泣きゲーやらラノベ、漫画、アニメ、いわゆる「到達可能なキャラクター」がそろっている物語媒体は寂しさを紛らわすために消費されているにもかかわらず人をますます孤島に追いやるための道具になってしまっていて、キャラクターという理想の他者はいっぱいいるけど、僕らはそれに触れることも出来ない。

一方「到達不可能な他者」のそろう現実は、浅くて広いコミュニケーションするには面倒くさく(それだけならネットに接続するだけで可能になるし)、狭くて深いコミュニケーションを実現させるためにはあまりにもディスコミュニケーションの溝が深まっていて難しくなってきている。

ムラ社会化を推し進める無言の強制力にはどのようにして立ち向かうべきなのか。具体的な方向性というものを見出す必要はあるね。その辺頑張って考えていこう。
そうか。ゲーム的リアリズムの文脈で語るなら人間個人の問題も物語的に包括しうるわけだ。我々は現実に生きていながら物語り内に生きているかのような錯覚、もしくは物語的にしか生きることの出来ない現実に直面しているわけで。

それはつまりオブジェクトレベルで見ている自分をメタレベルにまで引き上げる想像力というものが、とかくゲーム的リアリズムが日常化している我々現代人には備わっているのだということなのだろう。

だから死を悲しむと同時に、それを笑いとして消費することも可能なのだ。記憶の中で何度も反芻される死の解釈はゲーム的に、何度も視点を変えて包括され、脱構築を繰り返すのだ。そこに宿る愛という言葉の両義性が悲劇を喜劇に、喜劇を悲劇にも変化させうるのだ、恐らくは。
他者の死という概念を前に、人は喪に服すことでとりあえずの意味を棚上げするわけだけれど、つまりは我々にはどうしようが抗いようのない虚無だということだ。生は蓋然性によるものなのに生まれてしまえば最後。死だけは必然的に訪れる。
我々はこのどうしようもない悲劇性に対して時に涙を流す。

ところが同時に死は喜劇性をも含む。死をオブジェクトレベルの位相に移し対象化することで我々はそこにしばしば喜劇なるものを見出す。
毎度のごとく撃退されるバイキンマンやら特撮の怪人たちを見て子供たちはそのこっけいな死に様に笑い声を上げるのだ。

死は何も生産することのない変わりに、もっともニヒリスティックで超越的な魅力を秘めているのも事実で、そこには人間の生まれるつもりもないのに誕生させられた悲劇性と、にもかかわらず絶対的に死んでしまうという喜劇性が同居しているのだ。僕が舞城王太郎に惹かれる理由は死の喜劇性と悲劇性を同じ位相で行うことに成功した稀代な作家だからなのだろう。
この作品て最強厨の最強論争を巻き起こせるような小さな物語たちによるランキングつきのバトロワ構造が面白いのであって、日常パートは単に脚本家の力不足感が否めないなあ…。設定そのものが日常系をやるにはちょっと難しいのかもしれないけれど。
ネーム終了。
やろうと思えばほぼ一日で上がるのに何で時間をかけてじっくりやってるのかというとやはり精神の消耗が半端ないせいなのだろう。
駆け出しのうちは構図からして勉強なので、ある程度描きこむことが要求されるため一本ネームをあげるのに結構体力がいる。

プロ作家さんはほぼ丸描いてちょんでいいのでネームが3,4時間であがる、とか聞いたりするが、まあ今はそれはやらせてもらえんだろうし、そんな描き方で構図を脳内できちんと構成する力量もまだ備わってはないのだ。

日々これ鍛錬あるのみなのだな。ちょっとここ一ヶ月は新人としてあるまじき体たらくだったので反省しきりである。
帰宅途中にラジオでビートルズ特集があっていた。

作家性なるものの宿る音楽とはいかなるものかというのが、よくわかった気がする。音楽というものはその時代感というものをモロに反映する媒体のようで、行った事もないのに60年代、70年代というものがとても熱く感じられ、物悲しいような懐かしいような気持ちにさせられた。

