あ〜あ…やっちゃったよ。
いつもいつもどうしてあんなに身のない
長文をだらだら書いてしまうのでしょうか?
でもいいのさ。
まあ…


自虐はやめにすると宣言しましたし、
僕の深層心理を導き出すためにあいつにベラベラ
意味のない自分のことしか語らぬ
激励文を送りつけて
あいつが奮起されるわけもなく、
やはりあいつも
あ〜あ、
な感じで
また試行錯誤やってくのだろうよ。
結局自分語りの域を脱せない僕。

今更社会派トークもねえだろ、と開き直るのは簡単。
学歴コンプレックスを、
誰でも持ってる程度のトラウマを、
抱え
あしたも
あさっても
どろどろやってくんだろう。

どろどろ、ね。ぐべぶちょ
逆襲のシャアは何回も見直してしまいます。
どうも大好きみたいだ。

シャアはスペースノイドの意志だ、ジオンズムダイクンの志だ、ニュータイプ論だ、とデカデカと公言して地球寒冷化の為にアクシズなんて落っことしちゃいますが、結局大好きなアムロ君に振り向いてもらいたいだけ、というたいした駄目ップリを披露してくれます。娼婦でインド人の彼女を殺されたことがよっぽど悔しかったらしく、でもシャアは小心者だから素直にアムロ、アムロとはいえなかったみたいです。で、地球連邦もネオジオンも巻き込んで壮大な復讐劇が展開されるわけですが、そんな恨みつらみだけの作戦が物語軌道上成功するわけもなく、結局アムロの手によってアクシズは押し返されちゃいます。私情で地球を寒冷化なんてするなよ、というツッコミもこの映画ではよくあるんですが、ウラを返せば、それほどにシャアはララァのこと愛していたということで、その愛のために世界を巻き込んでもいい、という利己主義万歳な作品でもあります。実に少女漫画的!愛のために世界を崩壊させよ!サイコーですね。

エゴというものの中には永遠の愛も含まれる、ということなんでしょう。愛(優しさ)では世界は救えないし、その優しさこそが地球さえも破壊する、とシャアは言いますが、それでも優しさを信じたいという切実な願いの込められたラストシーン。

地球に落ちて逝くアクシズにてサイコフレームの共振を感じならがアムロは「だからこそ人に希望の光を見せてあげなくてはいけないのだ」、と主張します。しかしシャアは「ララァは私のママンになってくれたかもしれなかった女性だ。そのララァを殺した貴様の言えたことか」と捨て台詞。そして二人は彗星になりました、と。そのまま観客置いてきぼりで流れるスタッフロール。
叙事的な富野作品においてかなり希な叙情的な終わり方が好きです。

終末思想

2003年5月23日 エッセイ
終末思想はある程度持ち合わせてなくては
いかん、みたいなこと言ってる人がいた。
今の人は楽観的過ぎる、核や原子力という
大量自殺兵器、人類抹殺兵器が隣に
あたりまえのように存在するというのにあしたも
あたりまえのように来る、と信じきっている。
そんなことでは人は堕落していくばかり
ではないですか、みたいな。
あした死ぬかもしれない、と実感として
分かっている病人の方々などはとても人に優しく
なれるんだそうです。
そういう人たちを隔離した施設。
ハンセン病の施設なんかではとても理想的な
共同体が結成されてたとかされてなかったとか。
まあ分かる話かな。

だから俺は子供を産みませんとかその筆者が
語ってたのは疑問ですが。

日常臭さ

2003年5月20日 ポエム
ぶっきらぼうな俺(そういうキャラ設定だし
素直になれない俺(初々しさをアピール
不器用な俺(裏側見れよ馬鹿
ホントはやさしい俺(そう演じないとあいつら気がつかねえ馬鹿だし
ホントは弱い俺(これもアピールしとかないと
俺の内面、(既に形骸化してますんで
ホントの俺ってなに?(筋トレ大好き
腐敗臭の漂うデータベースの世界
人は平気で二次的なものへあこがれることのできる
面白い機能を兼ね備えてるわけですから

