一個一個の気持ちを独立して表すと
2005年6月24日 エッセイ この世にもっとも不必要なものは、常識だと思う。常識を盾にした常識人はみんな自決すべきだろう。
タイムパラドクスものの物語で時間の非実在性は証明できるのか。
なぜ誰も彼も、僕とコミュニケートすると抑圧的で高圧的な善人となってしまうのかが分からない。
どうあっても幸せになれないと分かったので、一生地獄と付き合って生きていくことにした。イベンダーホリフィールドのように勇敢に地獄と戦い、討ち死にしてやる。
クロノトリガーに出てくるような時の最果てに逝きたい。
何が何でも不幸せでかまわない。
仙人になりたい。
飛ぶ矢のパラドクス。
過去は記憶の中に未来は期待の元に現在はただそれとしてある、実在。
タイムパラドクスものの物語で時間の非実在性は証明できるのか。
なぜ誰も彼も、僕とコミュニケートすると抑圧的で高圧的な善人となってしまうのかが分からない。
どうあっても幸せになれないと分かったので、一生地獄と付き合って生きていくことにした。イベンダーホリフィールドのように勇敢に地獄と戦い、討ち死にしてやる。
クロノトリガーに出てくるような時の最果てに逝きたい。
何が何でも不幸せでかまわない。
仙人になりたい。
飛ぶ矢のパラドクス。
過去は記憶の中に未来は期待の元に現在はただそれとしてある、実在。
俺ら生きてる意味あるの?→あるよ、神が創ったから神だけが知ってるよ→神にしか分からないことは俺らに理解できるわけないよ→意味なんて棚上げでかまわないよ→宗教に自己存在を委託→科学文明の発達→俺ら神じゃね?→神よりすごくね?→神は死んだ→というか神なんて最初からいない→存在を担保するものがない→怖い、誰か助けてよ→価値は我々で作るものだ→俺たちでユートピアを形成しようぜ→共産主義革命→法律の規制があまりにゆるくてエテロトピア誕生→法律という神の国誕生→神はいるのに俺らは幸せになれないのはどうしてだろう?→法律や道徳に縛られ本来的な自己を見失ってるから→そもそも本来的な自己存在の担保なんてない→怖いよ、誰か助けてよ!!
てことなんだろう。郵便的不安ハアハア
てことなんだろう。郵便的不安ハアハア
萌えキャラ精製のための原理(俺のな
2005年6月11日 エッセイ一週間くらい刻が止まってた気がする。暑いのがいかんのよな。食事も偏りがチだ。夜は枕が低いせいか熟睡できぬ。枕違うくらいでストレス溜めるとはつくづく坊ちゃんだねえと思う。いかに自分の生命力が足らないかを思い知らされる。クロスチャンネルに出てくる冬子ちゃん並の生命力の低さだな。冬子みたいな疾患や萌え属性は抱えてないけどな。そういえば萌えキャラといわれて最近、気づいたことは男性的な表象(シンボル)を女性的に記号化してしまえば萌えキャラは精製できるんだなあという点。例えばマイクタイソンなんかも萌えキャラとして再構築できちゃう。タイソンの生い立ちを萌えキャラ的に追憶していくとこうなる。
無口無表情の苛められっ子の「娘」がある日、反転逆ギレ属性で秘められた超常的特殊能力に目覚め、特殊機関に危険人物として隔離されてしまう。その中で彼女はある天才科学者(ダマト)の目に止まり、養子として引き取られることとなり、徹底的な殺人スキルを叩き込まれる。超精密破壊兵器として生まれ変わることとなるわけだ。ツンデレジェラード(タイソンのことだ)たんは、お父様(ダマトのことだ)に誉めてもらいたい一心に次々とエネミーを破壊し、解体して逝くけどラスボス手前でお父様は病死。精神的よりどころをなくし情緒不安定度に磨きのかかった(鍵ゲーキャラのように)彼女はあっちこっちに迷惑かけまくって、どんどん疎外されて一人ぼっちになっちゃう。俺だけは守ってやるけどな!(テラキモス)。
で、最後は新兵器バスターダグラスたんに撲殺されて再び機関に収容される運びとなるわけですよ。
