欲望は思考を凌駕する。この世の社会をよりよく生きるために一番必要なものは欲望だと実感する。金がほしいという欲望。みなに認められたいと求める心。他者を支配し屈服させたいという欲求。愛を渇望。社会をよりよく生きるための原動力(モチベーション)は欲望とその充足に還元される。

生命力というやつはこの欲望の度合いを指し示すのだろう。欲望が大きければ大きいほどその人間は出世し、みなに認められていくのだろう。問題は、欲望が拡大するほどに自己中心的で傲慢な人間へと変貌していく点だと思う。勝ち残るにはどれだけの他人の屍の上を通過する必要があるだろう。歴史上の英雄と呼ばれる類の人たち、世界中に信仰者を持っているアイドルスターはどれだけの人間を踏み潰してそこまで這い上がったのだろうか。いろいろなもののジャンルの中で頂点に立ちたいと願う欲求は常に他者を食い物にして相対評価的なものでしか価値が与えられることはない。われわれ人間が人間へと与えられる尊厳は神的な何かではなくて、いったい何がすばらしいことなのかもわからないままに与えてしまった呪いのようなすべての人が認めるフォーマルな勲章。スタンディングオベーション、サティスファクション。

多分、多くの人たちは優しい人なので、そこまでしてえらくなんなくていいよ。そこまで俺は残酷になれないよ、てことで途中で欲望に区切りをつけてあきらめていくのだろう。あきらめて、そこで幸せを享楽していくのだろう。そして満たされきれない欲望の果てとして神の死を実感する。世界をぶち壊しにするほどに僕たちは何かを信仰する心を持ち合わせちゃいない。つまりニヒリズム。

まんちょ

2005年7月26日
描くときに困ることは下絵の段階で引いた線が色を塗るごとにだんだん気に食わなくなってくることだ。意識して描いたはずの思い切りのいい線がデッサンが狂っていることがわかって、修正したい気分にとらわれてしまうことがある。単純に僕の画力がしょぼいせいなのだろうが、その時点で修正をかけると線のよさが消える。しかもそのデッサンの狂った絵は狂った絵としてその点において統制を保っていたわけだから一部分を修正するということは全体のデッサンを修正する羽目になる。全体を修正するとその絵はすでに初期のコンセプトから逸脱した何がしたかったのかわからない絵になる。またコンセプトを持たせたいのでいろいろ試行錯誤する。んなことやってるうちに時間が過ぎていって明日はテストだよ。げえ・・・

あとAMAZONでルサンチマンを買った。ひでえ話だ。でも普通に漫画としても出来がいいんじゃなかろうか。喪闘気でまくり。自虐ネタ満載でかなり笑える。笑えるけど死にたくなるなあ。絵が思ったよりずっとあっさりしてたので苦なく読めそうだ。早く4巻まで読みてえよ。

時間芸術

2005年7月24日
絵画ってのは無時間芸術で、音楽や映画は時間芸術だ。無時間芸術は時間芸術には敵わないんじゃないかとか思ったりする今日この頃。
絵画は静止している世界を描写する。世界はそこで完結する。絶対的に。
音楽は流れる。ひとつの音が流れ、また別の音へと流れる。つながって連動する。世界は流れていく。
僕たちの感覚する主観的時間はとまった世界を認識しえない。無時間芸術は一瞬ですらない飛ぶ矢のパラドクス的空間を表象する。でもそれを感知する僕たちの視覚と脳は絵画を時間的に処理することになる。音は絶えず、表出しては消えていくので時間的存在の僕たちにとって気持ちのいいものになりやすいのかもしれない。とまった世界、てのはそもそも何ナノかな。とまっているということは起こる、とか発生するとか、生成する、と言った類の概念すらも遮断してしまう神秘性をはらんでいる気がする。気がするだけだが。もう少し時間についての本を読んで考察をめぐらしたい。

ゼロの使い魔

2005年7月23日 読書
ISBN:4840111057 文庫 ヤマグチ ノボル メディアファクトリー 2004/06 ¥609

優良のツンデレ小説ですよ。ヒロインのルイズが激烈にツンデレだ。つーかそれくらいしか語ることねーや。ツンデレラー、ツンデリストを自称する人なら読まないと損だろう。それくらいツンデレ。私はこの本だけであと10年戦えると確信しました。ぐひひ

