ポーニョポーニョポニョ
2008年9月20日 エッセイ コメント (2)リテラシー身につけることになんか意味あんのかなあ?とか最近思った。
インテリと馬鹿の境界線てだいたいは知識があるのとないとの違いなんだと思うんだけど
知識を動員してどういう言説を持つのか、という問題になってくると
実はインテリも馬鹿もそんなに違い、てのがなくて。
結局は白か黒か、てことでしか語れなくなる。
で、最初に出てくるその物事に対する是か非かという感情(スタンス)てのがそいつの思想や志向性の基盤になっていて、そっから理論武装(言い訳)出来るのがインテリで、出来ないのが馬鹿、というだけの違いでしかないように思えてくるのね。
だからインテリばっかで動く恣意的な選民社会だろうと
馬鹿ばっかの勢い任せの愚民社会だろうと
実は結果はあんまり変わんないんじゃないか、て気がしてくんだ。
もともとのスペックにほとんど違いとかないしさ。
ちょっと話がぶっ飛ぶんだけど女性、ってのはそういうのが本能的かつ子宮的に分かってるから批評系に対して冷たい態度を取るし、そういう無駄知識ロマンを持ってる機能性0のルサンチマンオタクたちはいつまでたっても非モテでいい加減に絶滅危惧種なのかもなあ、とか。
いやでも、そういう駄サイクル繰り返しますけどね。
絶対的に無意味というわけでもないし。
どちらかといえばアプリオリよりはアポステリオリ、のほうがアテになるだろうさ、多分…
インテリと馬鹿の境界線てだいたいは知識があるのとないとの違いなんだと思うんだけど
知識を動員してどういう言説を持つのか、という問題になってくると
実はインテリも馬鹿もそんなに違い、てのがなくて。
結局は白か黒か、てことでしか語れなくなる。
で、最初に出てくるその物事に対する是か非かという感情(スタンス)てのがそいつの思想や志向性の基盤になっていて、そっから理論武装(言い訳)出来るのがインテリで、出来ないのが馬鹿、というだけの違いでしかないように思えてくるのね。
だからインテリばっかで動く恣意的な選民社会だろうと
馬鹿ばっかの勢い任せの愚民社会だろうと
実は結果はあんまり変わんないんじゃないか、て気がしてくんだ。
もともとのスペックにほとんど違いとかないしさ。
ちょっと話がぶっ飛ぶんだけど女性、ってのはそういうのが本能的かつ子宮的に分かってるから批評系に対して冷たい態度を取るし、そういう無駄知識ロマンを持ってる機能性0のルサンチマンオタクたちはいつまでたっても非モテでいい加減に絶滅危惧種なのかもなあ、とか。
いやでも、そういう駄サイクル繰り返しますけどね。
絶対的に無意味というわけでもないし。
どちらかといえばアプリオリよりはアポステリオリ、のほうがアテになるだろうさ、多分…
漫画を描くことに疑問を持った。
たとえば俺が描かなくても誰かがこういったストーリーは考え付くだろうし、俺がその物語りをつむぐ必要があるのかと。
俺より才能のある書き手はこの世に何万といる。
だったら別に俺がそれをやる必要があるのかと。
俺は自尊心の強い人間ではないと自分で思っている。
何かを手に入れたいと願ったとき、別にもそれを欲しがっている人間がいたとき「あ、じゃあ、お先にどうぞ」といってしまうタイプである。
俺がそれを手に入れることが出来なかったとしても別の誰かがそれによって得をするわけだから、それはそれで、世界という枠で物事を俯瞰してみれば+−0なわけだ。
そうしてるうちに「俺がやらなくて誰がやる?」といえるほどの才能もやる気もない自分が描いてもいい物語というものがなんなのか分からなくなってしまった。
そして自分がやりたいと思っていた物語が実はかなり陳腐なものかもしれないとうすうす感づいてくるといよいよもって八方塞がりである。
仕事なのだと割り切って描けばいいのか。
だがロマンも持たずに描き続けられるほどその仕事が安いもんじゃないことも分かっている。
だから同人のような好きなことを好きなようにやれる媒体に人が群がっていくのかもしれない。
商業誌は「オリジナルである」と銘打ってはいるけれどどれもこれも、どこかで見た二番煎じがそのほとんどを締めているじゃないか、といいたくなる。業界に片足突っ込んでる人間がいっちゃいけないのかもしれないけれど。
前に自分で書いてたことをちょっと思い出した。
自分がストーリーを描くのではなくストーリーが書き手を選ぶのだということ。
そういや東方プロジェクトという媒体はそれを地で行ってるなあと関心してしまった。
ZUN氏という、その物語の紡ぎ手は舞台を用意するだけしといて後の物語の拡大化は別の二次創作者たちに放り投げてしまってるわけだ。
まさにその世界観の土台だけを作り、俯瞰し続けているのみである。(自分でもちゃんと公式のストーリー作り続けてるけどね)
「お金」「自己顕示欲」という人間生活としての報酬はそれを許容することにより制限されてしまっているのだけど(お金はそれでも十分稼いでるだろうけど)、その世界を創作した「神主」としての立場としてはこれ以上にない満足感を獲得できているのではなかろうか。
大きな物語が消失したといわれる現在において、それを自覚した上で何よりも最先端を行ってるのは実は同人界だったりすんのかもなあ。
本当はこんな理屈必要ないんだけどね。
俺という人間の悩みに関して言えば、ただ描き続ければいいだけなのだし。
必要なのは哲学じゃなくて、実行力だしね…
さて、ネームの続きやろう。
描き続けてればそのうち、本当に必要なことが見えてくるだろう。それまではやり続けるしかない。それが無駄になることだけは絶対ないから。
※補足だが富野御大は∀ガンダムにおいてZUNさんと似たような戦略に出たよね。やっぱいつでも時代先取りだよなあこの爺さん。早い、早いよ!!早すぎて一部の信者意外気づいてないよ!!