しかし、情報の供給速度のあまりに早い現代において作り手独自の普遍性なるものが生まれようがあるのかと問題がある。全てはネタとして消費され、また新たなデータベースに組み込まれ、全体の意識はスーパーフラットな状態に落ち着くだけではないのかと。
だか、しかし、何気にあったんだなこれが。愛だよ愛。

萌えや物語のダイナミズム自体はもはや「データベース」以上の意味合いは持たない。普遍的なもの。独自的な思想。実存的な承認欲求に答えれるもの。自分だけが持っている唯一性を確認するすべ。作家性を構築するために一番必要なもの。これってやっぱ愛に変わる代替物ってないんだということに気づきました。いやあ愛って偉大だなあ。
・問題設定
大きな物語とは国民国家的イデオロギーであり歴史的に個人の人生を根拠づける価値体系をさす。この40年は「モノはあっても物語(生きる意味、信じられる価値)のない世界」が進行する過程であった。不自由だが暖かい(わかりやすい)世界から自由だが冷たい(わかりにくい)社会へと変遷を辿る。

・データベースの生む排除型社会
「~する/~した」という行為=社会的自己実現ではなく、「~である/~ではない」という自己実現=キャラクターの承認によってアイデンティティを獲得するという回路が90年代の社会状況下の産物である。

キャラクターは物語から独立することが原理的に不可能。小さな物語の共同性はむしろキャラクターによって再強化される。キャラクターによる小さな物語は決断主義的な思考停止、棲み分け、つまり排他的なコミュニティと親和性が高いのだといえる。キャラは表現の空間からは独立できるが物語には隷属するしかない。(二次創作を繰り返すことでむしろキャラは多面性を帯び、トラウマすら強化されるのだということ。)
2000年代初頭から物語の想像力は小さな物語が小さな物語によって回収されるというバトルロワイヤル的様相を帯び始める。

・「引きこもり/心理主義」の90年代
この本においては、70年代以降段階を踏んで徐々にポストモダン状況が進行したのだということになっている。80年代は多文化主義と相対主義が台頭した時代とされる。だがそれはあくまでも相対主義と言う名の絶対主義に過ぎない。90年代は80年代から好景気と冷戦を引き算したものである。岡崎京子はリバースエッジにおいて平坦な戦場に死を導入することで物語を描いた。しかしそれは外部に頼ることの擬似超越性に過ぎない。ポストモダン状況において外部とは存在し得ない。全ては入れ替え可能だからである。90年代は歴史や社会が「意味」を供給してくれない世界、物語のない平坦な戦場として幕を開けた。文化人たちの多くは左翼的なロマンティシズム、あるいは新保守的なイデオロギーに回帰していった。そして時代は1995年という転換期へと以降する。

・「95年の思想」をめぐって
平成不況の長期化が決定的となりつつあった時期に発生した阪神淡路大震災(1月)は成長時代の終焉を象徴する事件として消費された。地下鉄サリン事件(3月)は人々の実存が本格的にポストモダン状況下の流動性に耐えられなくなってきたことを示した。そして新世紀エヴァンゲリオン(10月)が始まる。エヴァの思想はカルト的な「間違った父親(社会)に向き合うことを」を拒否し、「誤るくらいなら何もしない」という「引きこもり/心理主義」的想像力である。
「95年の思想」とは発泡スチロールのシヴァ神の誘惑に負けない強固な個(デタッチメント)の確立を目的とした、ある種のニーチェ主義的な傾向であったが、引きこもりの帰結はゼロ年代の決断主義に回収されてしまうこととなる。

宮台真司の変遷
終わりなき日常を生きろ→援助交際をする少女たちは売春に意味を見出しておらず自己の商品化にためらいのない新人類である→しかし人間は「物語(意味)」からは逃れられない→実は少女たちは身体の商品化に自傷的なパフォーマンスという意味を込めていた→では「あえて」物語にコミットしていけばよい(あえての天皇主義、亜細亜主義)→だが、「あえて」を忘れてしまうと決断主義に陥る→「適度な強迫や抑鬱(物語)を設計するアーキテクトの要請」が必要→動員ゲーム的な衝突を調整しようという立場(現在)