すでにここまでに含まれるオタクタームだけで、無表情、情緒不安定、反転属性つきのツンデレキャラという萌え記号がついてるわけですよ。超精密破壊兵器が時々頬を赤らめさせてればそれだけで愛でられちゃうわけですよ。お父様が死ぬというスイッチによって精密機能が崩れて「俺だけ」に弱みを見せる弱弱しいキャラクターになるわけですよ。守ってあげなきゃオーラが噴出するわけですよ。ほんと、これだけで一本エロゲー作れるよ。作れないけど。
この勢いで辰吉も清原も桜庭も萌えキャラに変換できそうだな甥。小泉潤一郎でもいいんじゃねーか。要するに、萌えキャラってのは女性の更なる女性化なんじゃなくて、男性的で過酷なシチュエーションを任される可哀相な彼女(自己)という側面を孕んでいるんじゃまいかと思うわけですよ。戦闘美少女モノとかいうのもそういう原理で、彼女みたいな存在なら僕のかわいそうな、思考と境遇も分かってもらえるかも知れないという郵便的な欲求があるのかもしれない。オタク男は肉体は女の男と結婚しちゃえたらベストなのかもしれないなー。オタク男は現実の女性に対して、所詮過酷なオレの人生なんて判ってもらえるわけがないという断絶を感じちゃってるのかもしれない。とりあえず僕の主観はそう感じている気がする。
無口無表情の苛められっ子の「娘」がある日、反転逆ギレ属性で秘められた超常的特殊能力に目覚め、特殊機関に危険人物として隔離されてしまう。その中で彼女はある天才科学者(ダマト)の目に止まり、養子として引き取られることとなり、徹底的な殺人スキルを叩き込まれる。超精密破壊兵器として生まれ変わることとなるわけだ。ツンデレジェラード(タイソンのことだ)たんは、お父様(ダマトのことだ)に誉めてもらいたい一心に次々とエネミーを破壊し、解体して逝くけどラスボス手前でお父様は病死。精神的よりどころをなくし情緒不安定度に磨きのかかった(鍵ゲーキャラのように)彼女はあっちこっちに迷惑かけまくって、どんどん疎外されて一人ぼっちになっちゃう。俺だけは守ってやるけどな!(テラキモス)。
で、最後は新兵器バスターダグラスたんに撲殺されて再び機関に収容される運びとなるわけですよ。
すでにここまでに含まれるオタクタームだけで、無表情、情緒不安定、反転属性つきのツンデレキャラという萌え記号がついてるわけですよ。超精密破壊兵器が時々頬を赤らめさせてればそれだけで愛でられちゃうわけですよ。お父様が死ぬというスイッチによって精密機能が崩れて「俺だけ」に弱みを見せる弱弱しいキャラクターになるわけですよ。守ってあげなきゃオーラが噴出するわけですよ。ほんと、これだけで一本エロゲー作れるよ。作れないけど。
この勢いで辰吉も清原も桜庭も萌えキャラに変換できそうだな甥。小泉潤一郎でもいいんじゃねーか。要するに、萌えキャラってのは女性の更なる女性化なんじゃなくて、男性的で過酷なシチュエーションを任される可哀相な彼女(自己)という側面を孕んでいるんじゃまいかと思うわけですよ。戦闘美少女モノとかいうのもそういう原理で、彼女みたいな存在なら僕のかわいそうな、思考と境遇も分かってもらえるかも知れないという郵便的な欲求があるのかもしれない。オタク男は肉体は女の男と結婚しちゃえたらベストなのかもしれないなー。オタク男は現実の女性に対して、所詮過酷なオレの人生なんて判ってもらえるわけがないという断絶を感じちゃってるのかもしれない。とりあえず僕の主観はそう感じている気がする。