多分

だから平気で他人の悪口も言えて
平気で人も殺せるしカルトになれる

いい方に考えれば無常の愛に目覚めてる自分を
愛せますが、愛のために平気で別世界を
シャットアウトできるので、まあ幾らでも
賛美歌謳えて幸せですな。他人の屍の上でも

反語の反語の反語の

2003年5月18日
いやいやいや、
言論をもってまずオマエは何をやりたいのか?
こんなことをいちいちカムアウトしてる自分がやっぱり恥ずかしい存在なのだと自覚したときやはり形骸化されてるだけの自分発見の物語をダラダラ垂れ流すのは俺ちゃんこんなにカッコイイということをひけらかすことに直結してることには変わりないので所詮ファッションとしての言論にしかなりえないのは痛い。

ので
これからはこんなことあったよ〜
ということしか書かないことにします。

あたりまえなのだけどいちいちテキスト用意するのがめんどくさいボクはこんなことでしか自分発見!(糞)の出来ないイタタな人なのです。(ここにも自己実現のニオイ)痛いのだけどこの怨念の行き先は以外に簡単なとこで落ち着きそうなのも怖い。(話を聞いてくれる人が一人いれば満足しちゃいそうな)宮台さんの言うところのディブレッシヴな環境には支配されてませんでしかたから。いいや、そんなことはない。俺は不幸だ。不幸をカムアウトしてやる。いやあ、これくらいトラウマ系な人民はどこにでもそこらじゅうに滞在してるだろ〜。気持ちワルいだけだな。(下痢)
ありもしない敵を作ってありもしない正義感に燃えるより早くシステムにコミットされてしまえば気持ちイイんだろうけどもこんな俺を認めない社会ハ認めないという愚劣極まりないルサンチマンは持ち合わせてるつもり。これもポーズかもしれないけれど。いやいやいや、そもそも佐藤君みたいないちいち自分のやってることの相対を引き合いに出してこの形式はアレのあの場面である!みたいな自虐はもうやめにした。やめにしたけれどもじゃあその先は、というと日常たる現実を現実として享受してじゃあ手前らのやってきた歴史観は消滅してボクは未来永劫文明の中のギリギリ感(虚構)でも楽しみながら思考停止してりゃそれでいいんだよ、というのもそれは困るんだよ。だって根底にあるのはかなりのヒーロー願望ですから。でも努力するのが嫌いだから努力はしましょう。それとも好きなことだけやっていつの間にかここに到達できました、みたいになれたらそれこそ俺カッコイイ、みたいなこと言って断絶された島に引き篭もってやろう。いや、それじゃかっこ悪いからとても大気圏を越えられそうもないロケットで宇宙旅行に出かけるのも吉かもしれない。そしてジェネしスなるものを超えたところの
先に本物の自分を発見・・!!あるわけないわな(チンカス

それではさようなら自分。
勉強、してますよ。
多分自発的に勉強するのは
生まれて初めてなんじゃないかな。

僕は極度に人の話を聞かない人なので、
与えられた愛や情報を疑ってかかる人間なので、
命令形でさせられることには反抗はせずとも無視するタイプなので、

決して学校の成績は良かったとはいえなかった。
むしろアホの部類に属すこと必至。

だから今更なガら知識をたくさん供給しだ
してると思う。
昔に比べると、まあ比べなくても記憶力は決して
良いほうではないのでひたすらメモしてますよ。
僕は色々な言論を勝手な独断と偏見により
俺語に変換できる素晴らしい能力を搭載してるっぽく、これは一つの長所だと思ってしまってよかろう。
まあ人が読んだら何がなんだかワケ分からん
かもしれませんが。

ただ、学校での成績や社会に出て役立つ知識には
あまり興味がないので読んでちゃんと記録してるからといって大学で単位が取れるわけじゃないのは
野グソモノだと思う。臭い
アカデミックな人たちにとっちゃやはり馬鹿の部類に属すのだろう。