内容的にはありがちなボーイミーツガールな小説ですが。異世界に現代から召還された使い魔が主人公で才人という少年。ヒロインのルイズたんはそのご主人様(はあはあ!)という設定だ。いつも才人は苛められるけど、ときどきデレってくれますよ。

ルイズが他のツンデレキャラと違う点は「オチこぼれ」であるという点だろう。ここはヤマグチノボル氏特有のオリジナルな部分だと思う。通常のツンデレというものは高嶺の花であったり、なかなか人に弱みを見せない人であったり、「人間的にも能力的にも優良な彼女が俺にだけ、弱みを見せてくれてるぜ」という欲望を充足してくれるものですが、

この小説の場合、ルイズは魔法使いとしては落ちこぼれ、皆からは馬鹿にされまくって、ゼロのルイズ(魔法がぜんぜん使えないからゼロ)等とかわいそうなくらいの誹謗中傷を受けてますが彼女はめげねえです。オチこぼれなんだけど心は高貴で、いつも必死にガンガってます。オチこぼれなのが見え見えなのにいつもツンツンしてます。もうね、このツンの時点で読んでる側としてはウヒョーて感じですよ。で、例によって使い間の才人にもツンツンしてんですが弱みを見せたときはこれがまたヌガー、て感じですよ。もだえ苦しみますよ。「劣等感の塊の彼女が無理に頑張ってツンツンして、でも本音は凄い寂しがりやでデレってくれるぜ」という新タイプ(他にも例はありそうだけど)のツンデレ道を開拓したヤマグチノボルは天才ですよ。早く5巻が読みてえよ。

仮説

2005年7月23日 エッセイ
客体、客観の存在を哲学者の人たちは疑ってきたけれど彼らはまず主体の存在可能性を疑うべきだったのではなかろうか。僕の、自身そのものの存在性を僕は証明することが出来ない。僕は自我の起源を知ることなく無自覚に文章をアウトプットしている。存在不安は生まれてから自我に目覚め、そして死ぬまで開放されうることのない永遠の議題だろう。結局存在論なんてモノにはフタをするしかないんだ。

ところで主体性の確証すら得られないわれわれがどうしてコミュニケーションの最大目的は相互理解であると考えているのだろうか。逆のような気がする。

このコンセプトを一般的に知らしめたのは他でもないエヴァンゲリオンだろう。いまだにセカイ系が跋扈する理由として、僕と彼女のコミュニケーション不全の問題がある。エヴァンゲリオンは僕らに相互理解を強要する。相互理解がないとすれば自殺するしかないとまで言い切る思考プロセスを提供する。

でも、あくまで仮説なのだが、もしも客体が、不確かな自身の確認装置でしかないと考えてみると相互理解とコミュニケーションが全くイコールにはなりえないのではないだろうか。他者はあくまで外部自覚装置なのであって、究極的にに「理解してもらいたい」という欲求をはらんでいるとは限らないのではないだろうか。単に自分の存在の不確かさにおびえるわれわれが便宜上、相互理解という言語を適用しているだけであって、相互理解に至れないときに「彼らに理解されない俺は不幸である」と言い切る必要性はないような気がする。

僕たちは確証の持てない不確かな自分から発生する不確かな言語を他者に理解して欲しいのではなくて、自分が今ここに確かに存在するはずだと確認する活動として他者を求めていたのではないだろうか。自己確認のツールとして今までは他者こそが最大のものだったとは考えられないだろうか。

だとすれば、他者と交わる以外に自己確認装置の豊富になってきた現代においてそこまでコミュニケーションが重要なのかと言えばそうとは思えなくなってくる。ヒトの存在しない物語がつむがれるような世の中もそう遠くはないきがする。ヒトは、自分が存在することを確認できれば、それだけで納得して死んでいけるんじゃないだろうか。
・・・どうなんだ、これ?
僕の個人的採点は115-113でホプキンスでした。

実際の有効打数もパワーパンチ率もホプキンスの方が多かったらしいし。でさ、どうも一人のジャッジはラストラウンドをテイラーに振っていたらしい。どう見たらあのラウンドがテイラーになるんだろう?ぐらぐらして倒れそうだったのに。どうも裏で政治力が働いていたような気がしてならない。
顔もさあ、テイラー完全に負けた・・・て顔だったやん?なんで?
ぬはあ、ホプキンスは無念だろうなー・・・!!ついでに俺も無念なんだがね!何で世の中はこんなに不条理なんですかねえ?畜生。