エヴァ劇場版においてシンジは母親的承認のもとに全能感の確保される内面(自己愛、セカイ)への引きこもりを捨て他者であるアスカとの共存をを選択する。だがアスカはシンジを「キモチワルイ」と拒絶する結果に終わる。
この拒絶される結果が受け入れられないエヴァの子供たちは90年代末~ゼロ年代初頭にかけて徹底した自己愛への撤退を試みる。それがセカイ系である。
セカイ系とはつまるところ「結末でアスカに振られないエヴァ」である。
ヒロインは世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く。そして主人公は少女=世界によって承認され、その自己愛が全肯定される。90年代の心理主義のもっとも安易な完成形であるといえる。
「安全に痛い」自己反省が劇中に盛り込まれ免罪符として機能し、女性差別的な暴力性を自覚することもなく、むしろ「自分は反省しながら萌える優しい人間だ」と思い込む構造(レイプファンタジー)が支持された結果、セカイ系は台頭することとなった。

レイプファンタジー、つくる会の外国人差別、ニート論壇の疎外感、ノスタルジー系の歴史修正、はいずれも「究極的には無根拠にもかかわらず、あえて」「信じたいものを信じる」という小さな物語である。だがそれら相対化した物語を決断主義的に選択した人々にとっては超越性として機能する物語だとしても、彼らの神様は共同体の外側の人間、別の物語を信じる人間にとっては「信じたいものを信じる」安易さが暴力と差別を強化保存する「発泡スチロールのシヴァ神」に過ぎないのだと宇野氏は断ずる。

ゼロ年代とはこうして決断主義的に選択された「小さな物語」同士の動員ゲーム=バトルロワイヤルの時代だといえる。「何もしない」という選択すら動員ゲームへとコミットされてしまう。そして時代は911、小泉構造改革等の時代的背景も経て必然的にサヴァイヴ系へと移行していく。

・戦わないと生き残れない
大きな物語の失効は、小さな物語の共同性が乱立するバトルロワイヤルを生んだ。初期のサヴァイヴ系は「強大な社会」がおぼろげながら設定されていたが、時代を経るごとにその力を失墜させていき、動員ゲームの一プレイヤーに過ぎないように機能していく。

・私たちは今、どこにいるのか
動員ゲームを終わらせるためには、それを批判するのではなく受け入れることからはじめなければならない。ひとつの時代を乗り越えるにはそれに背をそむけるのではなく、むしろ祝福し楽しみながら克服することである。ゼロ年代の想像力とは「ポスト決断主義」とも言うべき新しい想像力に他ならない。

・宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか
「社会や歴史が共同体を裏付けてくれない世の中」=「ポストモダン状況下での郊外的空間」
一見「脆弱な共同体」ではあるが短期間でも人を支え、最後にはきっちり消滅すること、それが宮藤の作品の共通点。

「郊外化」とは、ポストモダン状況の進行が都市計画として実現されること。流通全体のジャスコ化により都市計画は地域格差を大きく是正し、人々の消費生活を多様にした(コミュニティの層の多様化)。
一方でそのハードウェアとなる街の風景を決定的に画一化した(アーキテクチャーの層の画一化)。
一見絶望的(物語が失効したかのように見える)に見えるこの状況もセカイ系と決断主義とでは受容のされ方が違ってくる。

池袋ウェストゲートパーク、木更津キャッツアイ、マンハッタンラブストーリー、この三作は終わりある日常であるからこそ、流動性の中で自由に選び取った共同体がたとえ歴史から切断されていたものだとしても「入れ替え不可能なもの(物語)」として機能する、ように設定されたドラマ(のようだ)。
これらは、碇シンジや夜神月のようにならないための想像力である。では、現在、そこにいる夜神月をとめる方法とは何か。
かなり事態は切羽詰っている。いい加減本気出せってことだ。本気出すってことは平たく言えば死んでOKだ、つーサインを自分に送ることだ。
ダサいことにアシスタント時代の病気はまだ治っておらず、死んでもいいから原稿だけはどうか間に合いますように、という祈りを込めないと俺は本気になれない性分になってしまっている。
そんくらい覚悟きめないと漫画一本も完成させられない俺って正直どうなんだとは思うんだけど、やるしかない。
終わんなかったらどうしよう、とかまあやれるだけやるさ、なんていうマイナスの思考、なあなあの思考は全て除去する。
長文かましてわかったような顔すんのはもうやめだ。
出来上がったもんがどんなクソでもかまわない。少なくともよかれ悪かれ結果は出る。先送りが一番最悪。超つまんねえ。
超面白いことしようぜ自分。
ここ最近の自分の周りにいる人間は、こんな風になってしまったのは誰々がいけなくてあいつがいるからこんなにも事がうまく運ばない。全てあいつの責任だから俺は何も悪くない。