僕は前提としてヒトに敗北者であって欲しいのかもしれない。なんセ僕が人生の敗者ですからね(笑)いかにして社会のシステムの無意味性を見抜こうかと厨房の頃から躍起になってましたよ。そうして、ようやく出会えた先生達がニーチェ先生とハイデガー先生ですた。でも問題なのは二人ともニヒリズムと向き合って自覚存在(存在のすばらしさ)に至れなんてウンチッチな結論で問題を先送り。放りっぱなしでくたばってしまった人たちなのでその点が嫌かもしんない。悪しき形而上学を否定しながらも結局は絶対者的神秘性から逃れられてないような。どんなに現にあるこの刹那(存在)が奇跡的であろうとも虚無性から逃れることも、向き合うことすら人間には出来やしないんだろう。ニヒリズムと正面から向き合えば最後、発狂するか、ナチだけはガチ!みたいなことになるかのどっちかだ。
現代人は、そのニヒリズムから逃げ回ることを選択し忘却した状態で自己疎外を当たり前の状態と認識することで精神を保つことに成功(?)しているらしい。ニヒリズムを自覚しながらあえて神の代替品を求めつづける僕たちですよ。これってスノビズムとかいわれてなかったか?萌えキャラに神を求めるも良し、政治批判に命を燃やすも良し、経済、株式事情をしたり顔で語るも良し、宗教に加担して他人に迷惑かけない程度に神を感じるのも良し、でもテロは駄目、テロはかっこ悪い。苛めも駄目。超かっこ悪い。
でも多分、何をやっても思想も思考も相対主義に並列化されていくだけなんだろう。今の僕(私)は本物の自分ではない、と感じる錯覚(自己疎外)に陥っていくだけなのは避けられようもない。そもそも自己疎外も何も、本来的自己そのものが僕たちには存在しない。存在がないんだから当たり前だ。意味の根拠だってどこにもありゃしないのだから。まず前提としてヒトは永遠に「幸せに至れない」、ということからはじめるべきではないのかと思う。幸せには至れないけれども、錯覚としての(疎外されたヒトという場においての)幸せならいくらでも体感していけるのだろう。
幸福の始まりは凋落を示唆してるだけだ。僕らの人生は存在無をもってして完結する。時間性の中の存在なのだからこれは避けようもなく当たり前のことなんだろう。でも考えてみれば非存在すらも実は絶対的ではない気もするけども。だって、現に僕は存在してるしな。パラドクスだけはガチ、てことにしておこうかな。
現代人は、そのニヒリズムから逃げ回ることを選択し忘却した状態で自己疎外を当たり前の状態と認識することで精神を保つことに成功(?)しているらしい。ニヒリズムを自覚しながらあえて神の代替品を求めつづける僕たちですよ。これってスノビズムとかいわれてなかったか?萌えキャラに神を求めるも良し、政治批判に命を燃やすも良し、経済、株式事情をしたり顔で語るも良し、宗教に加担して他人に迷惑かけない程度に神を感じるのも良し、でもテロは駄目、テロはかっこ悪い。苛めも駄目。超かっこ悪い。
でも多分、何をやっても思想も思考も相対主義に並列化されていくだけなんだろう。今の僕(私)は本物の自分ではない、と感じる錯覚(自己疎外)に陥っていくだけなのは避けられようもない。そもそも自己疎外も何も、本来的自己そのものが僕たちには存在しない。存在がないんだから当たり前だ。意味の根拠だってどこにもありゃしないのだから。まず前提としてヒトは永遠に「幸せに至れない」、ということからはじめるべきではないのかと思う。幸せには至れないけれども、錯覚としての(疎外されたヒトという場においての)幸せならいくらでも体感していけるのだろう。
幸福の始まりは凋落を示唆してるだけだ。僕らの人生は存在無をもってして完結する。時間性の中の存在なのだからこれは避けようもなく当たり前のことなんだろう。でも考えてみれば非存在すらも実は絶対的ではない気もするけども。だって、現に僕は存在してるしな。パラドクスだけはガチ、てことにしておこうかな。
