認知的不協和を感じた時、自身の反省を促せる人間でありたいなあとは思う。
相手を批判し攻撃するのは簡単なんだけど、そこで思考がとまるのはよくないし、進展も何もあったものではない。どこに妥協点を見出すのか、てのは大事だ。それができないから経済も政治も何もかもが破綻していく。信用なんぞという空疎でドグマティックなヒューマニズムで社会は動きまわる。結局一番信用できるのは人じゃなくてデータなのにだ。人間はとっくの昔にテクノロジーに逆らえない生き物になってしまった。神の死、人間の終わり、とはつまりこのことをいうのかもしれない。半ばシンギュラリティが実現してしまっている状況にもかかわらず友敵理論やらのストーリー仕立てのパラダイムしか巻き起こらないから若者は社会なんぞ糞食らえだとセカイ系(もはや死語だが)の殻に引きこもるのだろう。自我という鬱陶しい入れ物から解き放たれたいものだ。

フォトショップCS5やばすぎね?
画像編集ソフトもここまで進化したかあ。
こりゃ絵が描けなくてもイラストレーターやアニメーター、CGデザイナーなれて、一人で映画監督こなせるようになる日も近そうだなあ。

時代は停滞してるとか、昔はよかったとか鬱陶しい話をよく聞くけれどそれはこの辺の技術革新に脳みそがおっついてないだけなんじゃねえの?て気がしてきたわ。
今も十分熱いなあ。

朝生のあずまんも熱かったしなあ。知の源泉は目をそらさず生きていけるならばそこらじゅうに転がっていますね。
朝生よかったね。
また出てほしいなあ。

つか東さんはトークの才能あるからもっと
積極的にテレビに出て弁舌を発揮すべきだと思う。
いろんな方面から攻めるともっと求心力増すんじゃないかなあ。

むn

2009年10月19日 エッセイ
よくよく考えてみればここは公共の場なのであんまり四方八方に毒を垂れ流すような言説はよろしくないなと反省。
日記ではなくてブログなのだよなあここ。

多分、特定の観覧している人がいるわけでもないんだろうけど、かといっても生の感情そのままに書き綴っていいものじゃあない。
通りすがりの人が読んで不愉快になるようなことは極力書かんようにせんとな。

書いちゃったものはしょうがないからそのまま残すけれど。
一応自分の思考の変遷は記録しておきたいので。

糞まみれ

2009年10月13日 エッセイ
こんな現実糞だと思い、その現実を遮断する。
こんな現実ではないどこかへ行くのだと上京する。
こんな共同体糞だと違う共同体を模索する。
こんな人間関係嫌だからと、いつでも切れる人間関係を構築する。
こんな3次元なぞ糞だと、2次元への解脱を図る。
こんなインターネッツ嫌だと違うコミュニティを探す。

どの手段を講じても、どこへいっても糞みたいな現実は無限に広がっていて、どこに行っても何をやっても無駄で糞なのだと思い知らされる。
だから自分にできそうな最善なことは、その場に踏みとどまって、そんな糞みたいな現実を打破するのだという決意を持って行動を起こすことだけなのであって、
何もできず無残に敗れたときは、いろんなことに目をつむって俗人として細々と暮らすか、壮絶に前のめりに逝くかのどっちかだけなのかもしれない。

あー逃げだしたい。しかし、どこもかしこも糞まみれなだけにそれも難しかろう。幸福になりたいわけでもないので。
俺は、もっと傲慢であっていい。

そもそもオタクに生まれてきた以上、はなっから他人への興味なんぞほとんどないに決まっているのだ。他人に興味がないということは、逆説的にそれだけ自分大好き人間であるのだということでもあるし、自分大好き人間にとってのコミュニケーションスキルとは自己防衛本能の一旦でしかない。心からの親切心や友情で動くことなどない。

であるなら、聞き上手なキャラクターを演じストレスをためる行為はコストパフォーマンス(コミュニケーションコストの)的に見合わないと判断した。ここ10年ほどの俺は性根が傲慢で自己中心的な思考回路にもかかわらず人と足並みをそろえる努力をしてきたように思える。それも自己防衛という名の打算であり欺瞞なのだ。

だが三つ子の魂は百までなのだ。
はっきりいおう。俺は他人に興味がない。
興味があるふりは出来るが、やっぱりない。
あるかもしれないが、絶対的に薄い。

そんな奴が社会に適合して他人のため、彼女のため、嫁のため、子供のため、父のため母のため、などに頑張れるはずがないのだ。
人の話に興味をもってうんうんうなずくときは漫画のネタになりそうだ、この話もらったぜーと思っているからだし、なるだけ腰を低く上手く立ち回っているつもりなのは単に波風を立てないためだ。

だがこれは俺の男美学に反する。要するに、自分に嘘をついた生き方は非常に好かん。だって自分大好きだからね。
だからこれからは本質的自己チュー人間の自分に素直になれるような人との接し方を考えようと思う。
つまり、もっと傲慢な人間を目指すということ。

まず手始めに、日常生活において「すいません、ごめんなさい」の使用を一切禁ずる!