このような責任転嫁することしか頭にない人たちばかりと付き合わなくてはいけないので、頼むからそういう話じゃなくて、今後どうすべきだけをしゃべってくださいよ、と感じている。

なんかもうそのまんま日本という国の現在の縮図を見ているようでとてもがっかりしてしまう。誰々が悪い、とか何の生産性もない揚げ足とりはいい加減やめにしましょうよマジで。

2月15日の日記

2010年1月17日 メモ
東浩紀の言葉を借りるとするなら動物化した人間たちのデータベース的欲望が生み出す「身勝手で独断的な」男性性、女性性を引き受けたくないんじゃないないのかな、我々(オタク)は。若い世代全員の舌が肥えてしまって不味い料理を食えなくなった結果のように思える。

自分にとっては糞不味いデータベースを押し付けてくる他者というものはもはや敵対者以外の何者でもないだろう。こうやってモテ非モテ論争というものは巻き起こっているのではないかなあ。極論を言えば。

2月10日の日記

2010年1月12日 メモ
そもそも男側にも女側にもイケメン&可愛い子をgetしないと負けだろ、というような敗北意識、社会的階層的意識、があって、その辺取っ払うことできればみんなそれなりにうまくやってけるとは思うんだけど。ブサメンでも社会性を放棄すればそれなりに愛せるだろう。多分。

リア充って恋愛に社会性がないと生きていけない生物で、それが(金持ちの彼氏とか、可愛い彼女とか)権威として発動することを望んでいるように思える。オタクはそれが嫌いだから(もしくは実現できないことを知っているから)そのような出来レースからドロップアウトする。

RPGやセカイ系の物語で社会から隔絶されたところに収束を求める理由は、傍から見ると醜悪であるかもしれない自分たちの関係性を唯一無二のイデアであるかのように振舞うために必要な儀式なのかもしれんな…



アバターを使った自由恋愛が確立する未来のお話。
気づけば男は男同士と、女は女同士とカップリングを組む世の中になってしまった。
どうしてこうなった。

801とか百合ってやっぱ、男性性、女性性を放棄したい、てことなんだろうな。
女の皮被った男に、女の皮被った男になってようやくバランスがとれるという。
ユニセックスに至るのはもはや既定事項にも思える。

ユニセックスに至ったアバターたちは男の娘は男の娘と、女は男としての女とだけ交わり続けるのだろうな。
お互いに理想のデータベースを検索し、
それに合致したキャラクターを演じることでリビドーを発散させる。

データベースをある程度共有できるのは同性だからだというのが根底にあるよね。
中には例外もいるけど。9割はそう。801や百合が物語として何の違和感もなく受容されているのはそういうことなのだ。
現実に性差が判別できない状況に至れば理想の他者は同性であることが前提で、究極的には自分に至る。





そもそもスポーツ選手って脳筋しかいないわけだからストイックなキメ台詞的なことはさして言えないに決まってるのだ。語彙が足んないんだから(野村監督とかは面白いけど)。イチローなんてかっこよさげなこと言ってるだけでフィルター取っ払ったら、文字通りかっこよさげなだけのオッサンだよね。

アスリートの深さ、美しさ、尊大さというのは言語的な部分から切り離されたところに存在するのではないかな。

彼らはもともとストイックなんて言葉は意識しないし、クレバーな戦略性なんて考えちゃいない。ただ、そのように動けば「勝てる」という事実だけを知っているのだ。だから言語では何一つ理解しない。

