贖罪

2010年11月13日 エッセイ
安全な個室から対岸の屑社会人どもを批判していた過去の自分。実際に屑社会人になってヒステリックな連帯感に組み込まれながられも、時折、俗物的な悦びを感じてしまっている現在の自分。どちらにも共通していえるのは等しく屑だということだ。

こうなることは目的を失った時点でわかりきっていたことではあるけれど。予想していなかったのは、自分が思っていたより適応力がそれなりにあって、あれほど毛嫌いしていた生臭い党派意識のようなものを遺憾なく発揮してるらしいことだ。俺は1人ではなかった。悪い意味で。

だから、とりあえず子供の頃の自分に謝罪すべきかとも思ったけど、子供の自分も大人になるとやっぱり俺になるので、何度繰り返してもやっぱり屑は屑なのだ。なるほど、これが永劫回帰か。
では子供の頃の自分を殴りに行けばよいのか。何故生まれてきたのかと説教をするのか。これも違う。やっぱり屑になるのは変えられようもない。

かつて過去と未来を連ねて現在を肯定的に引き受けようという思想が根付いていた時代がある。実存主義。しかし無理だ。だから人は祈るのだ。神に。萌えキャラに。
僕は漫画家になるのを諦めてしまった人間なので、これからはより批評的、哲学的に「物語とは何であるのか」ということについて探求する欲求が深まるであろうことが予想される。なので、そのことについての現状認識のようなもののまとめを記しておこうと考えた。


・端的に言ってしまえば物語とは「願い」のようなものだと解釈している。こうであればいい、こうであってほしい、という願いが物語を形成し変容させ、ドグマティズムへと昇華させていく。
だから、現実と物語には、当然乖離がある。

現実に象徴界(物語)なるものは存在しない。それは我々が描いている仮想現実(物語)に過ぎないのだから。我々は世界の断片だけを収集し、世界そのものをさも「こうである」という風に総括を執り行うが、それ自体がフィクション(物語)であり、つまりはドグマなのだ。
では物語では認識を間違えるのかを問えば、万事がそうではないと思う。というより人が物語を認識しないことは原理的に不可能なのでそこは、きちんと折り合いをつけていくほかないのだ結局のところは。

ただし、付け加えるとすれば、物語と現実は常に相関関係がある。現実が物語を生成し、また、物語は現実を侵食し、包括する。人々の物語がシンパシーで連結されることで、神にも似た何かが巻き起こり、現実が決壊する瞬間は確かに存在する(ように見える)。だからそれが何であれ、人は祈りを捧げずにはいられないのだ。


・僕は著作権、肖像権、というものがあまり好きではない。
創作物は生成されたそのときに本体である創作者からは離れ、一つの独立した「何か」へと転化する。その転化した何かは、世界と創作者を繋ぐためのデバイスとして機能するのだと言われがちではある。

しかし僕はそれは違うと考えている。物語はコミュニケーションの道具ではない。物語は創作者から独立した瞬間から、別の不特定多数の人間の想像界に意味を投げかけるものへと変貌するのだ。そのとき、他者と創作者が見ている物語媒体のそれは似ても似つかないものになっているはずで、多くの誤配を生む。

創作物とは、つまり人間の文明において、唯一コミュニケーションを切断したまま世界に風穴を開けるための手段なのだ。だから創作物における物語とは世界に対するコミットメントではなくてデタッチメントでなければならない。
半分直感的な話なので間違えているかもしれないけれどおそらくはそうなのだ。作家は外界への欲望を絶えず切断し続けなければいけない。僕はそう思う。
自分が生み出した、自分ではない何者かが世界のアーキテクチャとして機能している状況は、メタフィクショナルかつ愉快なものでなければならない。そう考えている。
コミュニケーションにおいて自身の優位性を誇示することにしか興味のない連中に僕は心底嫌悪感を催す。高圧的な人間は敵であると感じる。
しかしながら人間の本質と共同体は常にそのようなパワーポリティクスによって成り立っている。
愛も、友情も、優しさも、全ては普遍性を装うだけの私的利害の関係性によって成り立っている。
だから僕は総じて人間が嫌いなのだ。
生まれてくる価値はないとまで言い切れる。