うっひゃー小物すぎるぅor2
人間は物語に何を求めるのか。
それは非日常性だ。
とりわけ男性にとってのそれは死の臭いの感じられる闘争の場である。
この日本の国に死のロマンは存在しない。
だから道化として武士を演ずるままに日常の世界に死を演出した三島はすごいのだ、という話。
を↓の俺は語っているのだろう。
三島由紀夫は男にとっての美の本懐とは死への意志なのだといっている。
ドラマチックな死が消失したこの世界にとって男性的であることは意味をなさない。
ユニセックスな風貌が好まれる理由はこの辺りにあるのだろう。

押さえ込まれた男性性の発露はオタク、リア充、モテ、非モテ、という別のヒエラルキーへと変貌を遂げた。
英雄的な死、が存在しない社会でわれわれ男どもは一体何をなすべきなのだろうか。
チンコ切り捨てるか、発狂するか、耳と目を塞ぎ、口をつぐんで細々と暮らすのか。

三島はたとえ道化であろうと英雄的な死を望んだ。そしてそれを貫いた。彼の割腹自殺とは三島文学そのものの正当な完結を意味する。美というものに対してこれほど真摯に向かい合った男は後にも先にも彼だけだろう。

道化でなければ、この社会は生きられない。
道化としてのイデオロギーならばまだ機能する。
だからロマンを追求するんだ、俺が男である以上この選択は免れない。
友人が、肯定か否定かという問題では物事を考えなくなったといっていた。
物事は一口に良いのか、悪いのかということを捕らえることが出来ないものだから、この考え方はわからなくもない。
というか、本音としては俺もこうありたいと願う。

だが世の中の実態は
個々人の付き合いは相対主義化しているのに
組織の動きは絶対主義的だ。

組織に帰属する限り、白か黒かはっきりと答えを出さないと、あっという間に現実に押し切られてしまう。
競争社会というもののそういった側面を彼はどう思うのだろうか。

「そんな状況は肯定的でも否定的でもあらず、ただひたすらに切ない、という想いだけが蓄積していくものだ。それ自体を否定的状況だとは思いたくない。」
電話で話す彼の声はそういっているようにも聞こえた。
以前、ブログで日記を書くことは消費活動なので自分の作家性を磨耗させていく行為に等しい、ということを書いていた人がいたのだ、俺も気をつけよう、てなことを書いてた記憶があるんだが、すまんありゃ嘘だ、て気がしてきた。むしろ漫画を描くという行為からすればネタだし段階として必要な地盤作りのようなものではないかなという解釈に落ち着きつつある。スポーツでいうところのウォームアップ的、ロードワーク的なものではなかろうか。だからかけるものならもっと積極的に文章を練って、ぽんぽんぽんぽん思ったことは吐き出しておいたほうがいいのかもしれない。大事なシーンとかで、なんか適切な言葉を選択したいんだけどなんて書いたらよかったっけなー、いい単語がひねりだせねえ・・・てときに自身のブログ読み返してみたら意外とそれっぽいこと書いてたりとかしたりする。そりゃそうだ。俺自身がひねり出した言葉なのだからフィットするに決まっている。
男は強くなければ生きていけない。
優しくなければ生きていく資格がない。
つくづくうなずける一言だなあ。

優しいだけじゃ役に立たない。
強いだけじゃ意味がない。
でもなあ、両方獲得すんのって相当むずいぜ。
理解してほしいわけじゃない
認めてほしいだけだ
というけど
理解もしていないのに認めることなど出来るわけもなく、
そうなると人と人の間には狭く、深い
諦めという溝が生まれるだけなのかもしれない
でもそれでいいんじゃね
自由気ままに勝手にやっていいよ、自己責任だけどね、