でもホプキンス自体に大分衰えを感じたのも事実です。後半くたびれてるホプキンスなんて見たことないのに、今回は大分くたびれていたように見えた。くたびれてはいたけど意地と勝利への執念で打ち込んでいってるような、そんな感じ。あれだけセーブしてたのに最後のラッシュ力が残ってなかったところは相当衰えたとしか言いようがない。若い頃は相手が座り込むまで殴る殴る殴る殴る殴りつける、て感じだったのになあ。

正直、再戦でも勝てるかどうかは微妙な気がする。また政治力が働くかもだし。う〜ん、次でラストマッチですかね・・・?何とか勝って有終の美を飾って欲しいんだけど。

ついでに川嶋vs徳山は途中から観たんだけど徳山は相当出来が良かったね。今までで一番良かったんじゃなかろうか。この出来で試合できるならまたしばらくは防衛できるかも。個人的には階級上げて2階級制覇とか狙って欲しいんだが、やっぱりパワー不足かな?川嶋はお疲れさん。
 ん、んー・・・・・・?予想が当たっちゃったっぽい・・・orz
テイラーやっぱり強かった。思ったとおり右の一発は後半に入るまで不発だった。

 でも、あんまり打たれてないあたりはさすがだよねホプキンス。
 早めに仕掛けていれば勝ってたんじゃないか?戦略を間違えたのではないか?という見方もあるかもしれないけど今のホプキンスにはこれが精一杯なんじゃないだろうか。アレン戦でもいきなりばてたりしてたし。普通に40歳でこれだけ強いのが異常なことなんだから、これはやっぱりしょうがないような気もする。
 テイラーは良く頑張ったと思うし、ホプキンスもやっぱり最強王者の資格に足りえる意地と誇りを見せた試合だと思う(観てないから単なる思い込みだがな)

 ホプキンスのスタミナがもっと落ちていたら後半にKOされる可能性もあるかもと思ってたけどディフェンスの上手さとペース配分の冷静さは相変わらずだったみたいだね。試合後顔面がぼこぼこだったのはテイラーの方だったらしいし。試合に負けて喧嘩には勝ったといったところかね。ロイにも喧嘩では勝ってたよ(笑)
 喧嘩不敗伝説だけは最後まで貫いたってことで、再戦はなしでいいと思う。再戦するならそりゃ応援するけど。

 テイラーはホプキンスに勝ったからには今後負けたらダメッスよ。モンソン、ハグラー、ホプキンスの系譜を受け継いだ伝説の世界チャンピオンを目指して頑張ってくれい。
 凹んでないかといわれれば嘘になる・・・(´・ω・`)
 この前のテキストはさすがに過激すぎたかと思う。本音じゃねーですよ。僕の精神の過激な部分を過激に書き殴ったらあんな感じになっただけで。ヒキコモリという経済主体オンリーの市場なんて形成しようがねーだろボケェ、てな感じですよ。
 でもせっかく経済学部通ってんだからちゃんと経済勉強してからヒキコモリ経済学、ヒキコモリ経営学とかの本を書いたら俺はオタクの英雄になれんじゃねえか?ぐふふふ・・・ああ、違う、誤解だ。俺は常にスタンドアローンの孤高の男ですよ。みんなで世界同時に独立主体として実存に目覚めないと意味ないからね。社会主義が世界規模で同時に発生しますよ、とか言うレベルの夢物語ですけどね!もう八方ふさがりですよ!死のうかな・・・orz

 まあいいや、んなことよりアクエリオンとかいうアニメがやたら面白いんですが。あれくらい突き抜けて馬鹿だとストレスなく観れるなあ。シルヴィアたんのボイスには僕のやさぐれた精神も幾ばくか癒されるもんですよ。かかず先生は本当に良い声をしてらっしゃる。これからも優良ツンデレ専用声優として声が擦り切れるまでガンガって欲しいなあ。
 今日はホプキンスの試合かあ。つか、テイラーのこともかなり好きなんでテイラーが勝ってもそれはそれでいいかもしれないとか思い始めてる。
 ヒキコモリ問題の話とか、キレル少年問題とか、社会のうざってー少年たたきが腹立たしい。テメエらが生んでろくに子育ても出来なかったための尻拭いを「現代の若者は・・・」とか腐った日和人間のタームで規定化すんじゃねっつの。責任転嫁もはなはだしい。