あまり良くない思考の展開かもしれないけれど、唯物論であろうと観念論であろうと人は死んじゃったほうがいいんじゃなかろうか。この世は不条理だ、存在は無意味だ、存在は嘔吐だ、とかいうのに結局は無意味を受け止めて歓喜に至れ、とか言う結論になるのは単にアプリオリ(要するに本能だろ)として死にながら生きるプログラムをヒトが獲得しているからに過ぎなくて、どこまでも完璧無比に理性的な生がヒトであったとするなら生まれた瞬間に息を止めて窒息死してしまうのではなかろうか。
神が存在したとして、この世は偽りの世界であるのだから早々に死んでしまわなければならない。神が存在しないとして、この世は無意味であり非存在なわけだから死んでしまわなければならない。存在に絶対性はないけれど死には絶対性があるので真理に至るのなら早々に命を絶つ必要があるのではなかろうか。
ハイデガーとかニーチェとかのいってる不条理からの解脱は東洋思想かぶれ丸出しの現実逃避にしか思えないのだよね。まず前提として僕は死んでいるわけで、生きているわけじゃない。存在に意味がないのなら文字通り生は無であるわけだから生は同時に死んでいるのだろう。死んでいながらも生きているフリをして生きることを推奨するのもある意味ナンセンスだ。人間という「場」においては本能が邪魔して無意味と分かっていても生きつづけなければないアンビバレンツな存在でもあるのだけど。完全なる真理はやっぱり「死」そのものというか非存在しかありえないのではなかろうか。だったら生きてるつもりも、死そのものも実は何も変わらないはずだ。いや、生きながら死んでいるよりも、死そのものの方がより非存在に近いのだろう。永遠の停滞。絶対真理。それが死だろう。もちろんヒトとして僕は死ぬのが死ぬほど怖いけどさ。くそう、この腐れた脳みそめが。まだ喜び足りないのか。
神が存在したとして、この世は偽りの世界であるのだから早々に死んでしまわなければならない。神が存在しないとして、この世は無意味であり非存在なわけだから死んでしまわなければならない。存在に絶対性はないけれど死には絶対性があるので真理に至るのなら早々に命を絶つ必要があるのではなかろうか。
ハイデガーとかニーチェとかのいってる不条理からの解脱は東洋思想かぶれ丸出しの現実逃避にしか思えないのだよね。まず前提として僕は死んでいるわけで、生きているわけじゃない。存在に意味がないのなら文字通り生は無であるわけだから生は同時に死んでいるのだろう。死んでいながらも生きているフリをして生きることを推奨するのもある意味ナンセンスだ。人間という「場」においては本能が邪魔して無意味と分かっていても生きつづけなければないアンビバレンツな存在でもあるのだけど。完全なる真理はやっぱり「死」そのものというか非存在しかありえないのではなかろうか。だったら生きてるつもりも、死そのものも実は何も変わらないはずだ。いや、生きながら死んでいるよりも、死そのものの方がより非存在に近いのだろう。永遠の停滞。絶対真理。それが死だろう。もちろんヒトとして僕は死ぬのが死ぬほど怖いけどさ。くそう、この腐れた脳みそめが。まだ喜び足りないのか。
電波男で感じていた違和感はメタレベルにおける愛の絶対性だった。愛は神の代替品になりえるのかということなんだけど、多分神の代替品にはなりえないのだと思う。そう結論した。
というのはまず絶対性に対する我々のスタンスなわけだけど神は唯一不変の真理でなければいけないからまず時間性が存在しないことになる。神は〜であるという概念が適応できないので、神とは結局のところ「全」でなければならない。善じゃなくて全。でも我々は時間性の中の存在だから神の絶対性に嫉妬して偶像という形に、神を陥れてこれを絶対性とすることで生きてきたわけなんだけど。それはつまり、我々は絶対性を求めながら絶対性の不在を求めているアンビバレンツな存在であることを示してるんだよね。時間性がある限り我々は神に到達しようがないし神はある特定のどこかにいるのでなくて全てにおいて〜である、かつ〜ではない、という状況下にいないと成立し得ない概念だろう。そしてそれを我々は感覚しえない。