でもね、ファッションで知識を溜め込むようなことはしたくない。
ひけらかすためにやるのではなく、あくまで言論を持つためでございます。

新現実

2003年5月7日 エッセイ
という本を読んだのですが
大塚氏と東氏の言ってることの6割くらいは
ワケ分からんのでどうしたものかと。

なんでインテリはここぞとばかりに難しい横文字
を使用したがるのか。
対談のときくらいもっと噛み砕いて分かりやすくしゃべれよコノヤローと文句を言ってやりたくなりましたが
まあそれだけ意味の含まれている難解な単語を使用するのもいちいち噛み砕いてしゃべってたら対談おわらネエよ馬鹿、というかむしろ抽象的に僕らに伝えたい心持があるのかもしれない、と考えればそれなりに必死に辞書開きながらでも読むのは苦痛ではありませんでしたけど。
しかしどっちにしても多少なりとも
理論武装して愚民ドモと隔絶されたポジションを持っておきたいという気分だってあるのは確かなはずだ。だってそうでないと最近突如として整合性のない横文字を乱立させ出した僕のいいわけが成立しなくなりますからね!!

何を怒ってるのかわけわからん

煽るなよ、兵が見てる

というめんどくさい言い訳がましい自作自演はここら辺にして本編のできるだけ分かったとこを書き記しておこうと思います。

東氏が言うには
これからは主義や思想におけるハードコア面での支配体制はその力を失っていき、セキュリティ管理によるシステムによる統治がなされるのではないか、とのことであります。
つまり監視社会というものによる精神的居住区のすみわけもなされるそうで、それを「タコツボ」とか言ってたカナ…
つまりだ、これから人を先導するのは思想ではなく
システムであり俺は自由だ権利を主張だ言ったところでいつの間にやら狭いマーケットやら情報の中に組み込まれて自意識を失ッてるくせに、俺は正気だよ!!というような人間にはなっちゃいけないでしょ、みたいなことを言ってたと思います。

で、後半は
やはり二人とも腐れお宅ですのでオタク話に花がさいて
データベースの上に作家性を上乗せするべきなのだ、が東論で
作家性があってそれが全面的に押しデテおるならそれはデータベースでなくて立派なエンタテイメントだ、みたいなこと言ってたのが大塚氏だったような・・・
でもそれ自体がデータベースにはまってるだろう、というツッコミもあったような気もする。

とにかくワケわかんなかったので
もう少し頭を良くしたいですね。
オタク知識ばかり増量されてってる感は否めませんが。
人間は固有の肉体しか保持できないわけだから
どれも全て自分発、情報も全て自分が軸。
自分という狭隘な主観からしか物事を
見定められることの出来ない存在なのであるから
決して自我を抑制することなんてできるわけがない。
それがたとえ客観的なるものであってもそれは
客観的と呼ばれる主観でしかないんだろう。
となればたくさんの人の存在のフラグメントと
やら共有できたつもりになれる、
例えば映画や小説なんかも、
漫画やアニメもそうだけど、
それは他者の気持ちを理解したということで
はなくて、自分における他者(登場人物)、という
枠組みを超えることは出来てなくて。
ということはもしかしたら自分らは俗に言う
神様とかいう意識にコントロールされてるだけだったりして。
なるべくしてなる、てことか。
だって他人の意識がこちらに流れてくることなんて
ありえないのだし。
あの人がどのように自我という情報機関に
コントロールされてんのか、
てのも何もわかんないんだからなあ。