たとえば俺が描かなくても誰かがこういったストーリーは考え付くだろうし、俺がその物語りをつむぐ必要があるのかと。
俺より才能のある書き手はこの世に何万といる。
だったら別に俺がそれをやる必要があるのかと。
俺は自尊心の強い人間ではないと自分で思っている。
何かを手に入れたいと願ったとき、別にもそれを欲しがっている人間がいたとき「あ、じゃあ、お先にどうぞ」といってしまうタイプである。
俺がそれを手に入れることが出来なかったとしても別の誰かがそれによって得をするわけだから、それはそれで、世界という枠で物事を俯瞰してみれば+−0なわけだ。
そうしてるうちに「俺がやらなくて誰がやる?」といえるほどの才能もやる気もない自分が描いてもいい物語というものがなんなのか分からなくなってしまった。
そして自分がやりたいと思っていた物語が実はかなり陳腐なものかもしれないとうすうす感づいてくるといよいよもって八方塞がりである。
仕事なのだと割り切って描けばいいのか。
だがロマンも持たずに描き続けられるほどその仕事が安いもんじゃないことも分かっている。
だから同人のような好きなことを好きなようにやれる媒体に人が群がっていくのかもしれない。
商業誌は「オリジナルである」と銘打ってはいるけれどどれもこれも、どこかで見た二番煎じがそのほとんどを締めているじゃないか、といいたくなる。業界に片足突っ込んでる人間がいっちゃいけないのかもしれないけれど。
前に自分で書いてたことをちょっと思い出した。
自分がストーリーを描くのではなくストーリーが書き手を選ぶのだということ。
そういや東方プロジェクトという媒体はそれを地で行ってるなあと関心してしまった。
ZUN氏という、その物語の紡ぎ手は舞台を用意するだけしといて後の物語の拡大化は別の二次創作者たちに放り投げてしまってるわけだ。
まさにその世界観の土台だけを作り、俯瞰し続けているのみである。(自分でもちゃんと公式のストーリー作り続けてるけどね)
「お金」「自己顕示欲」という人間生活としての報酬はそれを許容することにより制限されてしまっているのだけど(お金はそれでも十分稼いでるだろうけど)、その世界を創作した「神主」としての立場としてはこれ以上にない満足感を獲得できているのではなかろうか。
大きな物語が消失したといわれる現在において、それを自覚した上で何よりも最先端を行ってるのは実は同人界だったりすんのかもなあ。
本当はこんな理屈必要ないんだけどね。
俺という人間の悩みに関して言えば、ただ描き続ければいいだけなのだし。
必要なのは哲学じゃなくて、実行力だしね…
さて、ネームの続きやろう。
描き続けてればそのうち、本当に必要なことが見えてくるだろう。それまではやり続けるしかない。それが無駄になることだけは絶対ないから。
※補足だが富野御大は∀ガンダムにおいてZUNさんと似たような戦略に出たよね。やっぱいつでも時代先取りだよなあこの爺さん。早い、早いよ!!早すぎて一部の信者意外気づいてないよ!!
実にどうでもいい話なんだが、その昔あきまん氏が
アメリカのヒーローモノと日本のヒーローモノの違いについて
分析してたのを思い出した。
確かその分析は、こういったものだったと思う。
アメリカのヒーローは基本、等身大で、その人物が人物であると特定できる範囲内のものが多いみたいで。
たとえばスーパーマンであったり、ロボコップであったりランボーだったり。
武器も銃器系が多く、必殺技的なものよりも実用的なものが求められてるっぽい。
対して日本のヒーローはよく変身する。
巨大化、ロボット化、そのロボットに搭乗、改造人間化、と。
ガンダム、仮面ライダー、ウルトラマンあたりがその代表格か。
で、この変に日本人の「自分ではない何か」を求める傾向が顕著に出てるなと俺も思った。
何で自分ではなく、別の何かを求めてるのか。
やっぱ世界大戦で戦争に負けた、てのはでかいのかもしれない。
東浩紀によると戦争に負けたのだという意識が人々の日本人であることの歴史意識を断絶させ、オタク的でハイブリッドなアイデンティティを生む土壌になってんだ、ということになってる。
ふと思ったのが、これもやっぱそうなんかなあ、てことだ。
うんまあそんだけ…
「自分ではない何か」ではなくて自分が立ち上がらないとどうしようもないんだよ、てことをウルトラマンの最終回ではきっちり示唆されてんだけどね。
結局誰も立ち上がれなくて何度も何度もヒーローたちが生まれ変わっては僕らの胸糞悪くなった機嫌を回復させてくれてんだ。
この世は全て代替可能なモンに基づいてるんだな。
アメリカの人たちもさすがにそれに気づきつつあるんだろう。
だから物事は拡大することなく更なるミクロ化が促進されていく。
でも心がその加速に耐えらんなくてウボアー。
アメリカのヒーローモノと日本のヒーローモノの違いについて
分析してたのを思い出した。
確かその分析は、こういったものだったと思う。
アメリカのヒーローは基本、等身大で、その人物が人物であると特定できる範囲内のものが多いみたいで。
たとえばスーパーマンであったり、ロボコップであったりランボーだったり。
武器も銃器系が多く、必殺技的なものよりも実用的なものが求められてるっぽい。
対して日本のヒーローはよく変身する。
巨大化、ロボット化、そのロボットに搭乗、改造人間化、と。
ガンダム、仮面ライダー、ウルトラマンあたりがその代表格か。
で、この変に日本人の「自分ではない何か」を求める傾向が顕著に出てるなと俺も思った。
何で自分ではなく、別の何かを求めてるのか。
やっぱ世界大戦で戦争に負けた、てのはでかいのかもしれない。
東浩紀によると戦争に負けたのだという意識が人々の日本人であることの歴史意識を断絶させ、オタク的でハイブリッドなアイデンティティを生む土壌になってんだ、ということになってる。
ふと思ったのが、これもやっぱそうなんかなあ、てことだ。
うんまあそんだけ…
「自分ではない何か」ではなくて自分が立ち上がらないとどうしようもないんだよ、てことをウルトラマンの最終回ではきっちり示唆されてんだけどね。
結局誰も立ち上がれなくて何度も何度もヒーローたちが生まれ変わっては僕らの胸糞悪くなった機嫌を回復させてくれてんだ。
この世は全て代替可能なモンに基づいてるんだな。
アメリカの人たちもさすがにそれに気づきつつあるんだろう。
だから物事は拡大することなく更なるミクロ化が促進されていく。
でも心がその加速に耐えらんなくてウボアー。
ん、何か問題あんのかな?