それでも何故、物語(創作物)を愛すのかといえば、そこには人間の自意識(エゴ)から開放された純粋な「願い」のようなものだけが存在するからだ。廃れた校舎や誰も寄り付かなくなった廃墟の美しさにも通ずるものがある。
物語の存在しない世界に意味を見出すことは出来ない。
ペルソナシリーズの音楽ライブ映像があったのだけどいいものだね。
音楽ライブには素の身体を肯定するパワーがあるのだなあ。
今敏監督永眠か。だが素晴らしい幕引きだと思う。

http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/565
他者が到達不可能なものであるとすれば、だからこそ物語を紡ぐ意味があるのかもしれない。それはつまりその物語を構築した人間の願いのようなものなのだ。だから僕は物語の力に惹かれるのかもしれない。
セカイ系ってのはつまり物語たちの終着地点であり墓場のようなものなのかもしれない。大きな物語は終わった。では小さな物語はどうか?これは人間が生きている限り永遠に終わらない命題なので消えることはないのだろう。その代わり賞味期限はだいたい10分程度が平均と思われる。
だいたいニヒリズム(≒近代的自我)、ポストモダン、シミュラークルあたりで説明がつくような気がする。現代思想が取り扱っているテーマは全てこのあたりの応用で、それ自体が一種のシミュラークルであり、肯定的に捉えるならば脱構築という言葉で解体することが可能なのだろうか。

何故ニヒリズムなのかと問えば産業革命以降、神(超越性)が消失したからであり、そこから発生してくる価値観が実存主義であり近代的主体なのであり、何故ポストモダンなのかと問えば近代的主体を支えた大きな物語が凋落したことによる物語や思想そのものの共有圧力の低下によって人々の価値観が多様化(小さな物語化)したからであり、何故シミュラークルなのかを問えばそれらポストモダン的価値観が円環構造をなしたループを永遠に繰り返すだけだからなのだ。(脱構築は螺旋構造的にループを捉えているのかな?)
そんなことを考えていると思想という言葉も物語の力ももはや意味を成すものだとは思えなくなるのだ。

残るものは我々ひとりひとりの実存の救済というキャラクターを取り扱った命題だけであり、その到達点としてエヴァであったりAIRであったりがするのではないかしらね。俺にとってはガンダムなわけだけれど。
セカイ系の起源は村上春樹なのかエヴァンゲリオンなのか。セカイ系の多くの作品はポストエヴァンゲリオンというよりは村上春樹的な強固な個(デタッチメント)への逃走が主題になっているように思える。
村上春樹が起源だとすれば、成長の拒絶、または不可能性を主題に扱ったものをセカイ系だと確定することも可能になりそうだ。

ビューティフルドリーマー→世界の終わりとハードボイルドワンダーランド→エヴァンゲリオン→ONE/AIR→九十九十九→QF 

…東浩紀の変遷をたどるとこんな感じだ。東浩紀の関心とセカイ系の文脈は近いようで結構離れているように見える。だとすれば「押井守・村上春樹・麻枝准・東浩紀」という一見ばらばらに見えるクラスタを定義する言葉が欲しい気がする。東浩紀=セカイ系って風に誤解している人って俺も含め結構いそうな悪寒だ。
俺がどうしたくてどのように決断するかは俺が決めることであって、誰かに言われたからとか、頼まれたからとか、誰かのために、とかそういう理由でやるわけじゃない。俺がやりたいからやる。それだけだし、それ以外の動機はほしくない。美談にされるのも価値を求められるのもごめんだな。

なんだこの中二病…。だけど本音でもある。
ツイッターて人を選ぶツールだというけど、実はある程度の才能がいるんだなということに気づいた。ツイッター的な才能ってなんだろうか。俺はパフォーマティブな言説を的確に理解しつつ、なおかつスルーできるスキルを所持した人間ではないかなと思っている。
つまりこう言いたいのだ。現実ってのは物語のように地続きではなくて断続を繰り返す、よくわからないやっかいな奴らなのだ。にもかかわらず我々は物語的文脈で世界を捉えようとする。それはある種の誤謬を生む源にもなっているのだと。

これってつまり象徴界と現実界の問題に過ぎないのだけど、問題は近代まで存在していた「大きな物語」が抜け落ちてしまい、想像界に無数のデータベースが組み込まれ、そこからアウトプットされるもの(象徴界)は全体性を喪失した「小さな物語」たちに過ぎないという点なのだ。