もしかしたらワタシ以外の人間は全て虚構でした。
なんてオチ小さい頃良く考えてた人は僕だけではないはずだ。
オマエもそうなんだろ?認めろ。認めちまえ。ガオー
結局全ての出来事について客観を得ることなどは不可能であって一度自分というフィルターを通してからしか出来上がらないのがリアリズムという感覚だとするなら最初っから独善でアレ、
ということなのかもしれない。
リアリズムなんて無視していいんだ、
現実的であること、とは
全て僕の見た世界、それだけなのだから。
僕は他者になりえないし、
他者は僕にはなりえない。
そう考えたらかなり気が楽になった。
コミュニケーションという奴をあまり気にしなくて済むようになる感じ方だからなあ。
生きることそれ自体がどんなに気張ろうがドグマチックであってリアリズムなんかじゃあないわけだ。
全てを包括する必要なんてない。

ネオ麦茶

2003年4月28日 エッセイ
無駄にテンション高い人は苦手だ。
無駄に冷静キャラ売りにしてる人もどーも。
かといって俗物主義に染まる人もなんかヤなので
こうなったら四方八方に八つ当たりしまくろうかな、とか思ってる。
自分を駄目な奴だと幾ら嘆いてもしょうがなし。
内に込める怨念のたけを世界に向けて発信できた
ならどのくらいかラクになれるかもしれない。
そしてその影響力とはいかほどのものかと。
まあたいした恨みつらみでないのなら大して人も迷惑ではないだろう。
その怨念が大きければ大きいほど僕という
不確かな存在も確認できるわけで。
まあ特定の人間に迷惑をかけるでなく不特定多数
の人間に八つ当たりですから、別に悪いことじゃあない。
怒りなんて外に向けるかうちに向けるかしかないんだから。悪意も。
愚者は体験に学び賢者は歴史に学ぶ、という言葉がありますが、
なら僕は圧倒的に後者なので賢者なのだろう。
というかもう誰も誉めてくれないのは分かってるのでせめて自分を鼓舞するためにも自画自賛でもやることにしましたよ。
そうしないとチンコが萎えてく一方でいつか生きてる価値そのものが費えてしまいそうで怖いので。
(既に枯れている、とは思ってるけど思っていないとも否定する)
だって僕はほんと高校時代はほんと酷い、俗にいうイジメとやらを体験してるけどイジメを否定しませんからね。
イジメは必ず集団形成される中で予定調和的に発生するものであってそれを食い止める手段を選べば人は引き篭もるしかない、と思ってますんで。
どんなに仲良しの友達関係の間柄にも、どんなに上手くことを運ぶ大人組織であろうとも、どんな高邁な思想を掲げた思想家集団であっても、必ずその集団の内部には「奴隷役」もしくは「敵役」が存在する、てことに高校時代気づかされたからね。
人が戦争を忘れられない業の深い生き物である、
てのもここから来てると考えてる。
つまり絶えず外部なり内部なりに「敵役」「叩かれ役」いわゆる「仮想敵」のオブジェみたいなもんを頭の中にかたどってないと生きてけないのが人間らしいですよ、て。それを実体験によって学んだわけですね。だってそうでないと僕がイジメられる必然性が全くなかったもので。部内で一番働いて部内で一番部室掃除やって部内で一番遅くに家に帰宅して・・・というか雑用系の仕事は全部僕一人で処理してた(こんなこというのは彼らに失礼だけど一番僕がやっていた、というより誰もやらなかったからやりたくなくても全部僕が引き受けるしかなかった)にもかかわらずああいう仕打ちを受けるというのは要するに僕が嫌な奴だから部室裏でボコボコにされまくってたわけではなくってヒエラルキーの問題でしかなくって要するに僕が一番野球がヘタクソだった、それだけの理由だったのだと思えば実体験をへて考えるとイジメ(敵役作り)とかいうのは絶対になくならないしなくなりようもないし否定すべきものでもないんだなあ、という結論に…
あれ?実体験に学んでいってるなあ。
ああ、でも感情論としては殴られ、パシらされまくったことは無茶苦茶コンプレックスになってるので
感情を処理した部分からの意見だから歴史から学ぶ・・・でいいんだろう。
だから自分の情けなさ加減が格闘技コンプレックスにつながってるわけだし。