なんかアホなこと言ってみて笑いを取りたかっただけだろうに。
笑を取ろうと自分でもくだらないと思ってる冗談を言ってみたら
奴は頭がおかしい、どうにかしないと・・・
ていうのは、なんだかひどく違和感がある。
まあ言葉の選択を誤ったといえばそこまでだけど、でも昔っからそんなに公の発言に神経質だったかねえ?この国は。互いが互いを監視しあってるみたいで監獄のようですよ。フーコー先生が大喜びじゃないか。
なんだか生き辛い世の中ですなー。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃ(ry
亀田が自分たちの言うことを利かないから解雇する、てのと
車が云々で問題ありだから厳重な処罰を・・・てのは
一緒に考えていいことじゃあねーだろ。
こういうフィルターのかかったようなものの見方はどうも好きになれん。
罵倒の方向にメディアが進んでるからそうなるんだろうけどさ、KYとか言いながらどんどん何もいえない窮屈な村社会チックな世の中でも目指してるんですかね?何処まで小物ぞろいなんだよ、つー話ですよ。
あと、もう亀田一家は引退でいいんじゃないかな。まさかここまで他人と上手くやってけないんじゃね。ヤル気あんのかないのか、ウンコ報道通して見ててもわかんねえしさ。一時期のタイソン見てる感じに近いのでこれ以上恥晒すのもなんかアレだしなあ…
なんかアホなこと言ってみて笑いを取りたかっただけだろうに。
笑を取ろうと自分でもくだらないと思ってる冗談を言ってみたら
奴は頭がおかしい、どうにかしないと・・・
ていうのは、なんだかひどく違和感がある。
まあ言葉の選択を誤ったといえばそこまでだけど、でも昔っからそんなに公の発言に神経質だったかねえ?この国は。互いが互いを監視しあってるみたいで監獄のようですよ。フーコー先生が大喜びじゃないか。
なんだか生き辛い世の中ですなー。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃ(ry
亀田が自分たちの言うことを利かないから解雇する、てのと
車が云々で問題ありだから厳重な処罰を・・・てのは
一緒に考えていいことじゃあねーだろ。
こういうフィルターのかかったようなものの見方はどうも好きになれん。
罵倒の方向にメディアが進んでるからそうなるんだろうけどさ、KYとか言いながらどんどん何もいえない窮屈な村社会チックな世の中でも目指してるんですかね?何処まで小物ぞろいなんだよ、つー話ですよ。
あと、もう亀田一家は引退でいいんじゃないかな。まさかここまで他人と上手くやってけないんじゃね。ヤル気あんのかないのか、ウンコ報道通して見ててもわかんねえしさ。一時期のタイソン見てる感じに近いのでこれ以上恥晒すのもなんかアレだしなあ…
おわっつああああああああああああ
2008年2月12日 エッセイ死ぬかと思った・・・
二日で32ページもののネーム上げるとかはじめての経験だったから頭がオーバーヒート寸前。
右手は腱鞘炎寸前だ。
いやー、それにしても締め切り、てのはいいものだ。
「締め切り」なんとも甘美な響きであろうか。
この魔法の言葉がある限り、人間の精神は何処までも不屈になれるのだなと知った25の朝・・・
明日からまた地獄のアシが始まるがそんなの関係ねー。
今はただ、きちんと(かどうかは内容的に怪しいが)ネームを上げた自分を自分で褒めちぎりつつ、つかの間のヒキコモリライフを楽しもうと思います。
ここ最近、自分の仕事してるかアシスタントやってるかのどっちかしかなかったしなー・・・
でも毎日が完全燃焼感あって、悪くねーよ。
うん、多分こういう毎日が送りたくて、昔の俺はふてくされてたんだろうなあ。
もっとうえを目指したい・・・
二日で32ページもののネーム上げるとかはじめての経験だったから頭がオーバーヒート寸前。
右手は腱鞘炎寸前だ。
いやー、それにしても締め切り、てのはいいものだ。
「締め切り」なんとも甘美な響きであろうか。
この魔法の言葉がある限り、人間の精神は何処までも不屈になれるのだなと知った25の朝・・・
明日からまた地獄のアシが始まるがそんなの関係ねー。
今はただ、きちんと(かどうかは内容的に怪しいが)ネームを上げた自分を自分で褒めちぎりつつ、つかの間のヒキコモリライフを楽しもうと思います。
ここ最近、自分の仕事してるかアシスタントやってるかのどっちかしかなかったしなー・・・
でも毎日が完全燃焼感あって、悪くねーよ。
うん、多分こういう毎日が送りたくて、昔の俺はふてくされてたんだろうなあ。
もっとうえを目指したい・・・
どうして人は人を嫌うのか
2007年12月6日 エッセイ人間面白いことに何の不満もない毎日ていうのが逆に不満になる。
仮想敵というかむかつく奴がいないと生きていけないという、面白くもネガティブなシステムが心に組み込まれてるので勝手に特定のその人間を見るとイライラしてきたりする。
なんかイライラする。なんかむかむかする。何が不満というわけでもないが何かが恐ろしい。
そうか、その原因はきっと○○なんだ、ていう風に赤ちゃんとか幼児は人に対して嫌悪感をさらけ出すのだと思うけど、
大人になるにつれて「彼のこういうところがこういう意味で嫌いなんだ」て風に理論武装するようになるから、本能的な嫌悪感からは遠ざかっていくのかも。
でも考えてみると実は「彼のそんなところが嫌い」とかじゃなくてただ単に生きていることそのものの不自然さや恐ろしさに対する畏怖を擬人化して特定したいだけなのかもしんないなあ、とかちょっと哲学的に考えてみた。
ようは偶像崇拝がどうして起きるのか、てこともこういう部分につながってくるのかもね。
結局、不満も幸福も全て人間の姿をかたどっていないと寂しくて仕方なくなるんだと思う。みんなね。
仮想敵というかむかつく奴がいないと生きていけないという、面白くもネガティブなシステムが心に組み込まれてるので勝手に特定のその人間を見るとイライラしてきたりする。
なんかイライラする。なんかむかむかする。何が不満というわけでもないが何かが恐ろしい。
そうか、その原因はきっと○○なんだ、ていう風に赤ちゃんとか幼児は人に対して嫌悪感をさらけ出すのだと思うけど、
大人になるにつれて「彼のこういうところがこういう意味で嫌いなんだ」て風に理論武装するようになるから、本能的な嫌悪感からは遠ざかっていくのかも。
でも考えてみると実は「彼のそんなところが嫌い」とかじゃなくてただ単に生きていることそのものの不自然さや恐ろしさに対する畏怖を擬人化して特定したいだけなのかもしんないなあ、とかちょっと哲学的に考えてみた。
ようは偶像崇拝がどうして起きるのか、てこともこういう部分につながってくるのかもね。
結局、不満も幸福も全て人間の姿をかたどっていないと寂しくて仕方なくなるんだと思う。みんなね。
過去の日記を読むとひたすら恥ずかしくなるのは何故だろう。
現在の自分の日記もいずれはやはり恥ずかしくなるのだろうな。
成長している証拠だとはいえなんともゴミくずのような歴史を
重ねてるもんだなとわが事ながら嘆かわしい。
漫画のネタにもなりゃしねえ。
今更後悔しても遅いけれども。
精一杯やってます!てのはやってない奴のいうことだな。
本当に必死な奴は鏡に映った自分を見て「あ、俺」これだよね。
現在の自分の日記もいずれはやはり恥ずかしくなるのだろうな。
成長している証拠だとはいえなんともゴミくずのような歴史を
重ねてるもんだなとわが事ながら嘆かわしい。
漫画のネタにもなりゃしねえ。
今更後悔しても遅いけれども。
精一杯やってます!てのはやってない奴のいうことだな。
本当に必死な奴は鏡に映った自分を見て「あ、俺」これだよね。
何していいのかわかんなくなるな。
とりあえずツタヤとか行って昔のアニソン(999とかパトレイバー)でもあさってみるが聴いててちっとも気持ちよくないし楽しみだった24のシーズン6もあまり観る気が起きない。観るにしても勉強気分で観ることになるんだろうか?
