスされてるからすげーよ。この絶妙なバランス感覚はどっから生まれるんだろう。
個人的には風香がかなり萌え。眉毛太かったり、ちょっと横っ腹余ってたり、服のセンス変だったり、空気読めなかったりとマニアックなエロ可愛さがあるよ。ぐひひ
女のヒステリーてなんで起こるんだろうな。多分単純明快に書けば、抑圧された精神の解放とか発奮とかそんなのが一気に爆発するようなのが女のヒステリーの正体なのだろう。心理学勉強してないから体系だててはわかんないけども。
で、男衆のたいてはこの女特有のストレスの開放に嫌悪感を示す。こんなやばい女と付き合いたくない、と言い出す。でも考えてみればヒステリーもちでない女を捜すほうがずっと難しい。突如として情緒不安定にならない女のほうを見たことがないよ俺は。BLOGを見て回ってみれば大体わかるけど、女は男のヒステリーに対する不寛容さとか気心の配慮のなさにぶちきれてるし、男は女のヒステリーにむかついてるし、自意識過剰っぷりに腹を立てている。
僕の友人はそろって「女は云々かんぬん・・・」とぶちぶち文句たれるし、つくづく思うんだが、もう駄目なんじゃねーか「恋愛」というやつは、と思えてくる。
誰だよ、恋愛はすばらしいとか抜かしてるハナクソはまったく。
何でこうも恋愛がうまくいかなくなったかの理由はやっぱり単純明快で、もともと人間がそうであるから、だとしか思えない。動物を見てもわかるけど♂は♀とセックスするだけすればさっさとまた別の♀の元にセックスしに行くわけだ。これが動物の原理で、そこに結婚だとかカップルなどというシステムは介在しない。つまり男はあっちこちとセックスしたくなるわけで女がいちいちそこに独占欲を出したり、女があっちやこっちの男とギシアンしてたところでそれを制限する権利も男にはない。ただ、そうしたもともと人間にある本能と相反する形で制度が義務付けられているに過ぎない。
フーコーは人間はみんなゲイになるべきだと主張する。本来的に見れば人はあらゆるものに性衝動を感じる生き物なのだそうだ。それが制度や教育システムによって去勢された結果としてロリコン駄目、近親相姦駄目、ゲイ駄目、死姦駄目、スカトロ駄目、触手駄目、強姦駄目、ネコミミ駄目、とかそういった「狂気」が誕生したのだという。(若干変なのが混じってるが気にするな)「駄目なもの」を誕生させることによってもともと容認されていた動物的な感性は「狂気」という形で社会からスポイルされてしまい、そしてその制限を捏造された「狂人」が疎外されたまま現代にいたる。もともと古代ギリシャのアテナイでは普通に同性愛がまかり通ってたらしいですよ。
現代の萌えオタク文化の誕生もこういった抑圧された性への欲望が表面化しただけの話だといえるだろう。想像力ならぬ、妄想力の足らぬアメ工どもの共同体は有名人が自己アピールしたいがためにゲイをカムアウトするという、悲惨を極める病理社会に没入してるわけだが。
非モテのルサンチマンとか以前に人間一人一人に表面化してきた自意識(自我)がそもそも異性を拒絶するように出来てしまってるのだろう。人間は本来的に、ある特定の人間を愛すようには出来ていない。にもかかわらず結婚があるのは、そうでないと寂しくて生きられないからだ。自分と思い出を誰かと一緒に共有したいからだ。病気したときとかに誰かにそばにいてほしいからだ。でも、間違えてもそこに「お前は俺の自意識(苦労や不幸、思想)を理解しろ」という品性もクソもない「相互理解」の押し付けを挿入してはならないと思う。そんなことをすれば人はまたくだらない敵愾心を異性間の間で勃発させることとなる。
そんなことやる暇があるならエロゲーやれ、と。そういうことだ。胡散臭い自意識にトラウマの捏造くらいはしてくれる便利なツールだ。使わない手はない。自分の抑えられない醜い自意識の欲望は仮想現実に投げ出してしまえ。せめて人の前にたつときくらいハイソなセクシュアリティをもって接すべきだろう。僕たちに必要なのは仮想現実と現実の相互補完であり、決して幻想的で破滅的な永遠の愛を奏でることじゃあないと思う。
で、男衆のたいてはこの女特有のストレスの開放に嫌悪感を示す。こんなやばい女と付き合いたくない、と言い出す。でも考えてみればヒステリーもちでない女を捜すほうがずっと難しい。突如として情緒不安定にならない女のほうを見たことがないよ俺は。BLOGを見て回ってみれば大体わかるけど、女は男のヒステリーに対する不寛容さとか気心の配慮のなさにぶちきれてるし、男は女のヒステリーにむかついてるし、自意識過剰っぷりに腹を立てている。
僕の友人はそろって「女は云々かんぬん・・・」とぶちぶち文句たれるし、つくづく思うんだが、もう駄目なんじゃねーか「恋愛」というやつは、と思えてくる。
誰だよ、恋愛はすばらしいとか抜かしてるハナクソはまったく。
何でこうも恋愛がうまくいかなくなったかの理由はやっぱり単純明快で、もともと人間がそうであるから、だとしか思えない。動物を見てもわかるけど♂は♀とセックスするだけすればさっさとまた別の♀の元にセックスしに行くわけだ。これが動物の原理で、そこに結婚だとかカップルなどというシステムは介在しない。つまり男はあっちこちとセックスしたくなるわけで女がいちいちそこに独占欲を出したり、女があっちやこっちの男とギシアンしてたところでそれを制限する権利も男にはない。ただ、そうしたもともと人間にある本能と相反する形で制度が義務付けられているに過ぎない。
フーコーは人間はみんなゲイになるべきだと主張する。本来的に見れば人はあらゆるものに性衝動を感じる生き物なのだそうだ。それが制度や教育システムによって去勢された結果としてロリコン駄目、近親相姦駄目、ゲイ駄目、死姦駄目、スカトロ駄目、触手駄目、強姦駄目、ネコミミ駄目、とかそういった「狂気」が誕生したのだという。(若干変なのが混じってるが気にするな)「駄目なもの」を誕生させることによってもともと容認されていた動物的な感性は「狂気」という形で社会からスポイルされてしまい、そしてその制限を捏造された「狂人」が疎外されたまま現代にいたる。もともと古代ギリシャのアテナイでは普通に同性愛がまかり通ってたらしいですよ。
現代の萌えオタク文化の誕生もこういった抑圧された性への欲望が表面化しただけの話だといえるだろう。想像力ならぬ、妄想力の足らぬアメ工どもの共同体は有名人が自己アピールしたいがためにゲイをカムアウトするという、悲惨を極める病理社会に没入してるわけだが。
非モテのルサンチマンとか以前に人間一人一人に表面化してきた自意識(自我)がそもそも異性を拒絶するように出来てしまってるのだろう。人間は本来的に、ある特定の人間を愛すようには出来ていない。にもかかわらず結婚があるのは、そうでないと寂しくて生きられないからだ。自分と思い出を誰かと一緒に共有したいからだ。病気したときとかに誰かにそばにいてほしいからだ。でも、間違えてもそこに「お前は俺の自意識(苦労や不幸、思想)を理解しろ」という品性もクソもない「相互理解」の押し付けを挿入してはならないと思う。そんなことをすれば人はまたくだらない敵愾心を異性間の間で勃発させることとなる。
そんなことやる暇があるならエロゲーやれ、と。そういうことだ。胡散臭い自意識にトラウマの捏造くらいはしてくれる便利なツールだ。使わない手はない。自分の抑えられない醜い自意識の欲望は仮想現実に投げ出してしまえ。せめて人の前にたつときくらいハイソなセクシュアリティをもって接すべきだろう。僕たちに必要なのは仮想現実と現実の相互補完であり、決して幻想的で破滅的な永遠の愛を奏でることじゃあないと思う。
あやかしびと 通常版
2005年9月7日 ゲーム
DVD-ROM propeller 2005/06/24 ¥9,240
ネタバレ有なので注意してくだせえ。
すず編のH終わったあとくらいまで話を進めた。なんかあまりの超シナリオっぷりに、一応最後までプレイしきるつもりだけど、これからどんな結末迎えてもさして俺の感想は変わらんだろうと思ったので書いてみる。
悪いところから書くと、このシナリオライターに色恋沙汰の話は無理っぽいなというところかな。出てくる女キャラにはことごとく萌えない。愛憎どろどろ劇らしい「君が望む永遠」とかをプレイしたことないからわからないけど俺は「女の嫉妬」が全面的に物語りを起動させるトリガーになってるシナリオはどうも好きになれない。あくまで個人的嗜好のだけど、マッチョイズムに反してるからだ。
で、出てくる女出てくる女すべてがガンダム0083に出てくる二ナパープルトン(本当は二ナのどこがキモイのかよう知らんけど)ばりのキモさ全快ですよ。しかもメインヒロインである如月すずが致命的に性格悪すぎ。よくこんなに性格の捻じ曲がった意味わからん女をメインに持ってくる気になれたなと。おかげでラストまでのエピソードを続けるのが苦痛で仕方がない。
だってさあ、
レイプ未遂される→主人公(双七)に間一髪助けられる→何故か記憶喪失→主人公や今までの友達を敵視する→逆ギレした友達(おかっぱ)に殴られる→「二度と姿を現すな」と言霊をつかせる→なんかいろいろあって双七と和解→唐突に記憶回復→双七君好き→言霊のせいで双七君とおかっぱが苦しむ羽目に→尻尾を切れば言霊は消滅、その代わり天国逝けない上に母親に会えな(ry→尻尾を切ると選択→人でもあやかしでもない「あやかしびと」となる→なんか唐突にセックス
ああもうワケわからん。こんなわけわからん展開で物語全体を象徴させる大事な題名の「あやかしびと」が誕生するわけか。そりゃねーだろと。この物語はいつからシュールレアリスムの世界に向かったんだろう。いくらなんでも超過ぎるだろう。ある程度の超展開は容認できる俺が容認できないから相当なレベルの超脚本ぶりに違いない。つか天国なんて概念があるなら、いちいち「母様を殺した人間がにくい」とかすずがいってる意味がまたわけわかんねー。
あとHシーンが余りに唐突でグロイよ。あれだけ普通に会話してて、いきなり戦闘中の合間を縫ってセックスしだしたりザーメンかけて〜とか言い出したり、オマンコ、オマンコ逝く〜とか言われたらさすがに萎えるよちんぽたたねえよ(’A`)誰なんだよこの恥女どもは、てなるよ。セックルシーンだけ別のライターが書いてたりするオチなのか?