そうなると教祖様はマイクタイソンになったり。

常にどこかに敵役を形成しないと生きてけないのが人間、問題は規模。
大昔のリビドーの強い方々には人類抹殺計画なんてのが本気であったりしたみたいだからそれだけは避けてもらいたいもんだ。


敵を作りたくない人はきっと自分を敵だと勘違いするんだろうけどナ。
僕みたいに。それが自己嫌悪にもつながる。
ウルトラマンになる夢を見ました。
ウルトラマンになって必死になってラスボス
らしき人をぶっ殺したらその人は僕の
お婆さんで、鬱な気分になりながら帰郷したら
なんかみんな僕に襲い掛かってくるんですね。
実はオマエが人類を汚染するウィルスだったのだ〜
みたいな。
で、みんなぶっ殺して
家に帰ったら。
家族までオマエはイレギュラーですよ、
死んでくれとか言ってんですね。
さすがに親父は殺せなかったので
半殺しにしてから背中におぶって家に
還ろ〜よ〜還ろうよ〜と嘆き悲しんでるとこで
夢が覚めた。
ああいう場合還るとこなんてないなあ。
馬鹿のまんまで生きていたかったけど
頭悪いまんまじゃいけないような気がしてきた。
ボクシングとかについての言論ならある程度
持ち合わせてるつもりのある僕ですが他の話と
なると、、、まあ
色々分野があるけれどどれについてもいえることは
知識のない人には発言権がないのではないかということで、
例えば独断専行のアメリカ戦術を目の当たりにして
反戦を声高々に連呼したところで
それらの知識の供給はどっから来てるのかと
言うと一方通行の情報だけを流すニュース番組
だけが唯一の情報源であったりして夢みたいな
絶対平和を連呼してる方々にはやっぱり迷惑だなと感じるし、
絶対平和思想なんてのはどうやら第二次世界大戦前に戦争の引き金の道具としてしか使用されてないのを考えると何で裏側を調べようとはしないのか、という…
中にはガンダムSEEDなんてのを見て
戦争はいけないことだと思いました、なんて
ひどいことを言ってる中学生もいたりするけど
あそこまで逝くとやっぱり罪じゃないかと思ったり
する。だってドグマじゃないかと、いや、ゴホゴホ、失礼。
ドグマじゃないんだけど、漫画アニメでしょう。
ロボットのドンパチ見て戦争はいけない、なんて言うアイデンティティの確立のしかたがあるのかと。
一つの情報や思想をかいつまんでこれが俺イズム
なんだぜ、とはちゃんちゃらおかしいぜ!!(ゲロ
と思います。
土壌にある理念がその程度の認識によってしか確立されてない考えで、戦争や世論が巻き起こるのであるのならそれこそ不幸ですね。
だから僕は知識がない場合は主張すべきでないし
属すべきでもないと考えてたのだけど
そろそろ自分なりの言論は持ちたいなと考えたりもするのである程度のリテラシーが必要になるのだけどいかんせん今までが勉強不足だったもので・・・
これからでも間に合うかなあ。

申し訳ない

2003年4月15日 エッセイ
これはあたりまえのことなんだけど、
父も母も僕のことを息子としてみてくれているわけです。
息子として愛してくれてるわけです。
息子というロジックで好いてくれてるわけです。
もっと言えば
息子と呼ばれる記号として僕の世話を色々やってくれるわけです。
息子でなかった場合は死のうが生きようが知ったこっちゃないわけです。

そう考えると僕という存在そのものを認めてくれてるわけではないのだなあ、と分かるのでちょこっとばかり切なくなる。

僕がどんなに堕落しようとやばいことをやらかそうとあの人らは愛してくれるわけなのだろうけど、
そりゃね、息子だから。
でも息子じゃなかったらアホだカスだといわれるのだろう。
いやそれ以前に認知されないのだろうけど。

僕という人間が好きだから愛してくれてるわけじゃなくて
僕という存在が息子だからしょうがなく愛してくれるだけで、
どこまでも出来そこないな息子に育ってホントに
申し訳ないと思う。
戦争について思うことは
多分どっか別のとこでも人はたくさん死んでる
はずなのでその事象についてはなにも
思わないのかな、という感じ。