何か血がちょっと入れ替わった気分がする。アレだ。時計仕掛けのオレンジとかフルメタルジャケット的な洗脳モードに入ってんのかもしれない。面白いよなあ人間て。
一度、そうである、と決めてそのとおりに動くとあたかもそれが唯一絶対の真実にしか思えなくなる。
でもしばらく何もしないとまたもとの多面性を許容するヒッキー精神が逆流してくるのだろう。
現在の俺の心境はそれを拒否しているし、このまま突っ切りたいと願っている。
生きることに余裕があると、いろんな価値に触れ合いたくなる。それがぬるい雰囲気を作り出す。
このまま切羽詰ったまんま描き続ける方がきっと伸びるし、逃げ出したい気持ちと戦い続けたほうが心は研ぎ澄まされていくのだろう。
それがホンモノの自分の気持ちであるかのような錯覚を錯覚だと思わないほどに貫いていけばそれはいつしか本物になるんだろう。今日のグレンラガンなんかが語ってたのはそういうことなんだろうなあ。
もう、いじけてどうのこうの、ていうのはなしだな、やっぱ。セカイ系がなんで衰退すんのかがよく分かる象徴的な出来事が近頃頻繁に起きてる。
とりあえずツタヤとか行って昔のアニソン(999とかパトレイバー)でもあさってみるが聴いててちっとも気持ちよくないし楽しみだった24のシーズン6もあまり観る気が起きない。観るにしても勉強気分で観ることになるんだろうか?
何か血がちょっと入れ替わった気分がする。アレだ。時計仕掛けのオレンジとかフルメタルジャケット的な洗脳モードに入ってんのかもしれない。面白いよなあ人間て。
一度、そうである、と決めてそのとおりに動くとあたかもそれが唯一絶対の真実にしか思えなくなる。
でもしばらく何もしないとまたもとの多面性を許容するヒッキー精神が逆流してくるのだろう。
現在の俺の心境はそれを拒否しているし、このまま突っ切りたいと願っている。
生きることに余裕があると、いろんな価値に触れ合いたくなる。それがぬるい雰囲気を作り出す。
このまま切羽詰ったまんま描き続ける方がきっと伸びるし、逃げ出したい気持ちと戦い続けたほうが心は研ぎ澄まされていくのだろう。
それがホンモノの自分の気持ちであるかのような錯覚を錯覚だと思わないほどに貫いていけばそれはいつしか本物になるんだろう。今日のグレンラガンなんかが語ってたのはそういうことなんだろうなあ。
もう、いじけてどうのこうの、ていうのはなしだな、やっぱ。セカイ系がなんで衰退すんのかがよく分かる象徴的な出来事が近頃頻繁に起きてる。
元に戻る、てのともまた違うんだけど
2007年9月2日 エッセイ コメント (2)なんかいろいろぶっ壊れたい…
ここ数年あまりに俺は回りに適応しすぎてたのではないかという疑念が浮き上がってきた。もっと壊れてなくちゃ駄目だったんじゃないか?
コミュニケーション不能の電波垂れ流すいかれポンチくんだった自意識過剰の俺は何処へ行ってしまったのか。
イタイことを恐れて常識人ぶった振る舞いが過ぎていたんじゃないかとかそんなこと思い始めた。
いやそもそも俺が目立たないよう目立たないよう生きてきた結果がこれなのか。元来目立ちたがりだった癖に何度か痛い目を見た結果としてアウトボクシングを会得したわけだがそれと同時に毒を吐くこと、相手のことなどお構い無しのインファイトを忘れてしまっていた気がする。
口だけ野郎になりたくねえ、という小心もあった。
でもそれじゃ駄目くねえか?もっと自己愛のオーラをもってして自信満々で生きたいもんだが、矯正されてしまった小心オーラを呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん、てな感じに止揚させんのは結構難しそうだ。難しそうだけどやるしかない気がする。
ここ数年あまりに俺は回りに適応しすぎてたのではないかという疑念が浮き上がってきた。もっと壊れてなくちゃ駄目だったんじゃないか?
コミュニケーション不能の電波垂れ流すいかれポンチくんだった自意識過剰の俺は何処へ行ってしまったのか。
イタイことを恐れて常識人ぶった振る舞いが過ぎていたんじゃないかとかそんなこと思い始めた。
いやそもそも俺が目立たないよう目立たないよう生きてきた結果がこれなのか。元来目立ちたがりだった癖に何度か痛い目を見た結果としてアウトボクシングを会得したわけだがそれと同時に毒を吐くこと、相手のことなどお構い無しのインファイトを忘れてしまっていた気がする。
口だけ野郎になりたくねえ、という小心もあった。
でもそれじゃ駄目くねえか?もっと自己愛のオーラをもってして自信満々で生きたいもんだが、矯正されてしまった小心オーラを呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん、てな感じに止揚させんのは結構難しそうだ。難しそうだけどやるしかない気がする。
数年前の話だが舞城王太郎の小説論みたいなので「作家が小説を書いてるのではなく小説が書き手を選んでいる」といった感じの文章があったのを覚えてる。
これを読んだときどうにもしっくり来なかったけど今なら良く分かる。実にしっくり来る言葉だ。
俺が選んだのは漫画ではあるのだけどいつか神が舞い降りてくるようなぶったまげた作品を描きたいのだ、と意気込んでた頃はそれはそれは壮大で無理のある話ばかり描こうと頑張ってたと思う。そして思うように行かず頓挫する。
「やっぱり俺には素晴らしい作品を描くような才能はないのだ」と肩を落とす。で、しばらく描かなくなる。これの繰り返し。
描こう、描こうと気負ってばかりで結局何も進まない。
そういうことではないんだな、とようやく気づけた。
プラトンのイデア論や東浩紀のデータベース論にも通ずる部分があるかもしれない。形而上の向こう側にある数ある何がしかの作品がこちら側に存在する書き手を選別し、そして描けと命ずるわけだ。
描くに値しない作家はもちろん選ばれることはない。「その作品」を描くことに選ばれるかどうかは要するに神のみぞ知るといったところなのだろう。
だからいずれ選ばれたときにきちんと描けるよう、「作品」の足を引っ張らぬよう自分のステータスを磨いておく必要がある。
作家は作品の生みの親なのではなくて、作品に使われるマシーンなんだろう。だから心は常に冷静に閉じてゴミのように働き続ける心構えが必要になる。
だってそういう心持じゃないと世に存在する数ある名作の数々に自分程度の矮小な自尊心なんぞ藻屑となって消えてしまう。世にある作品群のひとつを「描くことが出来る」という楽な気構えを持って取り組めたらそれが一番いいし健康的だと思う。
まあこれはあくまで俺の心構えに過ぎないから誰かに押し付けるものではないのだけど。
これを読んだときどうにもしっくり来なかったけど今なら良く分かる。実にしっくり来る言葉だ。