まあ、頑張ってプレイしたかいがあるのは男性キャラがみんな結構カッコイイとこだろうな。かなり少年漫画なノリだけど板垣恵一先生や梶原一騎先生が描く様な、「もうあっしの男レベルではついていけねえっす」、てレベルの男っぷりじゃなくて、なんかまあ割とライトでスマートなカウボーイビバップくらいの男っぷりは堪能できるかな。前半部分のチープでとってつけたようなオタフィクション学園ラブコメとかメインヒロインたちの致命的な萌えなさを考えると、最初っから男度を前面に押し立ててバトル→敗北→修行→再バトル→勝利の少年漫画の王道的な物語にしてたほうがもっと熱いシナリオが堪能できた気がする。中途半端に腐女子人気をてらってたり(まあこの点はまだいいけど)、中途半端に萌えオタ層に媚売ってたり(ここは完全に足を引っ張ってると思う)、中途半端にトラウマ演出だったりしてて、結局無駄なテキストが多すぎで、時間の足りない社会人の方々にはたいそう苦痛を与える話ではないかと思えてくる。
とにかく、このライターさんには萌えを描く才能はなさげなんで次作はもっと少年漫画な努力、友情、根性なノリの話をお願いしたいっすよ。後半のバトルパートがたいそう面白いだけにとにかく女が邪魔で邪魔で邪魔。むしろ大悪司ばりにHしたら即捨てる、くらいの、本宮ひろ志先生ばりに、「け、がばがばのオマンコしやがって」なんて吐いて捨てるような台詞をぶちかますようなマチズム根性あったっていい気がする、妙にフェミな流れがあるから、「愛し合う」ということと「強くなる」ということとがぜんぜんまとまりに欠けていて、むしろ足を引っ張り合う形になってると思う。で、正直、愛の定義についてはかなりシナリオも理論展開も稚拙だと思うのでそっちはばっさり切っちゃった方が僕はいいと思うなあ。
プレイ後の感想↓
9月22日
あやかしびと、全部クリアした。相も変わらずの超テキストには、もう目を瞑るしかあるまい。「考えるな感じるんだ」を実行したら一気に楽しめた。もう最後はゴジラも真っ青な怪獣大決戦になったのには呆れるのを通り越して小宇宙を感じましたよ。で別ルートだけどなんか九鬼先生が死んで「うおーなんで空はこんなに青いんだよー泣いてくれたっていいじゃまいかー」ぽいこと言いながら、すずから電話があると即座にあっさり立ち直る双七のメンタリティには情熱の国ブラジルの魂を感じた。セックスも濃いしね!俺みたいな軟弱…!とはぜんぜん別の人種ということだったということですね。九鬼先生も殺されたらあっさり改心しちゃうところが日本男児のそれとは違ってフランクなノリでよかったよ。いったいなんにこのオヤジはむかついてたんだろうというツッコミを許さない雰囲気がすげーよ。いろんな意味でフロンティア精神を感じる一作だった。
ネタバレ有なので注意してくだせえ。
すず編のH終わったあとくらいまで話を進めた。なんかあまりの超シナリオっぷりに、一応最後までプレイしきるつもりだけど、これからどんな結末迎えてもさして俺の感想は変わらんだろうと思ったので書いてみる。
悪いところから書くと、このシナリオライターに色恋沙汰の話は無理っぽいなというところかな。出てくる女キャラにはことごとく萌えない。愛憎どろどろ劇らしい「君が望む永遠」とかをプレイしたことないからわからないけど俺は「女の嫉妬」が全面的に物語りを起動させるトリガーになってるシナリオはどうも好きになれない。あくまで個人的嗜好のだけど、マッチョイズムに反してるからだ。
で、出てくる女出てくる女すべてがガンダム0083に出てくる二ナパープルトン(本当は二ナのどこがキモイのかよう知らんけど)ばりのキモさ全快ですよ。しかもメインヒロインである如月すずが致命的に性格悪すぎ。よくこんなに性格の捻じ曲がった意味わからん女をメインに持ってくる気になれたなと。おかげでラストまでのエピソードを続けるのが苦痛で仕方がない。
だってさあ、
レイプ未遂される→主人公(双七)に間一髪助けられる→何故か記憶喪失→主人公や今までの友達を敵視する→逆ギレした友達(おかっぱ)に殴られる→「二度と姿を現すな」と言霊をつかせる→なんかいろいろあって双七と和解→唐突に記憶回復→双七君好き→言霊のせいで双七君とおかっぱが苦しむ羽目に→尻尾を切れば言霊は消滅、その代わり天国逝けない上に母親に会えな(ry→尻尾を切ると選択→人でもあやかしでもない「あやかしびと」となる→なんか唐突にセックス
ああもうワケわからん。こんなわけわからん展開で物語全体を象徴させる大事な題名の「あやかしびと」が誕生するわけか。そりゃねーだろと。この物語はいつからシュールレアリスムの世界に向かったんだろう。いくらなんでも超過ぎるだろう。ある程度の超展開は容認できる俺が容認できないから相当なレベルの超脚本ぶりに違いない。つか天国なんて概念があるなら、いちいち「母様を殺した人間がにくい」とかすずがいってる意味がまたわけわかんねー。
あとHシーンが余りに唐突でグロイよ。あれだけ普通に会話してて、いきなり戦闘中の合間を縫ってセックスしだしたりザーメンかけて〜とか言い出したり、オマンコ、オマンコ逝く〜とか言われたらさすがに萎えるよちんぽたたねえよ(’A`)誰なんだよこの恥女どもは、てなるよ。セックルシーンだけ別のライターが書いてたりするオチなのか?
まあ、頑張ってプレイしたかいがあるのは男性キャラがみんな結構カッコイイとこだろうな。かなり少年漫画なノリだけど板垣恵一先生や梶原一騎先生が描く様な、「もうあっしの男レベルではついていけねえっす」、てレベルの男っぷりじゃなくて、なんかまあ割とライトでスマートなカウボーイビバップくらいの男っぷりは堪能できるかな。前半部分のチープでとってつけたようなオタフィクション学園ラブコメとかメインヒロインたちの致命的な萌えなさを考えると、最初っから男度を前面に押し立ててバトル→敗北→修行→再バトル→勝利の少年漫画の王道的な物語にしてたほうがもっと熱いシナリオが堪能できた気がする。中途半端に腐女子人気をてらってたり(まあこの点はまだいいけど)、中途半端に萌えオタ層に媚売ってたり(ここは完全に足を引っ張ってると思う)、中途半端にトラウマ演出だったりしてて、結局無駄なテキストが多すぎで、時間の足りない社会人の方々にはたいそう苦痛を与える話ではないかと思えてくる。
とにかく、このライターさんには萌えを描く才能はなさげなんで次作はもっと少年漫画な努力、友情、根性なノリの話をお願いしたいっすよ。後半のバトルパートがたいそう面白いだけにとにかく女が邪魔で邪魔で邪魔。むしろ大悪司ばりにHしたら即捨てる、くらいの、本宮ひろ志先生ばりに、「け、がばがばのオマンコしやがって」なんて吐いて捨てるような台詞をぶちかますようなマチズム根性あったっていい気がする、妙にフェミな流れがあるから、「愛し合う」ということと「強くなる」ということとがぜんぜんまとまりに欠けていて、むしろ足を引っ張り合う形になってると思う。で、正直、愛の定義についてはかなりシナリオも理論展開も稚拙だと思うのでそっちはばっさり切っちゃった方が僕はいいと思うなあ。
プレイ後の感想↓
9月22日
あやかしびと、全部クリアした。相も変わらずの超テキストには、もう目を瞑るしかあるまい。「考えるな感じるんだ」を実行したら一気に楽しめた。もう最後はゴジラも真っ青な怪獣大決戦になったのには呆れるのを通り越して小宇宙を感じましたよ。で別ルートだけどなんか九鬼先生が死んで「うおーなんで空はこんなに青いんだよー泣いてくれたっていいじゃまいかー」ぽいこと言いながら、すずから電話があると即座にあっさり立ち直る双七のメンタリティには情熱の国ブラジルの魂を感じた。セックスも濃いしね!俺みたいな軟弱…!とはぜんぜん別の人種ということだったということですね。九鬼先生も殺されたらあっさり改心しちゃうところが日本男児のそれとは違ってフランクなノリでよかったよ。いったいなんにこのオヤジはむかついてたんだろうというツッコミを許さない雰囲気がすげーよ。いろんな意味でフロンティア精神を感じる一作だった。
DVD ジェネオン エンタテインメント 2004/11/25 ¥3,990 士郎正宗が1985年に発表したメジャーデビュー作『アップルシード』を、『ピンポン』の曽利文彦プロデュース、『バブルガムクライシス』の荒牧伸志監督でアニメ化。1988年にも一度OVA化されているが、今作では全編CGの“3Dライブアニメ”として、CGならではのスピード感とモーションキャプチャーゆえの“間”のある演技、そしてセルアニメゆずりの豊かな表情を実現した。
いまさら観たけどぜんぜん期待してなかったので意外と楽しめた。でも設定が80年代後半というか90年代初頭の匂いがプンプンしてたので映像の割には扱ってるテーマが古いかなと思う。士郎正宗自体あまり詳しくないんでその辺あーだこーだいえないんだけども。原作は確かかなり昔の漫画だったよなあ?