東さんの言う「動物化」という概念は個別で完結しうる問題ではなくて、人間間のコミュニケーションにまでその問題性を拡大している。僕らが他者を評価する際に「おまえのキャラって~だよね」というのはつまり他者の向こう側にデータベースを見ている事例としてはかなり象徴的なのだ。もともと物語内的であった人間の視線は更にメタなフィルターを通して包括され、他者の向こう側に各々で勝手な「萌え」やら「心理学」やら「非モテ」やらの人間不信データベースを構築して、それがディスコミュニケーションにつながる引き金になっているのかもしれない。

現代のコミュニケーションはデータベースの共有なくしては成立しえない。にもかかわらず我々個人が所有できるデータベースの容量などはたかが知れているし、更に言えば志向性すら存在しない。
そしてこれが異性間によるものになれば他者はより遠くて深い溝に覆われた到達不可能な存在になっていくのかもしれない。動物化ってつまりそういうことなのだ。非常に厄介である。
泣きゲーやらラノベ、漫画、アニメ、いわゆる「到達可能なキャラクター」がそろっている物語媒体は寂しさを紛らわすために消費されているにもかかわらず人をますます孤島に追いやるための道具になってしまっていて、キャラクターという理想の他者はいっぱいいるけど、僕らはそれに触れることも出来ない。

一方「到達不可能な他者」のそろう現実は、浅くて広いコミュニケーションするには面倒くさく(それだけならネットに接続するだけで可能になるし)、狭くて深いコミュニケーションを実現させるためにはあまりにもディスコミュニケーションの溝が深まっていて難しくなってきている。

ムラ社会化を推し進める無言の強制力にはどのようにして立ち向かうべきなのか。具体的な方向性というものを見出す必要はあるね。その辺頑張って考えていこう。
そうか。ゲーム的リアリズムの文脈で語るなら人間個人の問題も物語的に包括しうるわけだ。我々は現実に生きていながら物語り内に生きているかのような錯覚、もしくは物語的にしか生きることの出来ない現実に直面しているわけで。

それはつまりオブジェクトレベルで見ている自分をメタレベルにまで引き上げる想像力というものが、とかくゲーム的リアリズムが日常化している我々現代人には備わっているのだということなのだろう。

だから死を悲しむと同時に、それを笑いとして消費することも可能なのだ。記憶の中で何度も反芻される死の解釈はゲーム的に、何度も視点を変えて包括され、脱構築を繰り返すのだ。そこに宿る愛という言葉の両義性が悲劇を喜劇に、喜劇を悲劇にも変化させうるのだ、恐らくは。
他者の死という概念を前に、人は喪に服すことでとりあえずの意味を棚上げするわけだけれど、つまりは我々にはどうしようが抗いようのない虚無だということだ。生は蓋然性によるものなのに生まれてしまえば最後。死だけは必然的に訪れる。
我々はこのどうしようもない悲劇性に対して時に涙を流す。

ところが同時に死は喜劇性をも含む。死をオブジェクトレベルの位相に移し対象化することで我々はそこにしばしば喜劇なるものを見出す。
毎度のごとく撃退されるバイキンマンやら特撮の怪人たちを見て子供たちはそのこっけいな死に様に笑い声を上げるのだ。

死は何も生産することのない変わりに、もっともニヒリスティックで超越的な魅力を秘めているのも事実で、そこには人間の生まれるつもりもないのに誕生させられた悲劇性と、にもかかわらず絶対的に死んでしまうという喜劇性が同居しているのだ。僕が舞城王太郎に惹かれる理由は死の喜劇性と悲劇性を同じ位相で行うことに成功した稀代な作家だからなのだろう。
帰宅途中にラジオでビートルズ特集があっていた。

作家性なるものの宿る音楽とはいかなるものかというのが、よくわかった気がする。音楽というものはその時代感というものをモロに反映する媒体のようで、行った事もないのに60年代、70年代というものがとても熱く感じられ、物悲しいような懐かしいような気持ちにさせられた。

しかし、情報の供給速度のあまりに早い現代において作り手独自の普遍性なるものが生まれようがあるのかと問題がある。全てはネタとして消費され、また新たなデータベースに組み込まれ、全体の意識はスーパーフラットな状態に落ち着くだけではないのかと。
だか、しかし、何気にあったんだなこれが。愛だよ愛。