俺が選んだのは漫画ではあるのだけどいつか神が舞い降りてくるようなぶったまげた作品を描きたいのだ、と意気込んでた頃はそれはそれは壮大で無理のある話ばかり描こうと頑張ってたと思う。そして思うように行かず頓挫する。
「やっぱり俺には素晴らしい作品を描くような才能はないのだ」と肩を落とす。で、しばらく描かなくなる。これの繰り返し。
描こう、描こうと気負ってばかりで結局何も進まない。
そういうことではないんだな、とようやく気づけた。
プラトンのイデア論や東浩紀のデータベース論にも通ずる部分があるかもしれない。形而上の向こう側にある数ある何がしかの作品がこちら側に存在する書き手を選別し、そして描けと命ずるわけだ。
描くに値しない作家はもちろん選ばれることはない。「その作品」を描くことに選ばれるかどうかは要するに神のみぞ知るといったところなのだろう。
だからいずれ選ばれたときにきちんと描けるよう、「作品」の足を引っ張らぬよう自分のステータスを磨いておく必要がある。
作家は作品の生みの親なのではなくて、作品に使われるマシーンなんだろう。だから心は常に冷静に閉じてゴミのように働き続ける心構えが必要になる。
だってそういう心持じゃないと世に存在する数ある名作の数々に自分程度の矮小な自尊心なんぞ藻屑となって消えてしまう。世にある作品群のひとつを「描くことが出来る」という楽な気構えを持って取り組めたらそれが一番いいし健康的だと思う。
まあこれはあくまで俺の心構えに過ぎないから誰かに押し付けるものではないのだけど。
今の気持ちが後々気づけばフェイクだったりする可能性ってあるよね。でも、それでもいいんだ。
自分は本気なんだ、て誓いを立てること、そのように動くことが大事なんだろう。
ボクシングの名トレーナーカスダマトは英雄的願望なら誰でも考えるし持っている。それを実行したかどうかだけが問題なのだ。みたいなことをいってたよね。彼は思想家でもあったんだな。
だから、今はただ必死に、いけるところまでいってみよう。
自分は本気なんだ、て誓いを立てること、そのように動くことが大事なんだろう。
ボクシングの名トレーナーカスダマトは英雄的願望なら誰でも考えるし持っている。それを実行したかどうかだけが問題なのだ。みたいなことをいってたよね。彼は思想家でもあったんだな。
だから、今はただ必死に、いけるところまでいってみよう。
ディスコミュニケーション
2007年6月9日 エッセイ相互不理解であろうと互いが気持ちのいいと思える関係性を築くことが出来るならそれは素晴らしいことだし。
一方通行の優しさであろうとそれをやり遂げようと葛藤することはそんなにかっこ悪いことじゃあないでしょう。
SとかMとか、ツンデレとか分かりやすいデータベース化の方法はあるのだけど、結局語りたいことはその客寄せパンダ的な部分の「隙間」にある微妙な、語りようのない何かなわけではないですか。
それは大事にしなくちゃいけない。相手を思いやらなくちゃいけない。そういう状況に身をおく人間を圧倒的にMだとカテゴライズされているけど、俺はそういう人間が好きだしカッコイイなと思う。そういう風に自分を律したいなとは思うけど、まだ全然レベルが低いよなあきっと。
アズマンのいう全ての「大きな物語」がデータベースになり消費されるだけというのは切なくも悲しい時代に生まれたもんだが、消費されるだけの生き方、ではない目標と志を立てて頑張んないと、消費すらしてもらえないんだろう。だからその辺のプライドだけは重要。
一方通行の優しさであろうとそれをやり遂げようと葛藤することはそんなにかっこ悪いことじゃあないでしょう。
SとかMとか、ツンデレとか分かりやすいデータベース化の方法はあるのだけど、結局語りたいことはその客寄せパンダ的な部分の「隙間」にある微妙な、語りようのない何かなわけではないですか。
それは大事にしなくちゃいけない。相手を思いやらなくちゃいけない。そういう状況に身をおく人間を圧倒的にMだとカテゴライズされているけど、俺はそういう人間が好きだしカッコイイなと思う。そういう風に自分を律したいなとは思うけど、まだ全然レベルが低いよなあきっと。
アズマンのいう全ての「大きな物語」がデータベースになり消費されるだけというのは切なくも悲しい時代に生まれたもんだが、消費されるだけの生き方、ではない目標と志を立てて頑張んないと、消費すらしてもらえないんだろう。だからその辺のプライドだけは重要。
燃えとか
萌えとか
そういったごたいそうなことじゃなくて
売れるとか
売れないとか
そういったそくぶつてきなことでもなくて
だから
どうして
こうなっちゃったのか
ていう構造をきちんと読み解いてきちんとアウトプットできる力が欲しいもんだ。
結局こんなどうでもよさげな最低条件が伴わなくて今でも四苦八苦してるんだよなあ。
設定はあくまでもギミックだからこっちが主体になっちゃうとキャラクター産業や、美術造型になってしまう。それは他の職を目指してる人たちの分野なので俺が追っかけるものでもない。ま、ボーダーレスなこの時代にいうことでもないのかもしれんけどな。だからこその、というのはあるだろう。
萌えとか
そういったごたいそうなことじゃなくて
売れるとか
売れないとか
そういったそくぶつてきなことでもなくて
だから
どうして
こうなっちゃったのか
ていう構造をきちんと読み解いてきちんとアウトプットできる力が欲しいもんだ。
結局こんなどうでもよさげな最低条件が伴わなくて今でも四苦八苦してるんだよなあ。
設定はあくまでもギミックだからこっちが主体になっちゃうとキャラクター産業や、美術造型になってしまう。それは他の職を目指してる人たちの分野なので俺が追っかけるものでもない。ま、ボーダーレスなこの時代にいうことでもないのかもしれんけどな。だからこその、というのはあるだろう。
恥ずかしい話だけど愛について考えてみる。
「ラブアンドピース」だの「愛さえあれば他に何もいらない」だとか「愛とお金どっちが大事?」だとか「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて気がつけばそこにあるもの」だとか「愛があるからきっと大丈夫」だとか聞くんだけど、俺にとっちゃどれもあまりぴんと来ない使用例ばかりだったりする。
アガペー的な自己犠牲愛を愛の定義と考えると「愛があれば全てよし」という思考プロセスはどうにも楽観的過ぎて現実感がなく空虚であるし、「愛を貫徹する」というのもディスコミュニケーションやら自己実現的な問題を考えるとストイックすぎて人間の本能を逸脱してるといわざるをえないと思う。
そんな出来るかどうかも分からない(ていうか基本的にファンタジー)万能単語の「愛」をよくもまあ恥ずかしげもなくミュージシャンやら物語作家の人らは使うよなあと、斜めに構えていた時期が俺にもありました。