面白かったのは心底悪い人が誰もいないところかな。みんな世界の未来のためを思ってるのに結局戦争がなくならない部分。人とバイオロイドの共存という古いけどいまだに解決できてない人種間の差別問題のメタファーの構造は何度やってもやりすぎにはならんだろう。実態としての戦争はなくならないけど虚構的な日常において問題なのが僕と彼女のセカイの問題なんだが(w)そんなものとは程遠い、いい意味で暑苦しい希望の物語だった。
こういった大きな物語を喚起させる作品を楽しむこととニヒルに大きな物語の亡霊を傍観的に眺める視点とは切り離して楽しむべきなんだろうな。最近めっきり「物語」を楽しめなくなった自分にはもうちょっと単純にロマンを楽しむ余裕が必要なのかもしれない。
いまさら観たけどぜんぜん期待してなかったので意外と楽しめた。でも設定が80年代後半というか90年代初頭の匂いがプンプンしてたので映像の割には扱ってるテーマが古いかなと思う。士郎正宗自体あまり詳しくないんでその辺あーだこーだいえないんだけども。原作は確かかなり昔の漫画だったよなあ?
面白かったのは心底悪い人が誰もいないところかな。みんな世界の未来のためを思ってるのに結局戦争がなくならない部分。人とバイオロイドの共存という古いけどいまだに解決できてない人種間の差別問題のメタファーの構造は何度やってもやりすぎにはならんだろう。実態としての戦争はなくならないけど虚構的な日常において問題なのが僕と彼女のセカイの問題なんだが(w)そんなものとは程遠い、いい意味で暑苦しい希望の物語だった。
こういった大きな物語を喚起させる作品を楽しむこととニヒルに大きな物語の亡霊を傍観的に眺める視点とは切り離して楽しむべきなんだろうな。最近めっきり「物語」を楽しめなくなった自分にはもうちょっと単純にロマンを楽しむ余裕が必要なのかもしれない。
DVD レントラックジャパン 2004/12/22 ¥4,935 ロビン西による原作コミックを、『アニマトリックス』などで知られるSTUDIO4℃の制作でアニメ化。監督は、劇場版『クレヨンしんちゃん』などでその独特のセンスをアピールし、OVA『ねこぢる草』なども手がけた湯浅政明。初恋の人・みょんちゃんと偶然再会した主人公・西は、その夜一度死ぬが甦り、やがてみょんやその姉・ヤンとともにクジラの腹の中で暮らす羽目に…。
ワケ分からん勢いのままワケ分からんノリで一気に終局まで駆け抜けるアニメだった。これだけ気が狂ってるアニメをやるなら、妙なメッセージ性(らしきもの)が入ってくるのがちと残念な気がする。「俺はここから抜け出して、いろんな人生を送りたい」みたいなそんな台詞。抜け出した先が無限ループにコネクトされてるというオチがまたちょっとね…。嫌いじゃないんだが、破天荒な物語に押井オチが待っててもそれほど驚かせられないというかフーンという感じで最後がちょっと醒めちゃったよ。
あと絵が奇抜すぎて情報の回転速度が速過ぎて、目が痛くなることは間違いない。ピカチュウの放電で失神しちゃうような人にはオススメしない。見たらかなり疲れるから。これを心地よい疲れ、とするか、ゲロ吐きたくなったからもう2回目は観なくてもいいかな、となるかがこの作品を好きになれるかどーかの境目な気がする。僕は残念ながら後者だった。嫌いじゃなかったけど、2回目を観たいとは思わなかった。でもまあ、アニメが好きな人は1度は観といたほうがいいだろう。かなり強烈なインパクトがそれだけあるので、この作品を観て俺の人生観が変わった!とかいう人がいてもおかしかないくらいに強烈であることには間違いない。
ワケ分からん勢いのままワケ分からんノリで一気に終局まで駆け抜けるアニメだった。これだけ気が狂ってるアニメをやるなら、妙なメッセージ性(らしきもの)が入ってくるのがちと残念な気がする。「俺はここから抜け出して、いろんな人生を送りたい」みたいなそんな台詞。抜け出した先が無限ループにコネクトされてるというオチがまたちょっとね…。嫌いじゃないんだが、破天荒な物語に押井オチが待っててもそれほど驚かせられないというかフーンという感じで最後がちょっと醒めちゃったよ。
あと絵が奇抜すぎて情報の回転速度が速過ぎて、目が痛くなることは間違いない。ピカチュウの放電で失神しちゃうような人にはオススメしない。見たらかなり疲れるから。これを心地よい疲れ、とするか、ゲロ吐きたくなったからもう2回目は観なくてもいいかな、となるかがこの作品を好きになれるかどーかの境目な気がする。僕は残念ながら後者だった。嫌いじゃなかったけど、2回目を観たいとは思わなかった。でもまあ、アニメが好きな人は1度は観といたほうがいいだろう。かなり強烈なインパクトがそれだけあるので、この作品を観て俺の人生観が変わった!とかいう人がいてもおかしかないくらいに強烈であることには間違いない。
Rozen Maiden 5 (5)
2005年9月4日 アニメ・マンガ
ISBN:4344806204 コミック PEACH-PIT 幻冬舎 2005/08/24 ¥620
銀様かわいいよ銀様な5巻。アニメ版2期には銀様が出ないということで大変憤慨ものですが、銀様好きなエロイ人は買って損はないだろう。JUM君は頑張って登校しようと試みますが空気読めない熱血先生に励ましの言葉をかけられて一気に萎え萎えになって再度ヒキコモリストに。精神的なタフネスのたらねえ野郎だな、けっ、とか正直思うけど。つーか社会全体にヒッキーが繁殖してる理由とJUM君的な繊細な心の持ち主がヒッキー化する理由は微妙に違う気がする。前者は多分「めんどくさい」が本当の理由だろう。JUM君みたいな心やさしい子はもともと昔からヒッキーだったと思うよ。現代社会のヒッキーの心はきっともっとどす黒いよ。そんなにトラウマーでもないよ。
あと妙に形而上信仰の強い本だなこれ。
まあ銀様と真紅様が可愛ければそんなこたあどーでもいいんだけどね。
銀様かわいいよ銀様な5巻。アニメ版2期には銀様が出ないということで大変憤慨ものですが、銀様好きなエロイ人は買って損はないだろう。JUM君は頑張って登校しようと試みますが空気読めない熱血先生に励ましの言葉をかけられて一気に萎え萎えになって再度ヒキコモリストに。精神的なタフネスのたらねえ野郎だな、けっ、とか正直思うけど。つーか社会全体にヒッキーが繁殖してる理由とJUM君的な繊細な心の持ち主がヒッキー化する理由は微妙に違う気がする。前者は多分「めんどくさい」が本当の理由だろう。JUM君みたいな心やさしい子はもともと昔からヒッキーだったと思うよ。現代社会のヒッキーの心はきっともっとどす黒いよ。そんなにトラウマーでもないよ。
あと妙に形而上信仰の強い本だなこれ。
まあ銀様と真紅様が可愛ければそんなこたあどーでもいいんだけどね。
苺ましまろ 4 (4)
2005年9月2日 アニメ・マンガ コメント (2)
ISBN:4840229813 コミック ばらスィー 角川(メディアワークス) 2005/05/27 ¥578