例えば交通事故。
例えば病気。
ニュースではこういう事がありましてこういう酷い
怪我をしました。死にました。
との報告はあるものの、
数の単位で示すなら圧倒的に
別の理由で死ぬ人の方が多いわけで。

分かりやすく書けば
戦争で死ぬ人は毎年交通事故で亡くなる人に
比べると全然少ないらしい。
実際問題今回のイラク戦争に関して
これは戦争です!
といえるほど人は死んではいないんだよね。

数の問題ではない、と言えばそうなんだけど
死というのは常にゴロゴロそこらじゅうに
転がってる産物であって天然記念物みたいに
考えるのはちと違う気がする。

経済による弾圧でだって人は死ぬし、
自殺でも人は死ぬし、
多分死は事象としてそこに存在するものであって
人の死によって何かを憎んだり、恨んだり、
つまりそれを敵と認識するのはちょっと死という
物事に過敏になりすぎなんじゃないかと
思うわけでして。

だって地球の裏側の人間が今日死にました、
と聞いても僕は痛くも痒くもないし、悲しくもない。これが家族やとても親しい友人となると話は
別だけれども、それも地球の裏側の人にとっては
またどーでもいいことなのだろう。
それくらい人の命とは軽いもんだと思うんだけどね。
つ〜かK1はどうしてこんな嘘っぱちな
情報しか流さんのかな?http://www.boxrec.com/boxer_display.php?boxer_id=006570
どこにWBO世界ヘビー級王者の名前があるのか…

サップの倒れ方には違和感あったなあ〜。
どう見ても嫌倒れ。
それとも意外と三半規管を揺さぶってたのか。
でも目を骨折したからと言って腰から砕けるのは
どう見ても不自然なわけで。
ワケワカラン、ということで。

あとホーストとセフォーはデブリ過ぎ。
明らかに遅くなってたな二人とも。
なんでこう違和感があるのか分からない。
僕が変わったのか奴が変わってしまったのか。
奴は余裕のある顔でこんなことを言う。
「だってこれが大人の生き方でしょ」
僕は多分まだ全然大人になれてないので分からない。
それがホントに大人であることなのかは分からない。
ただこれだけいえるのは一年前一緒に笑い合った奴はもう
そこには存在してなくて、どうやら大人のやり方と
呼ばれているらしい処世術を身に付けた奴は
より上手に世の中を渡り歩いていくのだろうということで。
あの頃の奴はもう帰ってくることはなくてあの頃の僕もいつの間にか消えてなくなってたのかもしれない。
そしてまた別々の生き方とやらを見つけた僕達は、違う道筋の向こう側に見える誰かとまた…
そいつらは多分昔の僕の姿を知ることもなく、君ってこんな奴だよね、と一つのキャラ設定を僕に要求する。
そしてそんなキャラを演じながらまたあした、そのあしたとゆったり毎日過ごすのかなあ。
そこには僕という人間は存在してるのかどうか。
ていうかそもそもが
ボクシング大好きです。
UFCも好きです。
修斗とかパンクラスとか全日本キックボクシング
とかも好きです。
プライドとかK1も好きだけど、
興行のやり方には多少不満がある。
まずランキング制がないことに不満を感じる。
これでは現時点で選手達がどれほどの力量を持っているのかどちらが格上なのかを判断しにくいし、格闘技ファン同士で語り合う際にも議論が発展させにくい。メリットなど何もないのにどうしてランキングを制定しないのだろうか?
ボクシングもUFCもパンクラスもやってることなのに。不思議でならない。
それに競技性が失われる。
全く実績のない選手がいきなり王者に挑戦
などというのは試合の価値を無くし一試合の価値を
損なうと思う。
いきなりどこの馬の骨か分からないような選手がスターダムに駆け上がることは主催者側としても面白くないことのはずなのに。
ボブサップしかりヒョードル(この人は実績あるけどそれでも少し早かったのではないか)しかり。
一つのビッグマッチにかけるまでの日数が短すぎる思うわけで。試合にかけるサイクルが異常に早い。
消費に次ぐ消費だからワンマッチだけででお客を呼べない。もっと選手達を大事にしてやるべきだ。
特にプライド。
階級もミドルとヘビーしかない。
ライトヘビーがないとシウバとかクイントン
みたいに中途半端にデカイ奴は減量きついだろうな。
グランドでの膝蹴りは禁止にしたほうが良いだろうな。
脳内出血で命にかかわる負け方をした選手が
いるのにいまだに改正なれてないのはオカシイ。
等など不満を上げればキリがないのでここら辺でやめとく。