僕はその彼らの任務遂行的で無慈悲で純粋で無垢な「勝利」への執念を見たときに神的な瞬間が訪れるのだと思っている。そしてその表現の仕方はその選手それぞれにあって、その差異がわかる人とそうでない人だと理解の度合いが変わってくる。

スポーツものの物語媒体が日の目を見ないのはそのような神が訪れる瞬間を文字表現するのが難しいからなのだろうな。誰もイチローと王貞治のホームランの質の違いの言語的表現なんてものに興味をそそられる人はいない。その行為を目の当たりにして、美しいかそうでないかを理解するのだ。

かろうじてスポーツ漫画なんかはスポーツの本質を模写することに7割くらいは成功してたりすると思うのだけど、あれも極限状態のアスリートの心理描写に台詞が混じれば混じるほどにノイズになってアスリートが魅せる本来の美とはかけ離れてしまうのではないかと感じる。

『スラムダンク』という漫画で試合がクライマックスを迎える際に、一話まるまる一切文字を挿入しない表現があったりするのだけど、井上先生はスポーツのそのような本質的な部分を理解してる人なんだろうなあ。未だにスラムダンクを超えるスポーツ漫画というものは読んだことがない。




そもそもガンダム片手に「反戦」とか「思想」を語りだすのはさすがに痛すぎるだろう。あれは群像劇として優れているのであって戦争もSF設定もあくまでもガジェットに過ぎない。富野意外のガンダムが痛いのハッタリであるはずのイデオロギーを半ば本気でやってるせいだと思う。道化の自覚がない






目的論的証明(自然神学的証明):世界が規則的かつ精巧なのは、神が世界を作ったからだ。
本体論的証明(存在論的証明):「存在する」という属性を最大限に持ったものが神だ。
宇宙論的証明:因果律に従って原因の原因の原因の…と遡って行くと根本原因があるはず。この根本原因こそが神だ。
道徳論的証明:道徳に従うと幸福になるのは神がいるからだ。






イマジネール(想像的)な死闘
圧倒的な現実を前に人はそこへいたるまでのメタ物語性(運命だとか因果だとか)を喚起する生き物なわけだが、それって実はただの思い込みに過ぎなくて、リアリティというものは常にその現在という時間性にだけ宿るもので。

俺はこんなトラウマ的過去があるから・・・
こんな過ちを繰り返してきたから
今までいい加減に生きてきたから、
このような失敗を繰り返してきたから
おそらくこう動けばこのようなつっこみが入るだろうから

=だから何も出来るわけがない。

という前提はメタ物語的には回収できる事象ではあっても、現実という空間においては適応不可能な前提なのではないかと考えている。

時が常に断絶を繰り返しているのであれば、歴史観や前提などは意味をなくす。
それを防ぎたくて人間は物語において物事の関連付け、伏線作り、メタファー作りに試行錯誤するわけだが、物語ではなくて現実に連続性があるかといえば、実はそうでもないのだろう。
結果が出てからそこに物語性を見出すことは簡単だが、だったら別のシナリオだってありえたはずなのだ。

だから、そんなもの関係なくどこまでも愚かしく挑戦し続けてもそれは何もおかしなことではないのではないか。ま、屁理屈だけどね。しかし、なんにせよ僕らが考えているほど、現実は物語的なシナリオは用意してはくれない。予定調和よりもはるかに面白いフィクションだとも言える。
人は現実において現実を生きているのではなくてある種の物語的なシナリオに沿って生きていると実感したい欲望を抱えているに過ぎない。現実が物語を作り出すのか物語が我々を突き動かす力となっているのか。なんという相関関係だろうか。面白いよなあ。

ラカンのことばを借りるのであれば
リアリティとは現実界のことで
フィクションと時間性は想像界と象徴界の出来事になるのだろう。
内山さん最高やん。
あのサルガドを12Rで劇的なKOとは恐れ入った。
ディフェンスのいいボクサーだからこのまま逃げ切られての判定勝ちかな、と思ってたけど、倒しきったねえ。
それだけパンチがあるということの証明でもあるのだろう。
もっといい試合してもっと有名になってほしいよ。
一夜でファンになりました。
そしてリナレスはどう出ますかな?もちろんサルガドが倒されたとあっては黙ってはいないだろう。
これはとても熱い展開になってきたな!