 まあ実質的な問題は親子愛の欠落じゃないと思うけどね。子供は親に愛を求めちゃいけないし、親は子供に愛を与えちゃいけない。期待しちゃいけないんだよ。愛なんつー都合良すぎな詭弁で抽象的な観念には。 もっとプラクティカルに、もっと作業的に子育てはしないといけない。そこに理念を介在させちゃ駄目。利害を求めちゃ駄目。見返りを求めちゃ駄目。子育ては子育てとして独立して、ただ子育てであるべきでね。うちの親みたいなのは割と理想に近いよね。何処までも果てしなく放置主義。放任主義じゃなくて放置主義。

 俺は日本人は率先してヒキこもるべきだと思う。 全員がヒキコモッテ、ヒキコモリによる新しい社会モデルを作ればいいだけの話であって。
 どっちにしろ現行の対面社会で機能しているシステムがどうしようもなく、ろくなもんじゃないことくらい誰だって気づいてるはずなのに、いつまでも死んだ・・正確には亡霊と化した対面社会にいまだにすがって必死こいて頑張っている。相互理解なるものが形成されうる、とか信じきっている阿呆な人間が多過ぎ。
 一人一人が独立した主体として新の実存(w)主義に目覚める為には ヒキコモルのが一番の方法だろう。だのに実際に実存を求めた腐れ団塊世代の爺どもは若い頃には学生闘争とかイデオロギー持ち出して社会様に迷惑をかけた癖に歳をとってからも、社会にどんどん投資してくれる余剰主体のヒキコモリたんを罵倒してホロコーストして根絶やしにしてやろう、なんていう迷惑極まりない差別行動で自己満足に浸るくらいしか出来ない。心底のアフォとしか言いようがない。
 そのまま対面社会で実存実存、革命革命、目覚めよ目覚めよ、とか空回りする青春の幻影追っかけて死ねばいいと思います。超ウザイッス。

自己分析

2005年7月15日 エッセイ
 すべてをあきらめるという宣言は言語を放棄することだと僕は書いているのだろう。
 言語を全否定してしまうと僕らはただの猿になっちまうのか、と考えたりした。言語なくして論理的思考は可能なのだろうか。多分可能だろう。というかそもそも猫や犬にだって論理的思考は宿っていると思う。

僕が立ち上がる→えさをやる→食べる→しばらくする→立ち上がる→えさをやる

の動作を何度も繰り返せば猫は立ち上がる=えさをもらえる、という思考プロセスを形成するわけで、それは論理的思考と言えるのではないかな。僕らはもともと持っている論理的思考を言語化することでそれが自明であることを証明しているだけで、もともと頭の中に思考のプロセスを持ち合わせているのだろう。
 だけども、この「現に存在する言語化不可能な思考プロセス」というもの、つまり「語りえない何か」はあるのだろうか?それはたとえば「存在」であったり「意味」「絶対性」「神」と呼ばれる公理をさすのだろうけど、それは僕らが勝手に言語化しているだけで、説明がつかなくなる矛盾性をはらむのは当たり前だとも言えるかもしれない。僕らの始動させる行動そのものに公理的な何かはあるだろうか?
 ここに矛盾性が見つけられないと僕は何もかもを放棄することを、さらにあきらめなければならなくなるのかもしれない。となるとまた頭がぐるぐるぐるぐる・・・
 ホプキンスは今一番好きなボクサーなんですが、さすがに40歳という年齢が気になるったら気になる。ここ数年のホプキンスは浜田さんも指摘するように大事に戦うようになった。4、5年前までのホプキンスならば多分ジョッピーもアレンもイーストマンも強引に突っ込んでKOしてたんじゃないかと思う。この大事に、「省エネ」で戦うスタイルを単なるスタイルの変化と見るのか、そう戦わざるをえないのかと見るのかでテイラーとの決戦の試合の行方が分かれるのではないかと思われる。
 つまり「そう戦わざるをえない」というのはスタミナ配分に気をつけないと、ディフェンスに気をつけないと、最後まで持たない、ということを示唆しているように僕には感じられる。
 