親が子供をいつくしむ愛は子孫を残したいという本能であって愛というにはどこか打算的であるし、誰かとセックスしたいというのも上に同じく、愛し、愛されたいという感情は相互扶助という商売関係に過ぎないからアガペーには程遠い。理屈でいえば。(もちろん本当は信じたいし信じてるけどね)
こういう風に否定神学風に幻想的に究極的な愛(アガペー)を解釈していくとつまるところ愛というのは現象であって人間の内面にもともとあるものではないんじゃないだろうかと思ってしまう。
非常にメタフィクショナルなんだけどその現象を観測している人間がいて初めて成立しうるというかね。
あるかどうかも分からない、というかありもしない透徹した生き方を信じて生きるというのはドンキホーテ的でとても切なくなる。でも信じてないと生きてることそれ自体がやってらんなくなったりもする。
「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて気がつけばそこにあるもの」ていうミスチルの歌はある意味的を射てんのかな。そこにあるんだ、あったんだ、と気づくことが出来れば結果としてそれは愛だったんだと解釈することは出来る。
うん…さすがだなあ桜井さんは。
頭の悪い俺が理屈をうだうだこねくり回さないと出ない結論をあっさり軽やかに歌詞にしてしまうとは…w
「ラブアンドピース」だの「愛さえあれば他に何もいらない」だとか「愛とお金どっちが大事?」だとか「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて気がつけばそこにあるもの」だとか「愛があるからきっと大丈夫」だとか聞くんだけど、俺にとっちゃどれもあまりぴんと来ない使用例ばかりだったりする。
アガペー的な自己犠牲愛を愛の定義と考えると「愛があれば全てよし」という思考プロセスはどうにも楽観的過ぎて現実感がなく空虚であるし、「愛を貫徹する」というのもディスコミュニケーションやら自己実現的な問題を考えるとストイックすぎて人間の本能を逸脱してるといわざるをえないと思う。
そんな出来るかどうかも分からない(ていうか基本的にファンタジー)万能単語の「愛」をよくもまあ恥ずかしげもなくミュージシャンやら物語作家の人らは使うよなあと、斜めに構えていた時期が俺にもありました。
親が子供をいつくしむ愛は子孫を残したいという本能であって愛というにはどこか打算的であるし、誰かとセックスしたいというのも上に同じく、愛し、愛されたいという感情は相互扶助という商売関係に過ぎないからアガペーには程遠い。理屈でいえば。(もちろん本当は信じたいし信じてるけどね)
こういう風に否定神学風に幻想的に究極的な愛(アガペー)を解釈していくとつまるところ愛というのは現象であって人間の内面にもともとあるものではないんじゃないだろうかと思ってしまう。
非常にメタフィクショナルなんだけどその現象を観測している人間がいて初めて成立しうるというかね。
あるかどうかも分からない、というかありもしない透徹した生き方を信じて生きるというのはドンキホーテ的でとても切なくなる。でも信じてないと生きてることそれ自体がやってらんなくなったりもする。
「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて気がつけばそこにあるもの」ていうミスチルの歌はある意味的を射てんのかな。そこにあるんだ、あったんだ、と気づくことが出来れば結果としてそれは愛だったんだと解釈することは出来る。
うん…さすがだなあ桜井さんは。
頭の悪い俺が理屈をうだうだこねくり回さないと出ない結論をあっさり軽やかに歌詞にしてしまうとは…w
僕は友人らと過ごすどうでもいい時間というものがこの上なく好きで、時間に余裕があるだけ大切にしたいなあと思う。友人らと共有した「どうでもいいこと」はいつか思い出という形で自分の人生を支えるための大切なバックボーンとなって、苦しいときの自分を奮い立たせてくれたり悲しいときの自分を励ましてくれたり、なんとなし空虚な気分を前向きに挽回してくれたりするもので。
だからそのときのために、しっかり頭に刻んでおかなければならないし、写真に起こして過去の存在証明を作り、こうしてテキストに起こして記録しておかなきゃいけない。
心に余裕がないとき、てのはどうしてもこの無駄などうでもいい時間が本当に無駄でマイナスに思えるんだけど、それは多分違っていて無駄でどうでもいいことをいかに楽しむのかが生きていくうえですごく大切になってくるんではないかな。
生きていく、てのはそれ自体の意味を突き詰めれば根本的に無意味であるし、あしたもしも俺や彼らが死のうとそれも結局はどうでもいいことになる。
だったら、少しでもこの思いがけない、かけがいのない時間を出来るだけたくさんの友人とわいわい楽しくやっていきたい。意味なんてものは必要ない。
少なくとも、意味はなくてもそうやって同じ時間を共有出来た仲間がいたのだということを錯覚しながら生きていける。錯覚かもしれないけど信じることは出来る。
だからそのときのために、しっかり頭に刻んでおかなければならないし、写真に起こして過去の存在証明を作り、こうしてテキストに起こして記録しておかなきゃいけない。
心に余裕がないとき、てのはどうしてもこの無駄などうでもいい時間が本当に無駄でマイナスに思えるんだけど、それは多分違っていて無駄でどうでもいいことをいかに楽しむのかが生きていくうえですごく大切になってくるんではないかな。
生きていく、てのはそれ自体の意味を突き詰めれば根本的に無意味であるし、あしたもしも俺や彼らが死のうとそれも結局はどうでもいいことになる。
だったら、少しでもこの思いがけない、かけがいのない時間を出来るだけたくさんの友人とわいわい楽しくやっていきたい。意味なんてものは必要ない。
少なくとも、意味はなくてもそうやって同じ時間を共有出来た仲間がいたのだということを錯覚しながら生きていける。錯覚かもしれないけど信じることは出来る。
第10回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門受賞者シンポジウム
2007年4月26日 エッセイ コメント (2)とかいう場で富野監督が「時かけ」についてなにやら批判めいたことを発言してたらしく多少ネットで話題を呼んでたみたいね。富野信者でありながら見落としてた俺は信者失格ですが。
内容としては高校生のセクシャリティにすりより過ぎていてその後の社会性のようなものが不透明なままだった、みたいなことみたいで、良く言われるセカイ系の作品に対する批判と似てる。
この社会性の欠落という問題は何もセカイ系だけの問題にはとどまらずここ最近の日本の物語作品全体に対して言える問題ではないかと思う。というのは要するに「大人の視点」というものそれ自体が超越的なものとして全く機能しえなくなってしまったからだろう。大人が説教して子供が成長するというビルドゥングスロマンはもう古過ぎる。子供のまま大人になる大人が増えた、というアナログな大人批判もまったくもって見当違いで、「良い大人」という正解が何処にもない社会状況だからで。