急速的な競技の発展というのはブームが去ると同時にまた急速的な衰退を見せるのではないかという危惧がある。
ホントに格闘技を世に広めたいのなら少しづつでもファンを増やしていこうという姿勢をとるべきではないか。
プライドとK1における興行のあり方には
格闘技の競技化、という理念よりも格闘技のエンタテイメント化というものの方が先行しているように見える。
それが悪いとは思わないけど、正直先行きが不安になるときがある。
石井館長の脱税容疑や森下社長の自殺(真相は謎、他殺説あり)などを見てもどこか・・・
つまり格闘技が好きだから格闘イベントをやってるんじゃなくて金儲けしたいからやってるという…そういう思念がモロ見え、というのかな。
結局プライドもK1も競技化されることなく一つの「消費文化」にしかなりえないのじゃないかという不安があるわけで。
だいたいK1の毎年ワールドトーナメントというシステムにだって僕は懐疑的ですよ。
まあ幾ら文句言ってもしょうがないのは分かってるんだけどね。

ここ最近

2003年3月25日
相変わらず
グダグダやってる。
起きて、
絵でも描いて、
眠くなったら昼寝して、
筋トレ逝ったり、水泳逝ったり、
拳法逝ったり、
(正直拳法はそろそろやめてボクシングしたいな〜、とか)
会社の手伝いやったり、
そして風呂入って寝る。
一生グダグダやって生きていきたい。
グダグダやるために頑張らなきゃならないんだけど、
組織で活動するのはどうしてもストレス。
なんでこんなに団体行動が苦手になったのか。
自分勝手に出来ない、という理由だけでもなくて、
組織、というものはそれで既に一つの生き物みたいなものだからだと思う。
生き物であるということは、意思が存在するわけで
その意思にそぐわない少数派の意思を持つものは
駆逐されるわけで、怖い。
もしも多数派であったとしてもマイノリティを
気持ちよく葬る側に立てるほど割り切れる精神を
持ち合わせてなくて、凄く自己嫌悪。
たくさん人が存在する、ということはつまり
少なからずイレギュラーな思想を持ち合わせた
存在は阻害されて、奴隷になるわけで。
人類皆平等、とはとてもいえるわけないので
ラブ&ピース、てなんだよ、と凄く腹が立ったりする。

くたびれた

2003年3月18日 エッセイ
なんか違和感あるなあ、とか思ってたら
実はジャンルがポエムだったのだなと気づく。
あれは若さゆえの過ちというかただのネタだった
ので綺麗な詩を書いてる人に今更なガら申し訳ない。
詩なんて作る気分は毛頭なかったりします。
少ない脳みそ絞り上げてなんかグダグダ
愚痴ってるだけなんだよなあ。
まあ僕に個性やオリジナリティなんて何にもないんすけどね。(出た!お得意の自虐逃げ)
回りに八つ当たりする根性もないので
怒りは全て自己に向かい、それは疲れるので
あんま人とはしゃべりたくない今日この頃。
俺みたいな奴がいつかテメエら全員死にやがれと
ばかりに発狂するのでしょう。
その前に空爆かなんかでミンチになる姿を想像
しながら今日もシコシコ。

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