 一方のテイラーは体が大きく、全身にバネが感じられ、ハンドスピードもパンチもある。手数も多いし、何より距離が長い。懐が大きい。そして若い。はっきり言って強い。今までの防衛戦の相手とは一枚ランクが別だと思う。バランスはあまりよくないようだからそこをどこまで修正してきているかというのも気になるけど。ホプキンスとの年齢差は14歳。本人もホプキンスをアイドル視するくらいに世代差がある。このテイラーの若さがホプキンスの老獪さを上回る気がしてならない。
 
 ホプキンスは右の一発ねらいがはずされたときは苦戦を強いられる傾向にあると思う。たとえばアレン戦。たとえばロイジョーンズ戦。ともに強い選手だから苦戦というよりも単に実力が拮抗してただけだとも言えるけど。
 テイラーは今までの相手の中で一番距離が長いだろう。果たしてホプキンスの右がベストタイミングでヒットするかは結構微妙な気がする。ジョーンズ同様にジャブもかなり鬱陶しいだろう。もしも右が入らず終始テイラーがジャブをついて手数を稼ぐような展開になれば判定負けはありうるのではないかと思う。
 もうひとつ負けるパターンとしてはホプキンスの馬力を生かした反則スレスレ混じりのラフファイトが通用しない場合だろう。
 最近のホプキンスが若干フィジカル面に不安があるように感じられてならない。一回り昔より縮んだ印象がある。計量後のリバウンド現象が起こってないのじゃなかろうか。ロープ際につめられることも増えた。しかり誘っているだけなのかも知れない。スタミナをセーブしているだけかもしれない。だけどもしかするとやっぱり年齢的な衰えがいいかげんに兆候を見せているんじゃないかという不安がぬぐいきれない。
 アントワンエコーズ戦並みの消耗戦を強いられたとき、自分から仕掛けていったときに、果たしてスタミナが12R持つのかという疑問がどうしても残ってしまう。

 今までのことを総括して予想を書いてしまうと、テイラーの判定勝ち、もしくは後半KOという形の予想が導き出されてしまう。ベストのホプキンスが相手なら「やっぱりあと一年挑戦は早かった」といえる結果が予想されるものの、現在のホプキンスはやっぱりベストだとは思えない。この予想は当たらないほうが僕としてはうれしい。是非とも外れてくれることを祈る。40歳で四団体統一王者なんてかっこよすぎだしねえ。つーことでホプキンス勝ってくれ。

NHKにようこそ!

2005年7月10日 読書
ISBN:4048733397 単行本 滝本 竜彦 角川書店 2002/01 ¥1,785

 滝本はファウストとかで読んだり、イタイ言動をしたりしてたのを観て結構好きな作家だったのだけど実際に本を買って読んだのは今回がはじめてだった。漫画版はまだ結構コメディタッチなんだけど、こっちの原作の方は笑えるんだけど、かなり痛々しい。
 当時の滝本は本当に追い詰められまくってたんだろう、というのが文面の節々から呪いの宿ったように伝わってくる。こういう魂のこもった、作家が必死になって破綻も気にせず突っ走ったような内容の物語は僕は好きです。必死なやつが僕は好きなのだろう。僕があんまり必死にならないやつで、本気になって失敗することを恐れるようなヘタレだから余計にそう思う。
 これくらいに必死で切実な話を書けるにはどうしたらいいのかなあ。滝本くらいに他人に対して必死になれたらいいのだけれど、僕はすでに何か、あきらめてしまってる・・・
 あきらめても何か残るだろうと思ったがまだ何か残りかすがあるのかどうか本当に微妙だ。死ぬ意欲すら湧いてこない。ああ、多分今腹が減ってるからそう思うんだな。生命力が足りない・・・
 
 内容としてはヒキコモリの精神がびしびし反映されている話だろう。つーか主人公は多分滝本さんそのものだろう。僕はここまでエキセントリックにコンプレックスを抱えたことがないんだが、他のヒキコモリストの人たちはこんくらいにやばいのかもしれない。そういえば友人のDはこれくらいに必死だった気がする。何もかもをあきらめた上で必死になりたス。腹が減った・・・飯を食おう。