まあ、こんなもん読んだところで僕のウンコまみれな人生が浄化されるわけもないんですが、むしろ更なる転落を招く一歩なんですが、まあこれ以上落ちてもさして変わりはないだろうということで購入した。死にたいときに読むとある程度救われるんじゃないかなあ。ギャグもまあ、そこそこ面白いし。3巻の「リコちゃんハウス」の回だけは爆笑したけども。ああいうアホいポーズとか荒唐無稽な人形遊びはちっちゃいころは誰でもやったんじゃねーかな。そのつじつまの合わなさ加減の不条理さがおかしくてあのころは爆笑してたんだろうなあ・・・今もそういうのは好きだけどさ。
美羽みたいなやつは男だけど幼馴染でいたなあ。僕は笹塚君みたいなやつで、美羽みたいな変幻自在な兄貴分に突撃隊長(別名:地雷撤去部隊、デコイ)とかに任命されてて、泥をかむる役はいつも自分でしたよ。ピンポンダッシュとかに失敗すると俺だけ捕まるんだよw俺だけ先生にこっぴどく叱られて、不条理だったw
女の子しか出てこない話なんだが、美羽を見てると何故かノスタルジーを思い起こされるのは俺だけかな?で、その美羽みたいなシュルレアリストな彼は今、銀行員やってて俺はニート真っ盛りの22歳ですよ。笹塚、ガンガレ・・・orz
まあ、こんなもん読んだところで僕のウンコまみれな人生が浄化されるわけもないんですが、むしろ更なる転落を招く一歩なんですが、まあこれ以上落ちてもさして変わりはないだろうということで購入した。死にたいときに読むとある程度救われるんじゃないかなあ。ギャグもまあ、そこそこ面白いし。3巻の「リコちゃんハウス」の回だけは爆笑したけども。ああいうアホいポーズとか荒唐無稽な人形遊びはちっちゃいころは誰でもやったんじゃねーかな。そのつじつまの合わなさ加減の不条理さがおかしくてあのころは爆笑してたんだろうなあ・・・今もそういうのは好きだけどさ。
美羽みたいなやつは男だけど幼馴染でいたなあ。僕は笹塚君みたいなやつで、美羽みたいな変幻自在な兄貴分に突撃隊長(別名:地雷撤去部隊、デコイ)とかに任命されてて、泥をかむる役はいつも自分でしたよ。ピンポンダッシュとかに失敗すると俺だけ捕まるんだよw俺だけ先生にこっぴどく叱られて、不条理だったw
女の子しか出てこない話なんだが、美羽を見てると何故かノスタルジーを思い起こされるのは俺だけかな?で、その美羽みたいなシュルレアリストな彼は今、銀行員やってて俺はニート真っ盛りの22歳ですよ。笹塚、ガンガレ・・・orz
を考えてみた。
たとえばAさんの子供が病気や怪我などで亡くなった場合に、Aさんが骨髄移植が出来れば生きられた、とかもう少し早くワクチンが届いていれば、とかの強い思念に突き動かされて、この悲劇を社会的に知ってもらいたい、子供の死を無駄にしたくない、とその系統の思想の主義者となった場合、Aさんは子供が死に至らなければ主義者にならなくて住んだのではないかと思えてくる。Aさんにとって「子供」の存在は代替不可能だったのではないかと。
でも、本当にそうだろうか。実はAさんにとって子供の死はもともと深層的に潜伏していた主義者の素質を目覚めさせるためのスイッチでしかなくて、その悲劇によってスイッチが入っただけだとは考えられないだろうか。子供が亡くなっていようがいまいが、遅かれ早かれ何がしかの思想に目覚め、Aさんは主義者になっていたのではないかという意地悪な予想が成り立つ。
ある、それまでは誰にでもやさしくおおらかに接っしていた人物のBさんが、巨額のお金を騙し取られて一気に人間不信に陥ったとしよう。このトラウマは代替不可能なものであって、お金を騙し取られなければ、その人間は人間不信に陥らずに済んだのではないかと思えてくる。
でも、それだけ優しいBさんに今までそういった類の不幸が舞い降りなかったことのほうがそもそも不自然なことだったとはいえないだろうか。遅かれ早かれ、Bさんは何がしかのトラウマに没入させられ、人間不信への道をたどる羽目になったんじゃなかろうか。
Cさんが特に求めるべくもなく巻き起こった出来事によって、唐突に啓蒙されたとしよう。それまで宗教家でもなんでもなく、ただの一般人だったCさんが、ある時間に、たまたま、その場所を訪れたことによって、その出来事に出くわし、啓蒙され、宗教家となった、と仮定してみよう。そのとき、その場所でその出来事に出くわさなければCさんは宗教家の道をたどることはなかったのか?
いや、やっぱり遅かれ早かれ、Cさんは潜在的に宗教家になりたいという欲求を持っていて、何がしかの代替可能なスイッチによって宗教家の道を選んでいたと考えれるような気がする。
ある不運な交通事故(何も過失のない)で死んだDさんという人がいたとして、もしその後生き続けていればF1の世界的なドライバーになっていたかもしれないDさんは、遅かれ早かれドライバーになることなく何がしかの不運に見舞われて死んでいたといえるだろうか。
それはいえないだろう。不運な事故に見舞われなければDさんはシナリオどおりちゃんとF1ドライバーとして名をはせたはずだ。
しかし、実はこの出来事そのものに関しては代替可能だったのではないだろうか。つまりDさんに代わってEさんというF1ドライバーが生まれ、間接的に大衆の求めるヒーローは代替される。Dさんはいなくても大衆が求め続けたヒーローとしてのF1ドライバーは代替されて必然的に生まれ出るわけだ。
でも、さすがにここまで反駁を繰り返すと昨日の思索には若干無理があった気がしてくる。気がするだけなので、もう少し考えてみるしかないけれど・・・
たとえばAさんの子供が病気や怪我などで亡くなった場合に、Aさんが骨髄移植が出来れば生きられた、とかもう少し早くワクチンが届いていれば、とかの強い思念に突き動かされて、この悲劇を社会的に知ってもらいたい、子供の死を無駄にしたくない、とその系統の思想の主義者となった場合、Aさんは子供が死に至らなければ主義者にならなくて住んだのではないかと思えてくる。Aさんにとって「子供」の存在は代替不可能だったのではないかと。
でも、本当にそうだろうか。実はAさんにとって子供の死はもともと深層的に潜伏していた主義者の素質を目覚めさせるためのスイッチでしかなくて、その悲劇によってスイッチが入っただけだとは考えられないだろうか。子供が亡くなっていようがいまいが、遅かれ早かれ何がしかの思想に目覚め、Aさんは主義者になっていたのではないかという意地悪な予想が成り立つ。
ある、それまでは誰にでもやさしくおおらかに接っしていた人物のBさんが、巨額のお金を騙し取られて一気に人間不信に陥ったとしよう。このトラウマは代替不可能なものであって、お金を騙し取られなければ、その人間は人間不信に陥らずに済んだのではないかと思えてくる。
でも、それだけ優しいBさんに今までそういった類の不幸が舞い降りなかったことのほうがそもそも不自然なことだったとはいえないだろうか。遅かれ早かれ、Bさんは何がしかのトラウマに没入させられ、人間不信への道をたどる羽目になったんじゃなかろうか。
Cさんが特に求めるべくもなく巻き起こった出来事によって、唐突に啓蒙されたとしよう。それまで宗教家でもなんでもなく、ただの一般人だったCさんが、ある時間に、たまたま、その場所を訪れたことによって、その出来事に出くわし、啓蒙され、宗教家となった、と仮定してみよう。そのとき、その場所でその出来事に出くわさなければCさんは宗教家の道をたどることはなかったのか?