だから樋口監督が、もし社会性のようなものが見える壮大な物語になったなら賞には選ばなかっただろう、といっていたのは現代の虚無感や未来に対するどうしようもなさをあらわしているという点では頷けるし富野監督の言っていた社会性の不在に関する不安というのもまた正しいような気もする。真琴が見ている漠然とした未来のビジョンは健やかである一方で絶望的でもあり、でも自分はこうでありたい、という意思表明は曖昧なままで終わってしまっているのも確かで。それが、この作品の持ち味ではあるのだけど、そのキモチイイだけの世界に耽溺したまま起き上がってこない駄目な人たちに対するメッセージも欲しかったのだと御大はおっしゃってるのだろう。それもそのはずで、実際「時かけ」を一番評価してるのは現役の高校生とかじゃなくてそれよりちょっと上の年代の昔を懐かしむ人たちだと思うんだよね。
なんて優しい禿爺なんだ(ここまでくると俺も大概だな)
ていうか御大はぶつくさ文句言いながらもちゃんと賞与えちゃうあたりがツンデレだよなあ。細田頑張れ細田。
内容としては高校生のセクシャリティにすりより過ぎていてその後の社会性のようなものが不透明なままだった、みたいなことみたいで、良く言われるセカイ系の作品に対する批判と似てる。
この社会性の欠落という問題は何もセカイ系だけの問題にはとどまらずここ最近の日本の物語作品全体に対して言える問題ではないかと思う。というのは要するに「大人の視点」というものそれ自体が超越的なものとして全く機能しえなくなってしまったからだろう。大人が説教して子供が成長するというビルドゥングスロマンはもう古過ぎる。子供のまま大人になる大人が増えた、というアナログな大人批判もまったくもって見当違いで、「良い大人」という正解が何処にもない社会状況だからで。
だから樋口監督が、もし社会性のようなものが見える壮大な物語になったなら賞には選ばなかっただろう、といっていたのは現代の虚無感や未来に対するどうしようもなさをあらわしているという点では頷けるし富野監督の言っていた社会性の不在に関する不安というのもまた正しいような気もする。真琴が見ている漠然とした未来のビジョンは健やかである一方で絶望的でもあり、でも自分はこうでありたい、という意思表明は曖昧なままで終わってしまっているのも確かで。それが、この作品の持ち味ではあるのだけど、そのキモチイイだけの世界に耽溺したまま起き上がってこない駄目な人たちに対するメッセージも欲しかったのだと御大はおっしゃってるのだろう。それもそのはずで、実際「時かけ」を一番評価してるのは現役の高校生とかじゃなくてそれよりちょっと上の年代の昔を懐かしむ人たちだと思うんだよね。
なんて優しい禿爺なんだ(ここまでくると俺も大概だな)
ていうか御大はぶつくさ文句言いながらもちゃんと賞与えちゃうあたりがツンデレだよなあ。細田頑張れ細田。
2ちゃんがつぶれても代わりがいるもの…
2007年1月13日 エッセイ2ちゃんやってるとさ、思考が定まるのが早くなるよね。自分で考察する時間がなくなる。結構あっさり右から左に流れちゃう。たとえば何がしかのストーリー媒体に対する見解であったり事件に対する見解、まあ桜庭×秋山の件とかもそう。
何が悪いっちゃあないんだけど、デメリットがあるとすれば自分流の見解が固まる前にあっさり評価が定まっちゃう点かなと思う。自分は右だなと思ってたことがみんなが左だ左だと盛んに叫んでるとそうかもしれない、と抵抗することをやめちゃうことが結構ある。客観的な意見や中間論を無視して極端から極端に走っちゃうことが結構ある。この辺気をつけなくちゃいけんね。
回りが名作だ名作だと騒ぎ立てるとそれが本当に名作に思えてきたりしてね。DVD買っちゃったりするんだけど部屋の隅っこでホコリ被っちゃってたり、素晴らしい作品だと絶賛したいのに周辺が駄作認定だと発言欲求すら制限されちゃう。
思考の共有が簡単にできちゃうように見えるようになった分、ますます他人との隔たりが酷くなってるように感じたりもする。つか単純に+か−かだけで物事って見定めちゃいかんよな〜…
何が悪いっちゃあないんだけど、デメリットがあるとすれば自分流の見解が固まる前にあっさり評価が定まっちゃう点かなと思う。自分は右だなと思ってたことがみんなが左だ左だと盛んに叫んでるとそうかもしれない、と抵抗することをやめちゃうことが結構ある。客観的な意見や中間論を無視して極端から極端に走っちゃうことが結構ある。この辺気をつけなくちゃいけんね。
回りが名作だ名作だと騒ぎ立てるとそれが本当に名作に思えてきたりしてね。DVD買っちゃったりするんだけど部屋の隅っこでホコリ被っちゃってたり、素晴らしい作品だと絶賛したいのに周辺が駄作認定だと発言欲求すら制限されちゃう。
思考の共有が簡単にできちゃうように見えるようになった分、ますます他人との隔たりが酷くなってるように感じたりもする。つか単純に+か−かだけで物事って見定めちゃいかんよな〜…
佐藤大がいってたんだけどブログやらネットで自分の思っていることを吐露する行為はクリエイティブじゃなくて「消費」なのだそうだ。ちょっと久々に脳天をぶち抜かれたような感覚が来たね、これには。いやほんと。
そもそも何処からがインプットでどこからがアウトプットなのかという問題もある。学校行って勉強すること。聞く、書く、覚える。この行為はインプットでありながらもアウトプットであったりもする。アウトプットすることでより強固なインプットを固める。
工場仕事してる人たち。彼らはルーチンワークを繰り返しながらもおそらく別のこと、今日の晩飯は何を喰おうか、昨日の北朝鮮問題はどーだった、とか考えてるわけで、これは一見アウトプットに見えるインプット作業の一貫でもありうる。
じゃあブログやネットでの発言はどうなのかを考えてみるとやはりこれはアウトプット(消費)であってインプット(クリエイティブ)であるともいえる。ただ、問題はこの行為は明らかに消費の比率がでかい。クリエイティブの面におけるレスポンスがほとんど期待できない。
その状態というのは、たとえば僕みたいに漫画描きを目指してるような連中は手軽に自分の本音を晒して納得の行くテキストを消費し続けていき手軽に作家性(と呼ぶにはおこがましいですが)を消費し続けてる可能性があるわけだ。無駄に。
僕が、テキストを組めが組むほどに本来物語りを作成したいという欲望が別のものに消化されていっていることになる。それは非常に困るのでできるだけ必要最小限のことしかネットに文章を垂れ流すのはやめにしておきたいところだなあ。思考パターンを記録していく意味で意外は使わないほうがいいのかもしれない。
別の話