パッキャオ×メイウェザー消滅でテンション下がりまくってたけど、今日の試合は熱かった!そして次の試合も熱い試合になればよいと思う。

細野選手は残念だったが、一枚プーンサワットのほうが上手だった印象。けど別の戦い方もすればまだチャンスはあるのではないかという感じはした。まためげずに頑張って欲しいです。

2月8日の日記

2010年1月10日 メモ
たとえばフォロー数が少なく、フォロワーを何千、何万という単位で抱えてる人間にはやはり一定の権威と圧力が宿るわけで。みんなはそのような「大名様」の顔色を伺いながらツイートをしなくてはいけなくなったりする。何でかって言うとその人のことを好きだから嫌われたくないわけだ。

みんなが「俺のフォロワー何百人行った!万歳!」てなるのは結局そういう「影響力」を身に着けたかも知れない、という自己実現的な欲求があるからで。それは個である以上当たり前なのだけれど、それらの権威ある意志の裏側には累々と転がる一般意志たちの死骸が…てのは避けたいところだなあ。

せめて残滓でも残ればいいなとは思うけれどね。だからみんな、怖がらずに発信を続けていくしかない。たとえ一方通行だとしても。

もともと人間てコンスタティブなところにしか反応しない生き物で、「物語」なるものが世に受容されればされるほどに、パフォーマティブなところに人々の視線が誘導されるようになっていった経緯ってあるような気がするなあ。

1月25日の日記

2009年12月27日 メモ
必然とは物語的なもの
偶然とは現実的なもの
蓋然とはゲーム的なもの

こんなイメージ
長谷川は減量苦の影響が2試合前くらいから出てる気がするな。足取りの重さとかパンチ打ったときのバランスの崩れ具合とか見るに。
以前よりパンチの一発一発に力を込めて強振するようになった印象もある。
KO勝利しようと言う意識からくる力みもあるのだろうか。

このままバンタムで続ければ具志堅の記録は塗り替えられるかもしれないけれど、一般ファンではなくてボクシングファンが長谷川穂積に望むものはラスベガスに進出して第二のパッキャオを目指して欲しいというのが本音だろう。俺もそう。
KOパンチャー長谷川穂積ではなくてスピードスター長谷川穂積が見たいのだ。
ま、希望だけどねあくまで。
頑張っている、真面目にやっている、というのを出来なかったことの免罪符にしている人は、そりゃ間違いだな、て思う。
どんだけサボろうが、てきとーやってようが、きちんとした結果、具体的な数字を上げられる人は生き残り、そうでない人は結局切られていく運命にある。

必死にやってるところを人に見てもらって、あまつさえ褒めてもらおうなんて思うような小賢しさはいらんよなあ。
結果を出すために努力はやはり必要なのだけど、そこにヒューマニズム的な情緒がまじってくると、とたんに現実は不透明な濁りを催す。
思ったけど、理想の人間像てのがあったとして、それは他人に投影したり委託するものじゃなくて、自分がなるように努力するのが一番手っ取り早くしかも確実なのだということだ。

漫画に出てくるヒーローのような他者を見つけたいと思って理想の他者を探すのもいいんだけど、結局自分のヒューマンパワーが不足してるとやっぱりそのレベルの相手としか知り合えないし、共感も得られない。

そして生きていく中で「共感」ほど人間を堕落させるものはない。コミュニケーション志向アーキテクチャに作家性と呼ばれるものが抽出できない理由はそこにあるのではないかと思うのだけれど。

うん、脱線したな。さあ仕事仕事。
ホプは勝ったか。よかったよかった。
しかしライバルを失ったホプさんの次の目標はどうなるのだろう…?

個人的にホリフィールドとの爺ファイトを見てみたいような予感。
さすがに無謀かなw

ロイが…

2009年12月2日 ボクシング
ロイいいいいい!

orz

ホプさんも負けたりしないか心配になってた。

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