いや、やっぱり遅かれ早かれ、Cさんは潜在的に宗教家になりたいという欲求を持っていて、何がしかの代替可能なスイッチによって宗教家の道を選んでいたと考えれるような気がする。
ある不運な交通事故(何も過失のない)で死んだDさんという人がいたとして、もしその後生き続けていればF1の世界的なドライバーになっていたかもしれないDさんは、遅かれ早かれドライバーになることなく何がしかの不運に見舞われて死んでいたといえるだろうか。
それはいえないだろう。不運な事故に見舞われなければDさんはシナリオどおりちゃんとF1ドライバーとして名をはせたはずだ。
しかし、実はこの出来事そのものに関しては代替可能だったのではないだろうか。つまりDさんに代わってEさんというF1ドライバーが生まれ、間接的に大衆の求めるヒーローは代替される。Dさんはいなくても大衆が求め続けたヒーローとしてのF1ドライバーは代替されて必然的に生まれ出るわけだ。
でも、さすがにここまで反駁を繰り返すと昨日の思索には若干無理があった気がしてくる。気がするだけなので、もう少し考えてみるしかないけれど・・・
トラウマの代替可能性
2005年8月30日 エッセイトラウマの構造は不幸であるが故の幸福にあると惑星に書いてあった。つか最近惑星に啓蒙されてばっかりだなw
トラウマを持つ人間はトラウマがあるからそのような人間性を形成したのではなくて、もともとそうであるからトラウマを引き寄せるのではないかというのは、前に書いたのだけど、これは一種の運命論になるのかもしれないと思う。
西尾維新のロジックなんだけど(w)代替可能と時間収斂の概念は現実にもやはり適応可能で、たとえ僕に高校という暗黒時代があろうとなかろうと関係なく、遠からず自身の意思に従って何がしかの代替可能の「トラウマ」を引き寄せ、それを抱えて、やっぱり今の自分の人間性へと収斂したのではないかと思うのだ。
「あの人との出会いが私を変えた」
とはよく耳にする言葉だが、これだって実は代替可能で本質的に「変わりたい」という無意識が働いていた人間の場所にたまたまその人物が現れただけであって、「あの人」ですらやっぱり代替可能なものなんじゃないかと思えてくるのだ。「あの人」がその人物の変わる契機となったのではなくて、まず「変わろう」という意識が必然として発生し、その触媒として無数の選択肢からチョイスされたのがたまたまに「あの人」なのではないかと。
こんなことを考えたからといって未来予測が可能になるわけじゃないが、人生のベクトルに別の可能性というものはないような気がしてくる。不可知論的にいえば我々は常に自己という仮想現実を生きているわけで、常にその仮想の現実という「物語」にはそのとき、その人間が必要とし欲求する、小さな物語の断片がチョイスされるという形に添って個々の物語(人生)は進行していくだけなんじゃなかろうかと思うわけだ。
だとすれば、不幸人にとって、それがトラウマであっても反骨精神あふれる人間にとってはそれはトラウマではなく人生のバネとなり今後に生きるのだろう。トラウマは人間の主体性の中にだけ発生する捏造された「物語」なのではないだろうか。
となれば、我々に慢性的に巻き起こってるトラウマブームの正体も見えてくる。誰もが自分の薄っぺらい人生に厚みをほしがってるのだと思う。一番恐ろしいのはトラウマを抱えた過去ではなく、現在の自分を支えてくれるアイデンティティの不在であり、過去に何もなかった人間は空疎な自分の過去にトラウマを捏造させることで現在のうまくいかない人生状況を説明付け、ストレスを開放させるのだ。
内向的な人間はトラウマの捏造で、殻に閉じこもり、排他的な人間は俺にトラウマを植え付けたお前らが許せない、とバッシングを始める。神の死としてのニヒリズムはシニシズムを発生させるだけでなく、どこにも帰依できない孤独人を大量発生させる効果もあったのだ。ニーチェはこんなことまで予測してたのかな?w
トラウマを持つ人間はトラウマがあるからそのような人間性を形成したのではなくて、もともとそうであるからトラウマを引き寄せるのではないかというのは、前に書いたのだけど、これは一種の運命論になるのかもしれないと思う。
西尾維新のロジックなんだけど(w)代替可能と時間収斂の概念は現実にもやはり適応可能で、たとえ僕に高校という暗黒時代があろうとなかろうと関係なく、遠からず自身の意思に従って何がしかの代替可能の「トラウマ」を引き寄せ、それを抱えて、やっぱり今の自分の人間性へと収斂したのではないかと思うのだ。
「あの人との出会いが私を変えた」
とはよく耳にする言葉だが、これだって実は代替可能で本質的に「変わりたい」という無意識が働いていた人間の場所にたまたまその人物が現れただけであって、「あの人」ですらやっぱり代替可能なものなんじゃないかと思えてくるのだ。「あの人」がその人物の変わる契機となったのではなくて、まず「変わろう」という意識が必然として発生し、その触媒として無数の選択肢からチョイスされたのがたまたまに「あの人」なのではないかと。
こんなことを考えたからといって未来予測が可能になるわけじゃないが、人生のベクトルに別の可能性というものはないような気がしてくる。不可知論的にいえば我々は常に自己という仮想現実を生きているわけで、常にその仮想の現実という「物語」にはそのとき、その人間が必要とし欲求する、小さな物語の断片がチョイスされるという形に添って個々の物語(人生)は進行していくだけなんじゃなかろうかと思うわけだ。
だとすれば、不幸人にとって、それがトラウマであっても反骨精神あふれる人間にとってはそれはトラウマではなく人生のバネとなり今後に生きるのだろう。トラウマは人間の主体性の中にだけ発生する捏造された「物語」なのではないだろうか。
となれば、我々に慢性的に巻き起こってるトラウマブームの正体も見えてくる。誰もが自分の薄っぺらい人生に厚みをほしがってるのだと思う。一番恐ろしいのはトラウマを抱えた過去ではなく、現在の自分を支えてくれるアイデンティティの不在であり、過去に何もなかった人間は空疎な自分の過去にトラウマを捏造させることで現在のうまくいかない人生状況を説明付け、ストレスを開放させるのだ。
内向的な人間はトラウマの捏造で、殻に閉じこもり、排他的な人間は俺にトラウマを植え付けたお前らが許せない、とバッシングを始める。神の死としてのニヒリズムはシニシズムを発生させるだけでなく、どこにも帰依できない孤独人を大量発生させる効果もあったのだ。ニーチェはこんなことまで予測してたのかな?w
プライドグランプリ後の展望
2005年8月30日 K1 PRIDE UFC等冷静に振り返ればミルコはミルコなりにはよくやったと思う。でもヒョードルの執念はそのミルコの執念をもはるかに凌駕するものであったのは事実だろう。カウンターをもらおうがミドルを何発喰おうが、かまわず突進を続けたヒョードルの勇気とタフネスはすさまじいものがあった。ミルコにヒョードルやノゲイラ並の執念があったならどーだっただろうか。勝てた可能性はあったはずだ。だから余計にミルコの精神面の脆さを糾弾したくもなる。
さて今後のプライドのついてなわけだが、?シリーズ王者のシウバとグランプリ王者のショーグンの処遇はどうなるのかという点が問題だ。ベルトの色からするとグランプリ王者のショーグンの方が格上とランクされるのかな?
でも現行王者は結局シウバで防衛戦を行うことになるわけだが、防衛戦の相手が誰であってもグランプリで負けたシウバの防衛戦である、と言われてもみんなぴんと来ないんじゃないだろうか。ベルトを剥奪すべきかもしれないとも思うし、そのままワンマッチでアローナへのリベンジをかけて防衛戦をやるのが一番妥当なところかもしれない。で、リベンジならずの後にアローナVSショーグン?が組まれそれにショーグンが勝利、となれば皆が納得するミドル級チャンピオンの誕生だろう。
・・・でもシウバがリベンジしちゃう可能性もあるので、そうなったときはショーグンの処遇は宙ぶらりんになってなんだかなーとなりそう。それともダイレクトに同門対決だけどベルトの統一戦をやるという手もあるが。
もうひとつ問題なのはヒョードルが文句なしの1番になっちゃったところかなwプライドは最終回を迎えました。今までご愛読ありがとうございました。高田総裁の次回作にご期待ください!みたいな終わり方だったよ(’A`)
今後どうすんだろ?グランプリやってもヒョドル先生の独壇場だろうしなあ。ハリトーノフの成長に期待するしかねーかなw
ヒョードルに勝てるのは綺麗なストレートでカウンター取れる選手だと思うんだよな。ホーストみたいな出鼻をカウンター取れてその上でテイクダウンされない腰の強さがある・・・んー、現状ではいない。1R限定ならばミルコにもチャンスはあるけれど。
さて今後のプライドのついてなわけだが、?シリーズ王者のシウバとグランプリ王者のショーグンの処遇はどうなるのかという点が問題だ。ベルトの色からするとグランプリ王者のショーグンの方が格上とランクされるのかな?
でも現行王者は結局シウバで防衛戦を行うことになるわけだが、防衛戦の相手が誰であってもグランプリで負けたシウバの防衛戦である、と言われてもみんなぴんと来ないんじゃないだろうか。ベルトを剥奪すべきかもしれないとも思うし、そのままワンマッチでアローナへのリベンジをかけて防衛戦をやるのが一番妥当なところかもしれない。で、リベンジならずの後にアローナVSショーグン?が組まれそれにショーグンが勝利、となれば皆が納得するミドル級チャンピオンの誕生だろう。
・・・でもシウバがリベンジしちゃう可能性もあるので、そうなったときはショーグンの処遇は宙ぶらりんになってなんだかなーとなりそう。それともダイレクトに同門対決だけどベルトの統一戦をやるという手もあるが。
もうひとつ問題なのはヒョードルが文句なしの1番になっちゃったところかなwプライドは最終回を迎えました。今までご愛読ありがとうございました。高田総裁の次回作にご期待ください!みたいな終わり方だったよ(’A`)
今後どうすんだろ?グランプリやってもヒョドル先生の独壇場だろうしなあ。ハリトーノフの成長に期待するしかねーかなw
ヒョードルに勝てるのは綺麗なストレートでカウンター取れる選手だと思うんだよな。ホーストみたいな出鼻をカウンター取れてその上でテイクダウンされない腰の強さがある・・・んー、現状ではいない。1R限定ならばミルコにもチャンスはあるけれど。
BLOGはなぜこんなにも気持ち悪いのか
2005年8月29日 エッセイどうしてBLOGを読むのが苦痛で不愉快なのかがわかった。単純なことで、大体の人がBLOGでは本音をさらしてるところに不愉快さが生まれる要因がある。本音をさらすということは、精神的に全裸になるということだw
当たり前なのだけど、ある道行く人が全裸で歩いてたりしたらそりゃみんな嫌だろう。羞恥プレイでもやってんのかこいつは?といいたくなるだろう。そして全裸のその人はその場でいきなりオナニーを始めるわけだ。とんでもないことだ。すぐに補導されて収容所逝きになることは間違いない。
BLOGで本音を書く、ということはつまり2ちゃんねるなどでよく言われる「チラシの裏にでも書いておけ」とか「オナニーでスレ立てすんな厨房」ということになるわけだ。肉体的に言えば、裸になって自分の醜い部分をさらすということに他ならない。しかも、それは不特定多数の人々に自分の肛門やら生殖器を晒すという、前代未聞の公開羞恥プレイオナニーを慣行しているということになるわけだ。これはやばい。やばすぎる。人としての品性も美徳もあったもんじゃない。