で、愛は絶対性足りえるかと考えてみると時間性に包括されてしまうとその瞬間に愛は消滅してしまうことに気づいた。メタレベルの愛を肯定するのならメタレベルに他のことを考える(メタ的には実行する)のは浮気みたいなものだし、この瞬間、僕が彼女を愛していたとして、次の瞬間、僕は別の何かを思考(実行)しているのだろう。何年か前に失楽園とかいうドラマが流行ってたけど愛は時間とともに没落していくものだから最高潮のときに一緒に自殺しちゃおうよ、みたいな感じのドラマだった記憶がある。あの頃はエロいぜ、はあはあ、と興奮してるだけの厨房だったけれど、愛は常に変化して逝って、結局は記憶に忘却される運命なのだろう。今現在、僕が愛を誓ったところで多分いずれ忘れるし、常に愛のことだけを考えて生きていくことが不可能なのだ。愛というよりも絶対性を絶対性であると信じつづけることは不可能だと言い換えたほうがいいかもしれない。
人は一人で生きていることを自覚すると死んでしまう存在なので誰かに寄り添っていかないといけない。でも、僕にとっての世界は独我論的な身の回りの感覚できる範囲内、だけのことであって、それ以外は、〜であるはずだ、と信じるしかない。外界は僕の内部にしか存在しえない。物自体は現象で捉えられない。愛に絶対性を求めるなら愛に至った瞬間に死んでしまうしかない。僕がおじいさんになって死ぬ瞬間にあの人のことを僕は深く愛していたのだ、と完結できれば絶対性にいたって死ねるかなあ?
というのはまず絶対性に対する我々のスタンスなわけだけど神は唯一不変の真理でなければいけないからまず時間性が存在しないことになる。神は〜であるという概念が適応できないので、神とは結局のところ「全」でなければならない。善じゃなくて全。でも我々は時間性の中の存在だから神の絶対性に嫉妬して偶像という形に、神を陥れてこれを絶対性とすることで生きてきたわけなんだけど。それはつまり、我々は絶対性を求めながら絶対性の不在を求めているアンビバレンツな存在であることを示してるんだよね。時間性がある限り我々は神に到達しようがないし神はある特定のどこかにいるのでなくて全てにおいて〜である、かつ〜ではない、という状況下にいないと成立し得ない概念だろう。そしてそれを我々は感覚しえない。
で、愛は絶対性足りえるかと考えてみると時間性に包括されてしまうとその瞬間に愛は消滅してしまうことに気づいた。メタレベルの愛を肯定するのならメタレベルに他のことを考える(メタ的には実行する)のは浮気みたいなものだし、この瞬間、僕が彼女を愛していたとして、次の瞬間、僕は別の何かを思考(実行)しているのだろう。何年か前に失楽園とかいうドラマが流行ってたけど愛は時間とともに没落していくものだから最高潮のときに一緒に自殺しちゃおうよ、みたいな感じのドラマだった記憶がある。あの頃はエロいぜ、はあはあ、と興奮してるだけの厨房だったけれど、愛は常に変化して逝って、結局は記憶に忘却される運命なのだろう。今現在、僕が愛を誓ったところで多分いずれ忘れるし、常に愛のことだけを考えて生きていくことが不可能なのだ。愛というよりも絶対性を絶対性であると信じつづけることは不可能だと言い換えたほうがいいかもしれない。
人は一人で生きていることを自覚すると死んでしまう存在なので誰かに寄り添っていかないといけない。でも、僕にとっての世界は独我論的な身の回りの感覚できる範囲内、だけのことであって、それ以外は、〜であるはずだ、と信じるしかない。外界は僕の内部にしか存在しえない。物自体は現象で捉えられない。愛に絶対性を求めるなら愛に至った瞬間に死んでしまうしかない。僕がおじいさんになって死ぬ瞬間にあの人のことを僕は深く愛していたのだ、と完結できれば絶対性にいたって死ねるかなあ?