萌えや物語のダイナミズム自体はもはや「データベース」以上の意味合いは持たない。普遍的なもの。独自的な思想。実存的な承認欲求に答えれるもの。自分だけが持っている唯一性を確認するすべ。作家性を構築するために一番必要なもの。これってやっぱ愛に変わる代替物ってないんだということに気づきました。いやあ愛って偉大だなあ。
圧倒的な現実を前に人はそこへいたるまでのメタ物語性(運命だとか因果だとか)を喚起する生き物なわけだが、それって実はただの思い込みに過ぎなくて、リアリティというものは常にその現在という時間性にだけ宿るもので。

俺はこんなトラウマ的過去があるから・・・
こんな過ちを繰り返してきたから
今までいい加減に生きてきたから、
このような失敗を繰り返してきたから
おそらくこう動けばこのようなつっこみが入るだろうから

=だから何も出来るわけがない。

という前提はメタ物語的には回収できる事象ではあっても、現実という空間においては適応不可能な前提なのではないかと考えている。

時が常に断絶を繰り返しているのであれば、歴史観や前提などは意味をなくす。
それを防ぎたくて人間は物語において物事の関連付け、伏線作り、メタファー作りに試行錯誤するわけだが、物語ではなくて現実に連続性があるかといえば、実はそうでもないのだろう。
結果が出てからそこに物語性を見出すことは簡単だが、だったら別のシナリオだってありえたはずなのだ。

だから、そんなもの関係なくどこまでも愚かしく挑戦し続けてもそれは何もおかしなことではないのではないか。ま、屁理屈だけどね。しかし、なんにせよ僕らが考えているほど、現実は物語的なシナリオは用意してはくれない。予定調和よりもはるかに面白いフィクションだとも言える。
人は現実において現実を生きているのではなくてある種の物語的なシナリオに沿って生きていると実感したい欲望を抱えているに過ぎない。現実が物語を作り出すのか物語が我々を突き動かす力となっているのか。なんという相関関係だろうか。面白いよなあ。

ラカンのことばを借りるのであれば
リアリティとは現実界のことで
フィクションと時間性は想像界と象徴界の出来事になるのだろう。
頑張っている、真面目にやっている、というのを出来なかったことの免罪符にしている人は、そりゃ間違いだな、て思う。
どんだけサボろうが、てきとーやってようが、きちんとした結果、具体的な数字を上げられる人は生き残り、そうでない人は結局切られていく運命にある。

必死にやってるところを人に見てもらって、あまつさえ褒めてもらおうなんて思うような小賢しさはいらんよなあ。
結果を出すために努力はやはり必要なのだけど、そこにヒューマニズム的な情緒がまじってくると、とたんに現実は不透明な濁りを催す。
思ったけど、理想の人間像てのがあったとして、それは他人に投影したり委託するものじゃなくて、自分がなるように努力するのが一番手っ取り早くしかも確実なのだということだ。

漫画に出てくるヒーローのような他者を見つけたいと思って理想の他者を探すのもいいんだけど、結局自分のヒューマンパワーが不足してるとやっぱりそのレベルの相手としか知り合えないし、共感も得られない。

そして生きていく中で「共感」ほど人間を堕落させるものはない。コミュニケーション志向アーキテクチャに作家性と呼ばれるものが抽出できない理由はそこにあるのではないかと思うのだけれど。

うん、脱線したな。さあ仕事仕事。

人間主義

2009年11月17日 エッセイ
人間主義は形を変えるだけでなくならんだろう。どうせまた否定の否定で元の鞘に戻るだけでさ。何をもって進化というより、人間はどうあがいても進化しないだろうwヒューマニズムという思想はどこまで行っても人間は糞だということが証明しただけだけでw
同じとこをツールと数式組み替えてぐるぐる同語反復し続けるだけじゃないかなあ。
ヘーゲルもニーチェもウィトゲンシュタインもみんなそういってたじゃない。

だからこそシステマティックに染まるしかないし、アバター的な仮想の人格を建前にして、自分を疎外し続けるしかないwそれが一番エコノミーな生き方だからなあ。
人間の思考レベルが明らかに雑魚過ぎたことは今までの歴史と社会が証明してるので、後はこの糞みたいな自我とストレスから開放されりゃ実は問題なんて何もないのかもしれない。

おまえらもっと適当にぬるく生きろよ!思想(笑)も哲学(笑)も楽しいからやるだけでいいんだよ。いいんだよそれで。

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