ていう割に税金払え、国に恩返ししろ、組織にコミットしろ、

てのはいわゆるダブルバインド、て奴になんねーのかな、て思う。


個人には冷たいのに、組織のネジにはなれ、てどういう理屈なんだろう。
だったら最初っから、「言うことを聞けばある程度面倒は見てやるから、ちゃんと属せよ」ていったほうがまだ人間は動く気がする。
まあ人間は一度手に入れた自由という抑制から脱却できないらしいんだけども。中途半端だよなあ。

テーマかあ

2008年12月19日 エッセイ
どんだけ糞みたいな人生になろうと、げらげら笑い飛ばしていくのがサイコーだと思ってる。

これは一貫して、描き続けたい俺の中のテーマなのかもしれない。
よくよく考えると全てが無意味だと思えるのは感動を忘れているからだ。

感動を覚えるのは神的な何かが心を揺さぶる瞬間が確かにあるからだ。

そういった意味で信仰というものは有意味であるために大事なものなのだろう。

問題はそれが独立独歩で足りえるのかという話。

隣の人が別の神を信仰していたらどうしようもなく悔しくて寂しくなるのも人間で。
俺は政治についてあまり詳しくないのでこの辺は深く話せないんだが給付金に対してブーブー文句ばっかいってんのに「いやまあそりゃ受け取りますよ」て立場な人たちになんだかなあてのがある。

政治的な意思表明を果たすなら見返りがあろうとなかろうと、「給付金なんていらないよ。受け取らないよ」ていえばよくね?
それがその人にとっての公的な正義ならば迷わずそうすべきじゃね?
配布の仕方も地方に○投げの無責任政権、とか言う前に自分たちでどうやったら政策が円滑に進むのか?(やってる人はもちろんいるのは知ってるけど、主に報道関係の人たちとかさ・・・)景気が回復するのか?ていう努力はなんかしようとしたのだろうか。
「自分のことしか考えられない現代の若者」てフレーズがそのまま自分たちに跳ね返ってきてるよなあ。
なんだろうなこの齟齬は。

大きな物語りを信じれなくなった(日本式)→シニシズムに陥る
大きな物語りの復活を希求する(アメリカ式)→旧時代的なスノビズムに逆行
という構図が見え隠れしてて結局人間の思考レベルてこれ以上先には進めなさそうな匂いがプンプン漂ってきてるよなあ。
俺とかは、もうはなっから政治に興味ない愚民だから口あけてポカーンてまつしかないんだけどさ。
若い人がちょくちょく汚い床にべたっと座り込んでしゃべってるのを見かけては、はしたないなあ、と思うのだけど、それを注意するにせよ、説得力のある言葉を持たない自分がいることに気づく。

床に座ってはいけない理由が分からない。
万引きをしていけない理由が分からない。
エンコーしてはいけない理由も分からない。
人を殺してはいけない理由も、実は分からない。

全て社会性を孕む価値観であって、それが守られないと、なんかむかつくのでやめましょうね、以上の意味はどこにもない。
昔はそういった自明の価値観が共有される社会だったんだね。もうなくなっちゃったけど。

全く持ってはしたないよなあ、床に座り込むのは。なんかもう一方的にむかついてくる。オマエラに礼儀や誇りというものはないのかと。
ところが「床に座ってもおk」という価値観のコミュニティに属してる人たちからすれば「座ってはいけない」といわれると、何いってんのこいつ?というディスコミュニケーション以外のなにものでもないのだろう。

そういやこの前お酒の席で30台のお姉さんから酒の飲み方の礼儀がなってないと、訥々と数時間ほどお説教を喰らっちゃったなあ。そんときは「死ねよ糞ババァ」とか思ってたけどあのお姉さんからすればあまりにも自明のことを俺が知らなくて、それが許せなかったというのがあるんだろうなと思う。だって俺そんな常識しらんもん!人それぞれやん。つか誰にも迷惑かけてませんやん。一人でちびちび呑んでただけですやん。

じゃあもう床に座ってる人注意すんのはやめるかあ、人それぞれだし。後は一人一人自己完結ヨロシクみたいな。
何よもう!本当はしかって欲しかった!!
漫画描こう・・・orz
なので、動物化という現象は超越性を放棄するところに立脚している状況なのも分かった。
スタンドアローンというのは人間には無理なんじゃね?と思っていた次期が俺にもありました。
でも実はそうでもないらしく、結構人間は頑丈に出来ていてそのときそのときで本当に大事なことを代替しながらやっていけるらしいんだな。