透徹、て言葉が結構好きだ。力強いし、響きが綺麗
2004年3月26日 エッセイ時々自分がとんでもなく冷たい人間なんじゃないかと感じる。今日の仕事の終際、祖母が具合が悪いというので、歳を考えるとちょっとしたことでも一大事になりかねないので家まで送っていったのだけどその間、僕にとって一番の優先事項が何だったのかと言うと実は「腹が減った」とかだったりして、祖母への心配と敬いの心は何でもいいので早く晩飯にありつきたい、という気分に押され気味だったりする。
僕は性根が多分「悪人にあこがれる甲斐性なし」だと思うので普段から毒を吐く訓練をしとかないとすぐ優男(駄目男)になってしまうので必死こいて悪ぶったこと書きまくって頑張ってるのだけど、んな機械的散文的なことばっか頭の中で思考してたせいか、これがもともとの本質なのかは微妙なところなのだけど現実での祖母の死やら両親の死、祖父の死、友人の死を目の前にしたとき悲壮にくれてやる自信が正直なところ、ない。
母方の祖父が死んだときも悲しまなかったし(ちょっとは悲しかったけど)、例えば明日、自殺願望の気配ちょい有りのとても仲の良い友人が首くくって逝きました、とか言う話を聞いても僕は機械的に頭の中を整理してしまうのではないかという気配がある、ような不安。
けれども最近思うのは、僕の人生におけるテーマはもともと「現象」であったのではないかと言うことで。世界から自分自身に至るまでの一括りをすべて「現象」として捕らえたい欲求があるわけで。僕はあくまで僕という現象でしかなくあくまで世界(セカイ)とやらを構成しているひとつのパーツに過ぎないのだと思いたいし、自我とか信念とか、そういう観念的な何かにすがりたくない。
自我の拡大がそのまま共同体の形成へと連なるから(だって故郷に帰結する、とか奮起してるナショナリスト気取りの人間だって結局自分自身が幸せになりたいだけだし)結果として人間全体は幸福になれないし、もともとありえもしない幸福なんて概念にすがらなくてはいけなくなる。救済も混沌も人が勝手に二元論化してバランスを図ってた便宜的な言葉でしかなかったはずなのにいつのまにかそこに帰属意識を感じてしまってる人たちが近代の傾向だったと思える、とか考えるとやっぱり僕は人間を「現象」以上のモノとして捕らえたくないと考えるようになった。それくらいに皆が情念を抑えてくれないと、本当に「実力」があるはずの人が可哀相だし、頑張った(フリ)をしてる人が認められたり、ヘンな人情話とかへりくだりが人間関係に浮かび上がってくるのは限りなく残酷で醜悪だと思えるわけで。(矛盾してるなあ
・・・
あー、いつのまにか話が遠くに逝っちゃったな。つまりこういう機械的かつ臨機応変な人間力を身につけたいと思ってるうちにいつのまにか人情味の薄い頭も薄い人間になっちまったのかなあ、と。でも最近の人って僕みたいな人増えたと思うのね。
僕は性根が多分「悪人にあこがれる甲斐性なし」だと思うので普段から毒を吐く訓練をしとかないとすぐ優男(駄目男)になってしまうので必死こいて悪ぶったこと書きまくって頑張ってるのだけど、んな機械的散文的なことばっか頭の中で思考してたせいか、これがもともとの本質なのかは微妙なところなのだけど現実での祖母の死やら両親の死、祖父の死、友人の死を目の前にしたとき悲壮にくれてやる自信が正直なところ、ない。
母方の祖父が死んだときも悲しまなかったし(ちょっとは悲しかったけど)、例えば明日、自殺願望の気配ちょい有りのとても仲の良い友人が首くくって逝きました、とか言う話を聞いても僕は機械的に頭の中を整理してしまうのではないかという気配がある、ような不安。