俺は今までこんなおぞましい変態プレイを行っていたのかw
数年前に精神的に追い詰められていた母の手帳を除き見し、俺やオヤジに対しての本音と憎悪を垣間見たとき感じたおぞましさというのは、俺が手帳を通して母親の精神面のオマンコを覗き見てしまったせいなのだということが今回わかりました。さて、このあたりでオナニー日記は切り上げるとしようかw
ということでメンタル面のセックスをするなら本当に好きな人とだけがベストだよなあ、てことだ。いくら欲求不満だからといって不特定多数の公衆の面前で公開オナニーだけは「今後」さらすことはしないようにしたい、と自分に言い聞かせて〆る。
当たり前なのだけど、ある道行く人が全裸で歩いてたりしたらそりゃみんな嫌だろう。羞恥プレイでもやってんのかこいつは?といいたくなるだろう。そして全裸のその人はその場でいきなりオナニーを始めるわけだ。とんでもないことだ。すぐに補導されて収容所逝きになることは間違いない。
BLOGで本音を書く、ということはつまり2ちゃんねるなどでよく言われる「チラシの裏にでも書いておけ」とか「オナニーでスレ立てすんな厨房」ということになるわけだ。肉体的に言えば、裸になって自分の醜い部分をさらすということに他ならない。しかも、それは不特定多数の人々に自分の肛門やら生殖器を晒すという、前代未聞の公開羞恥プレイオナニーを慣行しているということになるわけだ。これはやばい。やばすぎる。人としての品性も美徳もあったもんじゃない。
俺は今までこんなおぞましい変態プレイを行っていたのかw
数年前に精神的に追い詰められていた母の手帳を除き見し、俺やオヤジに対しての本音と憎悪を垣間見たとき感じたおぞましさというのは、俺が手帳を通して母親の精神面のオマンコを覗き見てしまったせいなのだということが今回わかりました。さて、このあたりでオナニー日記は切り上げるとしようかw
ということでメンタル面のセックスをするなら本当に好きな人とだけがベストだよなあ、てことだ。いくら欲求不満だからといって不特定多数の公衆の面前で公開オナニーだけは「今後」さらすことはしないようにしたい、と自分に言い聞かせて〆る。
プライドミドル級グランプリ2005
2005年8月29日ミルコ負けたな。スタミナ尽きるのが早いのはK1時代からのものだったけど、やっぱり修正不可能だったか…。
思っていたとおり左ストレートのカウンターは結構上手くヒットしてたので戦略次第では勝てない試合ではなかっただろう。ヒョードルが一瞬ぐらついた時にミルコは慌てすぎた。ハイキック打ってこけるとはwヒョードルはハイキックに反応できていなかったからミルコがいつもの試合のように平常心を保ったまま冷静に左ハイを打てていれば決まってただろう。失敗するということはやっぱり普通の精神状態じゃなかったということだ。
ヒョードルも同じく焦ってはいた。ただ、ヒョードルの良かったところは絶えず前進するのをやめなかったところだと思う。空間を空けさせずプレッシャーをかけつづけたのでミルコにハイを打たせる空間を持たせずに済んだ。消耗戦となるとスタミナにアドバンテージのあるヒョードル有利に進むことになる。ミルコはもっと前半に左ミドルを当ててヒョードルをリング中央に追いやり、どっしりと構えた状態で打撃勝負を挑む必要があった。
まあいくらでもタラレバの話はつきないのだけど結局、執念の差が一番でかい気がする。わざわざ島田がミルコに勝たせるために(笑)二度も意図的にブレイクをかけてくれたというのに最後の最後にミルコはラッシュをかけられず楽なほうに、つまりヒョードルに自分から組み付いていくという勝利を前提とするならありえない間違いを犯してしまった。結局K1時代からのあと一歩を踏み出す根性がなかったんだと思う。島田ブレイク(w)後にKO負け覚悟でラッシュをかけていればヒョードルもいっぱいいっぱいだったのだから逆に打ち倒せる可能性もなくはなかったはずなんだ。結局イベンダーホリフィールドやアーネストホーストのような鉄の意志は見られなかったなあ。そこが残念といえば残念。最後に悪あがきのようにバチバチヒョードルの頭を叩く体力が残ってたならどーして自分からスタンドを拒否するようなへタレさを露呈してしまったのだろう?
まあショーグンが優勝したからミドルグランプリの方は大満足だったけどな。一番嫌いなアローナがボコボコにされてすっきりしたw島田はストップ早いよ。あと2秒くらいあのままたこ殴り状態でも良かった気がする(これは嘘だ)
ショーグンは一回戦からジャクソン、ホジェリオ、アリスター、アローナと一番の最激戦区を潜り抜けての優勝だからまさに文句なしの優勝だったと思う。同世代なだけにうれしいなあ。
思っていたとおり左ストレートのカウンターは結構上手くヒットしてたので戦略次第では勝てない試合ではなかっただろう。ヒョードルが一瞬ぐらついた時にミルコは慌てすぎた。ハイキック打ってこけるとはwヒョードルはハイキックに反応できていなかったからミルコがいつもの試合のように平常心を保ったまま冷静に左ハイを打てていれば決まってただろう。失敗するということはやっぱり普通の精神状態じゃなかったということだ。
ヒョードルも同じく焦ってはいた。ただ、ヒョードルの良かったところは絶えず前進するのをやめなかったところだと思う。空間を空けさせずプレッシャーをかけつづけたのでミルコにハイを打たせる空間を持たせずに済んだ。消耗戦となるとスタミナにアドバンテージのあるヒョードル有利に進むことになる。ミルコはもっと前半に左ミドルを当ててヒョードルをリング中央に追いやり、どっしりと構えた状態で打撃勝負を挑む必要があった。
まあいくらでもタラレバの話はつきないのだけど結局、執念の差が一番でかい気がする。わざわざ島田がミルコに勝たせるために(笑)二度も意図的にブレイクをかけてくれたというのに最後の最後にミルコはラッシュをかけられず楽なほうに、つまりヒョードルに自分から組み付いていくという勝利を前提とするならありえない間違いを犯してしまった。結局K1時代からのあと一歩を踏み出す根性がなかったんだと思う。島田ブレイク(w)後にKO負け覚悟でラッシュをかけていればヒョードルもいっぱいいっぱいだったのだから逆に打ち倒せる可能性もなくはなかったはずなんだ。結局イベンダーホリフィールドやアーネストホーストのような鉄の意志は見られなかったなあ。そこが残念といえば残念。最後に悪あがきのようにバチバチヒョードルの頭を叩く体力が残ってたならどーして自分からスタンドを拒否するようなへタレさを露呈してしまったのだろう?
まあショーグンが優勝したからミドルグランプリの方は大満足だったけどな。一番嫌いなアローナがボコボコにされてすっきりしたw島田はストップ早いよ。あと2秒くらいあのままたこ殴り状態でも良かった気がする(これは嘘だ)
ショーグンは一回戦からジャクソン、ホジェリオ、アリスター、アローナと一番の最激戦区を潜り抜けての優勝だからまさに文句なしの優勝だったと思う。同世代なだけにうれしいなあ。
強固なロジックの無限の反復
2005年8月24日 エッセイごちゃごちゃしてたんで、ごちゃごちゃと書こう。押井守の御先祖様万々歳を観た。3巻だけビデオレンタル屋においてなかったので全部は観れなかったよ。オヤジが何で強盗やらかしたのかの部分が抜け落ちてる感じでなんかあれだ。
胡蝶之夢の立ち食い蕎麦屋で語られる犬丸の語りと麿子と文明の会話はどっちが本当だったんだろう。無理やり矛盾なく解釈すると文明が自殺することによって麿子消滅。その後目を覚ました犬丸は「捨てられた」と解釈し、タイムパラドクスを主観的に否定。でもラストで麿子の乗ってきたタイムマシンが発見されるのはなんだったのかという話になりそうだけど。全編にわたって矛盾律で構成されてる物語をそもそも順序だてて解析しようとするのが間違いかw
物語で物語について言及するスタイルはこのままトーキングヘッドに連なるようになってる感じだね。ポストモダーンがまだようわかってないんでトーキングヘッドはもう一回見直すべきだろうなあ。人は自分という物語の始まりも完結も知りえないから起承転結のある物語を求めるのだ、て感じの話をしてたあたりはなるほどと納得させられた。真に生きられる物語は強固なロジックの無限の反復なんだそうだ。終わりがある作品は駄作認定てことですね!押井監督にしてはえらく直球(それとも押井流の変化球なんか?)なラストシーンはかなりずきゅーんと来たなあ。
ここからはぜんぜん関係なく自己言及。自分がボクシングや格闘技が好きである理由について考えてみた。と、いっても格闘技の見せるすべてを好きだと思ってるわけじゃない。時折格闘技の見せる過酷な現実に目をひきつけられるのだろう。特に世界最高峰のレベルのボクサーの見せる現実性の美しさと、故の残酷さには陶酔させられる。その圧倒的な実力たるや情緒や人情が入り込む余地なんてない。僕は人情という実に無責任極まりない贔屓的な感情が好きではないので、だからこそ冷徹にあっさりと現実を突きつけられ没落していくボクサーを見るとついつい感情移入してしまう。
格闘技の「殺陣」についてももっぱら瞬間の攻防が大好きで、根性とか気持ちのこもった、たこ殴り合いは好みじゃない。一発で倒す威力も、駆け引きする脳みそもない凡人同士がひーひー言いながら殴り合ってる姿にはすぐ飽きてしまったし長距離マラソンやってるようなもんだから、こういった消耗戦ならぬ泥試合は好みじゃない。一般の顧客にはこういったわかり安いのが好まれるのだけど、やっぱりボクシングのすばらしさといえばいつ終わりの一発が決まるのかという、研ぎ澄まされた瞬間瞬間の駆け引きにあるだろう。
その点を言えば野武士のような佇まいのマイクタイソンの殺傷性、相手を小ばかにしてるとしか思えないロイジョーンズの一瞬のスピード、総合力とクレバーさで常に相手を上回るバーナードホプキンスの技術と反応速度の融合、などはその刹那の芸術性をわかりやすく示していると思う(ホプキンスは一見わかりにくいんだけどw)。どこまでも凡庸な「頑張りや」の人間に才能の差をまざまざと見せつけ根性論を完璧無比に否定しきってしまう実力主義の世界。
つまり僕がボクシングを好きな理由は実に日本的な根性論の否定にあるのかなと思う。前回の「燃え」についての考察の続きになるが、僕はいわゆる「燃え」があまり好きではないのだ。友人にこれは「燃える展開だからみろ」と何かの作品を奨められるととたんに見る気がなくなる。「身も蓋もない現実」ではなくて「現実から目をそむけた超越原理による仮想現実」というシチュエーションが許せないのだと思う。
監督として富野と北野が好きな理由もその殺陣シーンの情緒をはさむ余地のないスピード感、疾走感によるものがでかい。根性論を挟む余地なく時間は高速で進行し、あっさりと終局へといたる。何で根性論を否定するのかといえば、そんなものが、どうしようもない現実を改変させる要素にはなりえないと断言できるからだ。
本当は根性そのものを否定してるわけじゃない。ただ、いわゆる少年漫画とかが最後は愛、だとか根性、だとか勇気、だとか安易な完結へ向けての単一のテーマを掲げる点に疑問を抱いてしまうわけで。こういった媒体の見せる希望とか唯一性がどれだけの人間を失敗と自意識過剰に追い込んだだろうか。そら観たことかとばかりに世の中には大人になりきれないセカイ系(自己唯一性)の物語が散乱しまくってますよ。とにかくもう「これだ」とか言い切る物語は許せん。許せんといってる主張が許せん。やった!同語反復がなりましたよ!こじつけも甚だしいぜ俺!