 あとがきは2001年版と2005年版のとがあったんだけど、2001年版の滝本は一人称を「僕」と称していた。そしてこの問題が現在進行形であると言及していた。一方2005年の滝本は一人称を「私」として「この作品は面白いよ。だからみんな買ってね」らしきことを言及していた。これは滝本自身における、この作品の位置付けが遠い昔のこととなってしまったという皮肉な現状認知のあとがきなのだろうと思う。
 多分、4年前の滝本はこんな自分になってしまうことを何よりも嫌い、成長することを拒絶しているまさにミスターチルドレンな存在だったのだろう。しかし、現在の滝本は革命を起こすことも成長を拒絶し、死ぬことも出来ず、うやむやなままに大人になってしまい、そしてその痛々しい自分の過去を傍観者の目で眺めてしまっている。そんな自分に腹がたつことすらもない。そのこと自体に何か苛立っているように感じた。というのは深読みしすぎかねえ?
 でも多分2001年の滝本が現在の滝本を知ると、きっと殺しに逝くと思うんだよね。ああ、だから腹が減ったんだ。飯を食おう。
 たとえば恋をあきらめても恋はあるかもだし、コミュニケーションをあきらめても応答不能だろうがコミュニケーションは起こりうる。問題なのはそこに他者性を見出してしまうことにあるのだろう。寂しいときは寂しいのだといえる世の中になればいい。そこに相互理解というおぞましい同一性による主体が生まれるから戦争も争いもなくならないし、嫉妬やヒステリーが巻き起こる。

 独立した主体の思惟同士が肉体を絡めるようにまぐわることなんて絶対に起こりうることじゃない。もし、それがあるなら僕らはとっくに人じゃない。何もかもをあきらめてしまっても、悲劇は悲劇としてちゃんとそこにあるものだし、人の心の「やさしさ」もきっとなくなりやしないのだろう。だって本質的に人がそうなら、それらが消える道理はないのだし。僕は人がそういう生き物であるということを信じたい。

 逆にやさしさが言語化されてしまうと、それは冷たい客体と化され、定義付けの嵐に巻き込まれ、やさしさは決してありうることのない相互理解の小道具に成り下がってしまう。本来重要なのは言語じゃなかったはずだ。ウィトゲンシュタインが述べようとしていたことがだんだん分かってきた気がする。
何もかもをあきらめてしまえばいい
他者との相互理解を
異性との意思疎通を
親と子の関係を
友情を
絆を
愛を
金を
幸せを
神を
否定神学を
ニヒリズムすらも

すべての未来へと連なる展望をあきらめてしまえばいい
すべての自己実現的欲望を捨て去ってしまえばいい
すべての欺瞞的な正義と悪を切り取ってしまえばいい

誰も彼にも期待しなければいい
自分すらも信じなくていい

何も信じず、何も愛せず、すべて、ただそこにあるものすらも捨て去って消え去ることすらも否定してしまおう

時間性すらも
世界を包摂する自我も
客観も

そうしてすべてを否定しきったときにまだ残っているものがあるなら、ただその「何か」を生きてみよう

何かのために生きればそこにまた愛欲が芽生える
他者性が生まれる
そんなのはごめんだ
恐ろしくてごめんだ

僕はただその「何か」を生きよう
 とりあえず当面の僕が気づいたこと、個人的な思索の末に結論だてていることを述べると、これからの人間は「思想的な意思疎通をあきらめなければならないのだ」という結論に至る。

 とにかくイデオロギーをはらんだ主義者や思想家のアジっぽい言説はすべてにおいて、アテにならない。例外なくアテにならない。これはもう哲学者においても一緒で、哲学者なんて思想家となんも変わらなくて単に後だしジャンケンやって、結果論的にシニカルな結論を導き出してこれはアプリオリだ、いやアポステリオリだとか意味のない言葉遊びをこねくり回してるだけのチンカスでしかないのも良く分かった。(好きだけどね)
 とにかく人は人を信用してはいけない。それでも人を信じたい人間は対象者という自己の中に内在する他者という自己を愛すしかない。決して観測しえない他者そのものをアテにしてはいけない。アテにするとその人間と自身との思考精製過程の温度差に驚愕し、絶望させられるだけなのだ。だから最初から意思疎通はあきらめてしまわなければならない。他者に指向性とか同意を求めてしまうとその時点でカルトが発生してしまう。思想が発生してしまう。徒党が発生してしまう。それは危険な縄張り意識の始まりでしかなくて愛すもの以外それらすべてを疎外してしまう。そしてその愛すらも絶対でないことを知る人間はこの世のあらゆるものに絶望し、結局は他者に冷たい自己中心的な傲慢な人間性にいたる。自分さえ良ければそれでいいのだという結論に至る。
 愛の絶対性が単なる欺瞞であることすら気づかないおめでたい人間は平気でシステムを壮大な幸福発生装置だとか勘違いするし、平気で人を傷つけ、それを正当化しうる言説があるという錯覚に陥る救いようのない人間になってしまう。