ストーリーを製作する上で、「自分がストーリーを製作する」のか「ストーリーを製作するのが自分」なのかという考え方がある。前者の志向性はまず自分という作品ありきなのであってストーリーを製作することで自分自身を高めたいという感覚が重要になってくる。後者の指向性は自分はストーリーというコアを作り上げるために必要なオプションに過ぎないのだという考え方。これは両方ある意味で真理なのだろうけれど、自分はなるだけ後者でありたいと考える。そっちのほうが楽だからだ。
自分という主体は時間性に縛られていて変化し続ける物体なのでいずれ衰え朽ち果ててしまう。そんな中で人が何とか永遠を手に入れたいと渇望して出来上がった文明が自分の外部に記憶を記す行為なのだと思う。記録を続けることで今の自分ではない過去の自分にまた出会えるわけで、過去の自分というものは、あるいは現在の自分よりも素晴らしい自分である場合もありえるわけだ。その素晴らしい自分の断片は歳をとってからも色あせることはない。だから自分を客体として主体としての永遠なる物語に断片を投影させていくほうがきっと死ぬまで楽に違いないと勝手に思ってる。これはある意味で自分をちっとも大事にしない行為でもあるのだけれど。
そもそも何処からがインプットでどこからがアウトプットなのかという問題もある。学校行って勉強すること。聞く、書く、覚える。この行為はインプットでありながらもアウトプットであったりもする。アウトプットすることでより強固なインプットを固める。
工場仕事してる人たち。彼らはルーチンワークを繰り返しながらもおそらく別のこと、今日の晩飯は何を喰おうか、昨日の北朝鮮問題はどーだった、とか考えてるわけで、これは一見アウトプットに見えるインプット作業の一貫でもありうる。
じゃあブログやネットでの発言はどうなのかを考えてみるとやはりこれはアウトプット(消費)であってインプット(クリエイティブ)であるともいえる。ただ、問題はこの行為は明らかに消費の比率がでかい。クリエイティブの面におけるレスポンスがほとんど期待できない。
その状態というのは、たとえば僕みたいに漫画描きを目指してるような連中は手軽に自分の本音を晒して納得の行くテキストを消費し続けていき手軽に作家性(と呼ぶにはおこがましいですが)を消費し続けてる可能性があるわけだ。無駄に。
僕が、テキストを組めが組むほどに本来物語りを作成したいという欲望が別のものに消化されていっていることになる。それは非常に困るのでできるだけ必要最小限のことしかネットに文章を垂れ流すのはやめにしておきたいところだなあ。思考パターンを記録していく意味で意外は使わないほうがいいのかもしれない。
別の話
ストーリーを製作する上で、「自分がストーリーを製作する」のか「ストーリーを製作するのが自分」なのかという考え方がある。前者の志向性はまず自分という作品ありきなのであってストーリーを製作することで自分自身を高めたいという感覚が重要になってくる。後者の指向性は自分はストーリーというコアを作り上げるために必要なオプションに過ぎないのだという考え方。これは両方ある意味で真理なのだろうけれど、自分はなるだけ後者でありたいと考える。そっちのほうが楽だからだ。
自分という主体は時間性に縛られていて変化し続ける物体なのでいずれ衰え朽ち果ててしまう。そんな中で人が何とか永遠を手に入れたいと渇望して出来上がった文明が自分の外部に記憶を記す行為なのだと思う。記録を続けることで今の自分ではない過去の自分にまた出会えるわけで、過去の自分というものは、あるいは現在の自分よりも素晴らしい自分である場合もありえるわけだ。その素晴らしい自分の断片は歳をとってからも色あせることはない。だから自分を客体として主体としての永遠なる物語に断片を投影させていくほうがきっと死ぬまで楽に違いないと勝手に思ってる。これはある意味で自分をちっとも大事にしない行為でもあるのだけれど。
昔の友人と話すとなんか泣けてくるのは僕がオッサン化の一歩を踏み始めてるということなんだろうか。
過去というものは不確定でありながらもどうして生きているのかという意味性を持たせるために重要な要素で、昔の友達てのは自分が確かにそこにいて、その過程を経て現在の自分に至ったのだという存在証明書のようなもんで、もしも、その友達が存在しなかったりするということは同時に自分の記憶の証明となるものが存在しないということになる。
これからオッサンになっておじいさんになるにつれて昔の友達とは疎遠になり、いつかどこかでその友達は死んでしまったりするかもしれない。そうしたとき僕にとっての過去の証明書は抹消されることとなり自分と彼とがすごした「思い出」という現在の自分を象る大切なものも同時に消滅してしまうのかもしれない。僕が死んでしまった思い出をどんなに必死に覚えていて記憶につなぎとめようともそれが本当に「存在」したかどうかを確かめるすべはもうなくなってしまっているのだから。
歳をとっておじいさんになって一番怖いことというのは死んでしまうことそのものじゃなくて、そうやって生きてきた証が少しずつ消えていっていつしか全てなくなってしまってしまうことなんじゃないかな。
大切な記憶がなくなってもう何も思い出せなくなって信じていたものも消えてなくなって、そうやって死んでいくのか。
だからせめて形にして残しておこうと思うんだろうね人間てのは。そうやって歴史は築かれてきたし、そうやって自分が生きた証を記して。
過去というものは不確定でありながらもどうして生きているのかという意味性を持たせるために重要な要素で、昔の友達てのは自分が確かにそこにいて、その過程を経て現在の自分に至ったのだという存在証明書のようなもんで、もしも、その友達が存在しなかったりするということは同時に自分の記憶の証明となるものが存在しないということになる。
これからオッサンになっておじいさんになるにつれて昔の友達とは疎遠になり、いつかどこかでその友達は死んでしまったりするかもしれない。そうしたとき僕にとっての過去の証明書は抹消されることとなり自分と彼とがすごした「思い出」という現在の自分を象る大切なものも同時に消滅してしまうのかもしれない。僕が死んでしまった思い出をどんなに必死に覚えていて記憶につなぎとめようともそれが本当に「存在」したかどうかを確かめるすべはもうなくなってしまっているのだから。
歳をとっておじいさんになって一番怖いことというのは死んでしまうことそのものじゃなくて、そうやって生きてきた証が少しずつ消えていっていつしか全てなくなってしまってしまうことなんじゃないかな。
大切な記憶がなくなってもう何も思い出せなくなって信じていたものも消えてなくなって、そうやって死んでいくのか。
だからせめて形にして残しておこうと思うんだろうね人間てのは。そうやって歴史は築かれてきたし、そうやって自分が生きた証を記して。