胡蝶之夢の立ち食い蕎麦屋で語られる犬丸の語りと麿子と文明の会話はどっちが本当だったんだろう。無理やり矛盾なく解釈すると文明が自殺することによって麿子消滅。その後目を覚ました犬丸は「捨てられた」と解釈し、タイムパラドクスを主観的に否定。でもラストで麿子の乗ってきたタイムマシンが発見されるのはなんだったのかという話になりそうだけど。全編にわたって矛盾律で構成されてる物語をそもそも順序だてて解析しようとするのが間違いかw
物語で物語について言及するスタイルはこのままトーキングヘッドに連なるようになってる感じだね。ポストモダーンがまだようわかってないんでトーキングヘッドはもう一回見直すべきだろうなあ。人は自分という物語の始まりも完結も知りえないから起承転結のある物語を求めるのだ、て感じの話をしてたあたりはなるほどと納得させられた。真に生きられる物語は強固なロジックの無限の反復なんだそうだ。終わりがある作品は駄作認定てことですね!押井監督にしてはえらく直球(それとも押井流の変化球なんか?)なラストシーンはかなりずきゅーんと来たなあ。
ここからはぜんぜん関係なく自己言及。自分がボクシングや格闘技が好きである理由について考えてみた。と、いっても格闘技の見せるすべてを好きだと思ってるわけじゃない。時折格闘技の見せる過酷な現実に目をひきつけられるのだろう。特に世界最高峰のレベルのボクサーの見せる現実性の美しさと、故の残酷さには陶酔させられる。その圧倒的な実力たるや情緒や人情が入り込む余地なんてない。僕は人情という実に無責任極まりない贔屓的な感情が好きではないので、だからこそ冷徹にあっさりと現実を突きつけられ没落していくボクサーを見るとついつい感情移入してしまう。
格闘技の「殺陣」についてももっぱら瞬間の攻防が大好きで、根性とか気持ちのこもった、たこ殴り合いは好みじゃない。一発で倒す威力も、駆け引きする脳みそもない凡人同士がひーひー言いながら殴り合ってる姿にはすぐ飽きてしまったし長距離マラソンやってるようなもんだから、こういった消耗戦ならぬ泥試合は好みじゃない。一般の顧客にはこういったわかり安いのが好まれるのだけど、やっぱりボクシングのすばらしさといえばいつ終わりの一発が決まるのかという、研ぎ澄まされた瞬間瞬間の駆け引きにあるだろう。
その点を言えば野武士のような佇まいのマイクタイソンの殺傷性、相手を小ばかにしてるとしか思えないロイジョーンズの一瞬のスピード、総合力とクレバーさで常に相手を上回るバーナードホプキンスの技術と反応速度の融合、などはその刹那の芸術性をわかりやすく示していると思う(ホプキンスは一見わかりにくいんだけどw)。どこまでも凡庸な「頑張りや」の人間に才能の差をまざまざと見せつけ根性論を完璧無比に否定しきってしまう実力主義の世界。
つまり僕がボクシングを好きな理由は実に日本的な根性論の否定にあるのかなと思う。前回の「燃え」についての考察の続きになるが、僕はいわゆる「燃え」があまり好きではないのだ。友人にこれは「燃える展開だからみろ」と何かの作品を奨められるととたんに見る気がなくなる。「身も蓋もない現実」ではなくて「現実から目をそむけた超越原理による仮想現実」というシチュエーションが許せないのだと思う。
監督として富野と北野が好きな理由もその殺陣シーンの情緒をはさむ余地のないスピード感、疾走感によるものがでかい。根性論を挟む余地なく時間は高速で進行し、あっさりと終局へといたる。何で根性論を否定するのかといえば、そんなものが、どうしようもない現実を改変させる要素にはなりえないと断言できるからだ。
本当は根性そのものを否定してるわけじゃない。ただ、いわゆる少年漫画とかが最後は愛、だとか根性、だとか勇気、だとか安易な完結へ向けての単一のテーマを掲げる点に疑問を抱いてしまうわけで。こういった媒体の見せる希望とか唯一性がどれだけの人間を失敗と自意識過剰に追い込んだだろうか。そら観たことかとばかりに世の中には大人になりきれないセカイ系(自己唯一性)の物語が散乱しまくってますよ。とにかくもう「これだ」とか言い切る物語は許せん。許せんといってる主張が許せん。やった!同語反復がなりましたよ!こじつけも甚だしいぜ俺!
惑星開発委員会で逆境ナインについての座談会があってたんだけど、それについて少し。
考えてみれば富野御大もこのギャグなのかマジなのかの路線を地で行ってる人な気がする。イデオンとか、Zガンダムとかさ、あれ相当悲惨なんだけどコンテ切ってるときの御大は多分半笑いか爆笑しながら切ってた気がすんだよなあ。
ただ、これは熱血とギャグの混在とはまた違ってて人死は悲惨であるのと同時にギャグなんだ、つーことなのかもしんないけど。
熱血が流行らなくなったのは言うまでもなく大きな物語の凋落によるものなんだろうけど、そもそも熱血を物語化していた60年代の頃からすでに熱血は現実では消失してしまってたんじゃないかと思う。梶原一騎のあしたのジョーやタイガーマスクなんてのは、そのもっともたる象徴で、最後は負けて終わる、もしくは死んで終わるという根源的なニヒリズムとその超克たる実存主義が垣間見える構造になっている。でも実存主義なんて結局共産運動の瓦解と構造主義に飲み込まれて相対化されてネタ消費アボーンされてしまうのだけど。
で、熱血の話に戻ると熱血が対象化(認知)した瞬間に多分60年代世代の人たちは熱血できなくなっちゃったんだろうなと思う。熱血そのものであったイデオローグがはびこった時代から逸脱した虚無感が恐ろしくて不安で、梶原一騎みたいな作家は熱血を作品化したんだと思うんだけど、でもその瞬間に熱血は熱血であることをなくしてしまったのだと思う。物語というのはそういった現実としてある観念的なものを対象化させて現実世界からスポイルさせちゃう働きがあるんだろうな。
だから熱血だ、熱いんだ、泣けるんだ、て言っちゃうのは、僕らがもう本当に熱くなることも泣けることもなくなっちゃった時代に生まれたんだということをつくづく実感せざるを得ないことを示してるんじゃないかな。本当に悲しい目にあってる人間に悲劇は不必要だし、何はなくとも笑える人間は喜劇を見る必要はない。欲求不満を満たすために擬似悲劇があり笑いがあり、熱血がある。
たとえば、恵まれない土地で育って一攫千金当ててやろうと必死なだけの黒人ボクサーにあしたのジョーは不要だろう。その黒人はジョーを読んでも感銘を受けることもないだろうし何が素晴らしいのかもさっぱり分からないに違いない。自分が現にその主体として生きているからジョーに憧れる意味がないんだ。単にお金目的のろくなアイデンティティも神の意味も良く分からないその黒人はただただ勝ちつづけて世界タイトルを獲得し、ジョーのように燃え尽きて真っ白になるのだと思う。これは明らかに熱血(ちょっとニュアンスは違うが)だけどニヒリズムとか実存主義とか対象化された意識じゃなくて主体として熱血であるから通せる道理だろう。その黒人が、「あ、俺今熱血やってるわ」とか思った瞬間に熱血は過去に食い殺されてしまう。過去のものとなってしまう。意識するということは、それを過去へと追いやり没落させるということになんだね。思想を持たない原始的な人間ほどに強靭になれるんじゃないかな。そして純粋で、残酷。
で、また話がずれたんでもう一度戻すと、熱血が物語りとなった時代はすでに熱血は終わってたんだ、てことを書きたかったんだろう。なんか眠かったのでおかしな文章を書いてたっぽい。
考えてみれば富野御大もこのギャグなのかマジなのかの路線を地で行ってる人な気がする。イデオンとか、Zガンダムとかさ、あれ相当悲惨なんだけどコンテ切ってるときの御大は多分半笑いか爆笑しながら切ってた気がすんだよなあ。
ただ、これは熱血とギャグの混在とはまた違ってて人死は悲惨であるのと同時にギャグなんだ、つーことなのかもしんないけど。