 僕たちは幸福など一生訪れることないのだから、他者と分かり合えることなど絶対にありえないのだから、幸せでなくても大丈夫なのだ、という強さを獲得すべきなのではないだろうか。ニーチェは多分こんなことを言って発狂したのかな?それでも声を張り上げて俺は幸せだよ!と欺瞞的と分かっていながら欺瞞としての愛を宣言するよりも多少楽ではないかと思えてくるのだけど。アズマンや舞城王太郎とはこの点で少し結論が違ってくる。幸せじゃなくてもいいのだという納得が必要なんだ。

宇宙戦争

2005年7月3日 映画
 とりあえず観てきた。ダコタファニングのレイチェルたんにハアハアするのとパニック描写はなかなか良かったと思う。いい感じに宇宙人が間抜けなのも良いね。家庭崩壊ネタは相変わらずマンドクセー上にどうでもいい。最後はしっかりと家族が生き残ってるあたりはさすがだな兄じゃ。苦難の向こう側には必ず救いが必ずありますよ、か。カー・・・( ゜д゜)、ペッ。馬鹿じゃねーの?くらいかな。まあ面白かった。
「およそ言いうることは言い得、
 語りえないことについては沈黙しなければならない。」
とはキルケゴールの言葉ですが(太一の脳内では)この世に語りえることなんてあるのかすら疑問だ。果たして塩という言葉は塩そのものを表しているのか。うんこという言葉はうんこそのものを表しているのか。強さと言う言語は強さそのものであるのか。

 強さと弱さは相反する単語であるにもかかわらずそれが同居していなければ本当の意味での強さではないと人はいう。強さと弱さの同居とはその中間である「普通」であることではないし、中途半端にふらふらとどちらかと決めかねている「優柔不断」な人間を指しているわけでもない。強さとは臆病であると同時に豪胆でなければならない。果たしてそれは本当だろうか?これだけはっきりと乖離している言語の強さと弱さが同居しうることなんてありうるのだろうか?

 言語的に解体するならば、これはまさに矛盾している。矛盾とは実在しえないということになる。矛盾であるから実在しえない。実在するということはそれはしっかりと矛盾のない存在であるから実在であるといえる。矛盾律が絡んでくるとその瞬間にその実在は言語的に不在の烙印を押されることになってしまう。あくまで言語的には。

 ウィトゲンシュタインはこれを言語の限界だといっているし、ヘーゲルはこのアンチノミーな状態にこそ客観としての神が宿るのだという。強さと弱さの同居であったり、塩の味と色彩の同居だったり、うんこの臭いとグロテスクな視覚とは、全く別の言語でありそれらが同時に実在されることはありえない。なのにそれらは現に実在する。実在してしまっている。強さとは結局語りようもないことであるのに「本当の強さとは強さと弱さを同居しているものだ」と無理やりに解釈しているだけなんだろう。

 悟性はこの世のある側面を捕らえてはいる、とヘーゲルは言っていたけども根本的に何も保証されていない実在性について何か確かなことなんてひとつでもあるんだろうか?
 実家でビデオ録画しているのでいつも試合は一週遅れで観測している僕ですよ。メイウェザーvsガッティをようやく観れた。メイウェザーのスピードはもう言わずものがなどうしようもないのだけどガッティからすると1R目のダウンが痛すぎた感じがする。ガッディの作戦としては出来るだけメイウェザーのパンチをはずしてリズムを崩させようという苦肉の策だったのではなかったかと思う。それがあのへんてこジャッジのおかげで早々に瓦解してしまい、逆に冷静さを失い、その上メイウェザーをのせてしまった。のっているときのメイウェザーは誇張でなくスピードが5割増くらいに見えるから本当にどうしようもない。