エロゲーとかに例えると観鈴ちん(超越性)が死んで可哀想と泣き叫ぶオタクってのも実はもうなくなってて、葬式の席でげらげら笑って彼女を送り出すのが一番健康的にも人間的にもいい状態なんじゃねーの?という話なのかもしれない。
ようは隣人を愛せ、てのはそういうことなのだろう。

動物化しても案外生きられるものなのかもしれない。家族とか愛みたいな幻想に浸るのはやめて、ちょっとずつ小さな自己実現をかなえればいいじゃないという宇野さんの話も少し分かる。
そういや昔「街」ってゲームがやたら好きで何度もプレイしてたのを覚えているけどどうしてそんなに好きなのかが分からなかった理由もこの辺にあるかもなあ。
↓に書いた二つの文章が古いな、とすでに感じられてしまうのは自明のこと過ぎて今更ながらというのと、もうひとつは、だからこそやっぱり「リテラシー」の無意味さも実感させられるからなんだろう。

結局、知識人たちがあーだこーだとパラダイムの分析を進めていく過程なんて競馬の予想を当てるのとなんも代わりゃしないんだ。
そんときになってみなきゃなんも分からん。分析対象がたくさんある分さらに予想は難しくなる。
倍率が高いか低いかだけなんだ。現状認知の先がどうかなんて誰にもわかんないから究極的には、哲学することに有意義なことなんてなーんもない。

やってると楽しいから、以上の意味なんてやっぱりないんだ。
大塚さんがそういう論壇プロレスみたいなことをやるのも東が「全体性を回復する」だののたまってんのもやっぱり「あえて」以上の意味なんてないのかもなあ。批評家、思想家や哲学者である以前に、だって、こんまんまじゃつまんねえんだもん、てのがガチの本音なんだろう。

こっちのは上手くフィットするなあ。
リア充⇔非モテ
なんていうネットスラングがあったりするわけなんだけどどっちの主張にもどうにもうんざりしちゃうのは結局のところ人は絶対に分かり合えないという前提があるからなんだろうなあと思う。
リア充思想も非モテ思想も極端に孤独であることを恐れているという点で言うと病的なんだよなあ。

分かってもらおうとあがくことは、もうやめたほうがいいんだろう。
それは萌えキャラ相手にも多分適応できる言葉で、超越性のオルタナティブのようなものなんてないんだよきっと。
次元と時空を飛び越える能力なんてあいつら有してないものね。
そんなもの手に入れられる人間なんて存在しないし、手に入れた瞬間、その人間は生きている意味がないので自殺するしかないしね。
だからといってコミュニケーションを諦めたところに唯一絶対の超越的な自我が確立されるのだ、みたいな超人思想みたいなのを提唱するつもりもありませんが。
俺一人でギャルゲーのヒロインの思い出に浸ってそれにすがってもいずれ寂しくなって孤独死するのは確定的に明らか。

ギャルゲー内部であれ、オタクがそこに他者を求めてしまうのは結局は、寂しいからだ。だが彼らは、彼女らは結局は人間ではなくただの平面記号でしかない。
宇野さんが言うように本当に寂しいと思わないなら障子でもペンキでもやってりゃいいんだ。それこそ死ぬまで。
だからといって現実としての人間とのふれあいの中に孤独感を埋める手段だってどんどん希薄になっている。全体性、共通の言葉。そんなものはいずれ完全に消失してしまうだろう。
そして何よりも忘れてはいけない前提は、結局のところ人は各々の想像界を生きているだけで現実界そのものにアクセスすることは出来やしないということ。その程度の認識力だ。
コミュニケーション不全についての物語はガンダムやエヴァ、押井守にいやというほど見せられた。

もっとなんかいろいろと、他人にもキャラクターにも期待を寄せるのはやめにしようぜ、てことなのかもしれん。そういうことがいいたいのか俺は。
そういう漫画描くのか・・・?うへえw売れねえwww
気楽に、多様性を、認める形で、諦めていくほうがいいと思うんだわ。でも情報はどんどん加速していくし、人間のスペックがそれに追いつかなくなっている。
だから全体性が消失するのか・・・
動物化する意味はそこにこそあるのかもね。それをアイロニーと捕らえないように生きることが前提になってくる。
だからニコニコ動画のようなツールは今、面白いのかもしれない。

うーん話が飛びすぎだ。
上手くまとめきれてないし思考のセンスが4,5年前のところで止まってる感じがする。
まるで動ポ2のようで冷静に読み返すと失笑モノかもしれん。
ネームに戻らんとな。

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