熱血が流行らなくなったのは言うまでもなく大きな物語の凋落によるものなんだろうけど、そもそも熱血を物語化していた60年代の頃からすでに熱血は現実では消失してしまってたんじゃないかと思う。梶原一騎のあしたのジョーやタイガーマスクなんてのは、そのもっともたる象徴で、最後は負けて終わる、もしくは死んで終わるという根源的なニヒリズムとその超克たる実存主義が垣間見える構造になっている。でも実存主義なんて結局共産運動の瓦解と構造主義に飲み込まれて相対化されてネタ消費アボーンされてしまうのだけど。
で、熱血の話に戻ると熱血が対象化(認知)した瞬間に多分60年代世代の人たちは熱血できなくなっちゃったんだろうなと思う。熱血そのものであったイデオローグがはびこった時代から逸脱した虚無感が恐ろしくて不安で、梶原一騎みたいな作家は熱血を作品化したんだと思うんだけど、でもその瞬間に熱血は熱血であることをなくしてしまったのだと思う。物語というのはそういった現実としてある観念的なものを対象化させて現実世界からスポイルさせちゃう働きがあるんだろうな。
だから熱血だ、熱いんだ、泣けるんだ、て言っちゃうのは、僕らがもう本当に熱くなることも泣けることもなくなっちゃった時代に生まれたんだということをつくづく実感せざるを得ないことを示してるんじゃないかな。本当に悲しい目にあってる人間に悲劇は不必要だし、何はなくとも笑える人間は喜劇を見る必要はない。欲求不満を満たすために擬似悲劇があり笑いがあり、熱血がある。
たとえば、恵まれない土地で育って一攫千金当ててやろうと必死なだけの黒人ボクサーにあしたのジョーは不要だろう。その黒人はジョーを読んでも感銘を受けることもないだろうし何が素晴らしいのかもさっぱり分からないに違いない。自分が現にその主体として生きているからジョーに憧れる意味がないんだ。単にお金目的のろくなアイデンティティも神の意味も良く分からないその黒人はただただ勝ちつづけて世界タイトルを獲得し、ジョーのように燃え尽きて真っ白になるのだと思う。これは明らかに熱血(ちょっとニュアンスは違うが)だけどニヒリズムとか実存主義とか対象化された意識じゃなくて主体として熱血であるから通せる道理だろう。その黒人が、「あ、俺今熱血やってるわ」とか思った瞬間に熱血は過去に食い殺されてしまう。過去のものとなってしまう。意識するということは、それを過去へと追いやり没落させるということになんだね。思想を持たない原始的な人間ほどに強靭になれるんじゃないかな。そして純粋で、残酷。
で、また話がずれたんでもう一度戻すと、熱血が物語りとなった時代はすでに熱血は終わってたんだ、てことを書きたかったんだろう。なんか眠かったのでおかしな文章を書いてたっぽい。
今日はじめて試合ぶりを観た。個人的には次男のスタイルのほうが好みかなwジャブ少なめにいきなりの右とか、右にダッキングしてからすぐに右ストレートでカウンター当てていったりとかは僕の好きなバーナードホプキンスのスタイルを彷彿させるもんがあった。
兄貴はというと左を伸ばす反応の速さには関心したけどあんまりジャブ打たないのがちょっと気になったかな。バリバリのファイタースタイルだけど、世界王者クラスのボクサータイプに的確にパンチを当てていけるのかという危惧はある。ほとんどブロッキングで守ってるのでガードの上からでも何発も受けてたらポイントを失ってしまう可能性もあるし。ジャブついて逃げ回られたときに典型的な日本人ボクサーの負け方をしてしまわないか心配。まー、やっぱりしばらく様子見か。
ボディワークとアウトボクシングができる器用さが身につけば、そうそうのことで負けることはないだろう。で、強い選手の必須条件は結局スタイルの幅にあると思うので、その辺はやっぱり真摯に今後もしっかり練習に取り組んで欲しい。実況もいきなり「次は世界」なんてこと言わずにこれからじっくり3年くらいかけてキャリアつんでから世界に挑戦して欲しいなあ。
兄貴はというと左を伸ばす反応の速さには関心したけどあんまりジャブ打たないのがちょっと気になったかな。バリバリのファイタースタイルだけど、世界王者クラスのボクサータイプに的確にパンチを当てていけるのかという危惧はある。ほとんどブロッキングで守ってるのでガードの上からでも何発も受けてたらポイントを失ってしまう可能性もあるし。ジャブついて逃げ回られたときに典型的な日本人ボクサーの負け方をしてしまわないか心配。まー、やっぱりしばらく様子見か。
ボディワークとアウトボクシングができる器用さが身につけば、そうそうのことで負けることはないだろう。で、強い選手の必須条件は結局スタイルの幅にあると思うので、その辺はやっぱり真摯に今後もしっかり練習に取り組んで欲しい。実況もいきなり「次は世界」なんてこと言わずにこれからじっくり3年くらいかけてキャリアつんでから世界に挑戦して欲しいなあ。
Zガンダムの声優問題について
2005年8月21日正直こういうのは苦手だな。芸能スキャンダルのゴシップ記事みたいなののモノマネネタを声優でやって欲しくないもんだ。美しくないよw枕営業とかさwネタにする人間の顔を見てから言ってくれよw所詮二次元産業なんだから三次元介入させておどろおどろしい昼ドラ展開やめてくれよw様になってないし、イタイよw
でも僕はガンオタなので多少は言及しとかんとなあ。まあ言及することなんて特にないんだけどね。こういうことのいったい何が「汚い」のかよく分からないのが正直なところだからだ。
本質は功利性の問題でもないし倫理的な問題でもない。ただ、傍観者の全体は、裏側に性的な匂いがすればそれは即、罪としての責任問題へと転化させていくのだろう。事実性を追求するくせにネタそのものの是非なんて本当は彼らにとってもどうでもいいのだ。祭りが出来れば。で、話の中心のネタに祭り上げられた人はいったい何が悪かったのかも分からないまま釈明と謝罪をこうむる羽目になる。
よしんば枕営業とやらがあったとしてそれがどーしたのかと思う。そんなもんは業者内部で片付ければいい問題の話であって外側の人間があーだこーだと事実の解明を求めるのはお門違いだろう。マスコミ的なものの恐ろしいところはここら辺の異様な拡大解釈にあると思う(キャー、頭の悪そうなしたり顔の社会批判が飛び出しましたよ!)
で、こういった祭りは所詮一過性のものであって後は飽きられてポイ捨て消費される。不特定多数の人間に消費された本人にとっては迷惑きわまりないだろう。誰も賠償してくれるわけじゃないんだからな。
ネタの中心人物をちょっと可愛そうだと思うけど、何が事実かは嘘かは本当にどーでもいい問題だ。島津にもゆかなにもぜんぜん愛着ないからそーなんだろうけどwまあ人間のいざこざに興味がないんだけどね。あくまでガンオタなのでこの小さくてしょぼいアイデンティティのために日記に記しておく。
でも僕はガンオタなので多少は言及しとかんとなあ。まあ言及することなんて特にないんだけどね。こういうことのいったい何が「汚い」のかよく分からないのが正直なところだからだ。
本質は功利性の問題でもないし倫理的な問題でもない。ただ、傍観者の全体は、裏側に性的な匂いがすればそれは即、罪としての責任問題へと転化させていくのだろう。事実性を追求するくせにネタそのものの是非なんて本当は彼らにとってもどうでもいいのだ。祭りが出来れば。で、話の中心のネタに祭り上げられた人はいったい何が悪かったのかも分からないまま釈明と謝罪をこうむる羽目になる。
よしんば枕営業とやらがあったとしてそれがどーしたのかと思う。そんなもんは業者内部で片付ければいい問題の話であって外側の人間があーだこーだと事実の解明を求めるのはお門違いだろう。マスコミ的なものの恐ろしいところはここら辺の異様な拡大解釈にあると思う(キャー、頭の悪そうなしたり顔の社会批判が飛び出しましたよ!)
で、こういった祭りは所詮一過性のものであって後は飽きられてポイ捨て消費される。不特定多数の人間に消費された本人にとっては迷惑きわまりないだろう。誰も賠償してくれるわけじゃないんだからな。
ネタの中心人物をちょっと可愛そうだと思うけど、何が事実かは嘘かは本当にどーでもいい問題だ。島津にもゆかなにもぜんぜん愛着ないからそーなんだろうけどwまあ人間のいざこざに興味がないんだけどね。あくまでガンオタなのでこの小さくてしょぼいアイデンティティのために日記に記しておく。