 むちゃくちゃ調子よさそうに見えたメイウェザーだったけれど1R目はちょっと浮き足立っていたように見える。無理な体勢から左フック返したり、まだ右の距離測定もあっていなかったので変なジャッジでダウンさせられるまではガッティはよくやっていた。ガッティはメイウェザーの動きが硬かった時点で、つまり1R目で一度勝負をかけてみるべきだったのではなかろうか。メイウェザーに勝つためにはスピードに乗せないことと、とにかくリズムを崩させることが前提の気がする。てまあそれが出来りゃみんなやってるかあ。コット先生に期待。
 ニヒリズム的視点で見ると絶対的なアイデンティティ(神、実存)なんてものは 形成しようがないので、よって社会でよく言われる「成長したよき大人」なんて ものは定義しようがない。単なる幻想だし、システムによる先鋭化されたオートマトンを精製しているだけで、それは変化であって成長でもなんでもない。抑圧的で傲慢な命令形でしかない善良なる大人は「偉い」ではなく「偉そう」な人間でしかない。結婚することは偉くないし、社会人になることも何ら偉くはない。それはわれわれの時代の人間が「そうである」と資本主義のシステムになぞらえるように、つじつまを合わせるように、道徳やら法律やらを改変していっただけに過ぎない。昔はブサメンだろうがセックスできたし、恋愛なんて糞メンドクセー仲介なしに結婚が出来た。そうしたほうがその「時代的に」便利だったからだ。

 単なる一時代のパラダイムにコミットして 「偉そう」にしてるだけなのが「大人」の実態だ。いまだに虚構の平和の象徴ともいえる経済や法律なんてものに自己を委託して安心している人たちは、監視されるマゾヒズムで神を実感している。神は死んだのに神の亡霊はいつまでも現実世界を跋扈していく。そしていつしか「大人」に目覚め、「成長」したかに見える高圧的なその人たちは自分たちが子供の頃何をされたかも忘れて、「成長せよ」という強制を促す。

 元長征木が「成長などしてやるものか」という結論の論文をファウストで書いてたんだけど、じゃあその高圧的なよき大人にならないで社会を機能させることは可能か?という問いに関して何か具体的な方策があるのかというとそれがなかなか難しく・・・。
 フーコーは監獄を法律違反者を非行者という狂気に変えてしまうのだと指摘してましたよ。
●コンスタンチンチューvsリッキーハットン○(11R終了時TKO)
○ミゲールコットvsムハマドアブドゥラエフ●(9R終了時TKO)
○フロイドメイウェザーvsアルツロガッディ●(6R終了時TKO)
●ビビアンハリスvsカルロスマーサ○(7RKO)

 今年はやたらとノーマス(ギブアップ)の多い年だなあ。セコンドとしては選手がこれ以上凹されるのが嫌だという気持ちはわからんくもないが・・・観てる側としてはダウンシーンが観たいのも素直な気持ちだったりする。

 やっぱりメイウェザーは頭ひとつ抜けてるかなあと思う。ハットンみたいにしつこくねちっこくこられると案外苦戦はしそうな気がしなくもないけど、なんだかんだで上手くあしらってしまいそうだし。アブドゥラエフが思っていたよりずっと強かったせいか相対的にコットがあまり強くないように思えてくるけれど、実際にメイウェザーがアブドゥラエフと対戦しても結構ロープにはつめられるんじゃないかなと思う。当たるかどうかは別として。

 何がいいたいかというとこうなってくるともうメイウェザーVSコットしか残ってないよなあ、てことですよ。ハットンは英国にヒキコモリそうだし、ジューは引退するかもしれないし、ガッディは予定通り陥落するし、ハリスは自滅するし、で、いきなりSライト戦線はクライマックスを迎えることになるんじゃないの?コットにはもう少し経験をつんで欲しいというのもあるけど、メイウェザーは多分今がピークだと思うので今年か来年あたりまでに実現しないと新鮮味が薄れるっすよ。早いとこやっちゃって、Sライト級の決着戦見せて下せえ。

 ちなみに僕は割とハリスが好きでした・・・orz

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