けれども最近思うのは、僕の人生におけるテーマはもともと「現象」であったのではないかと言うことで。世界から自分自身に至るまでの一括りをすべて「現象」として捕らえたい欲求があるわけで。僕はあくまで僕という現象でしかなくあくまで世界(セカイ)とやらを構成しているひとつのパーツに過ぎないのだと思いたいし、自我とか信念とか、そういう観念的な何かにすがりたくない。
自我の拡大がそのまま共同体の形成へと連なるから(だって故郷に帰結する、とか奮起してるナショナリスト気取りの人間だって結局自分自身が幸せになりたいだけだし)結果として人間全体は幸福になれないし、もともとありえもしない幸福なんて概念にすがらなくてはいけなくなる。救済も混沌も人が勝手に二元論化してバランスを図ってた便宜的な言葉でしかなかったはずなのにいつのまにかそこに帰属意識を感じてしまってる人たちが近代の傾向だったと思える、とか考えるとやっぱり僕は人間を「現象」以上のモノとして捕らえたくないと考えるようになった。それくらいに皆が情念を抑えてくれないと、本当に「実力」があるはずの人が可哀相だし、頑張った(フリ)をしてる人が認められたり、ヘンな人情話とかへりくだりが人間関係に浮かび上がってくるのは限りなく残酷で醜悪だと思えるわけで。(矛盾してるなあ
・・・
あー、いつのまにか話が遠くに逝っちゃったな。つまりこういう機械的かつ臨機応変な人間力を身につけたいと思ってるうちにいつのまにか人情味の薄い頭も薄い人間になっちまったのかなあ、と。でも最近の人って僕みたいな人増えたと思うのね。
愛について考えてみる(童貞)
2004年3月11日 エッセイ僕は佐賀で友人のD君は山形に住んでいる。
もともと彼も佐賀にいたのだけどもD君は少しばかり荒唐無稽なところがあり山形に飛んで逝ってしまった。ちょっと言い回しがヘンだ。彼なりの決意を固めての旅立ちだったのだろうが、それでもこの前電話したときは弱っていた。僕も弱ってたので励ましてもらうつもりが励ますハメになった。まあ人間は便利に出来てるので自分より弱ってる相手がいるのを確認すると勝手な優越感で自己回復出来るものなのでそれでOKだったのだろう。
僕は男の子だし彼も男の子だから極端な話、酷い言い方をすれば彼が何時くたばったとしても、それは僕には関係のないことだ。あくまで僕は自己欲求を満たすために彼を利用するし、彼も同じであろう。これはおそらく僕たちの友情の形だ。そういう関係が好きだし、そういう友情が本当の友情だと思ってる。男が男のために命をかけるなんて男じゃないと思うからだ。男はあくまで孤高であるべきであり、友情がために覚悟を決めるべきではない。同姓はあくまで目的を争う競争者であるか、利用しやすい協力者であるかだけの問題でしかない。
ところで
突拍子もない勝手な妄想なのだけど、D君が例えば学校ではアイドル的存在でミナからもてはやされ、個人的にも萌え萌え(死)な女の子だったりして、まだ僕に貫通を許してなくて、しかしながらエロイボディを供えた女の子だったりしたら僕はどーしたのだろうか。それだけ弱ってるのなら、ともっと必死に励ましたのではないか。ていうか僕は彼女を愛してるかもしてない、とばかりに山形までぶっ飛んでたかもしれない。だって相手は女の子だ。寂しくて死にそうになってるのなら守ってあげないといけない。でもこれって愛なのか?モロに下半身で動いてる気がする。D君が女の子だったらもっと必死に励まして、D君が男だから自分でなんとかしろと叱責するのが僕だ。愛、てなんだ?愛とは下半身?
そもそもえらい人たちが考えた語源としてはダイレクトにエッチしたいです、と述べるのが恥ずかしくて恋に変換されたのかもしれない。恋とか友情とか親が子を観る保護欲とかモノに対する異様な執着心の総称として「愛」に変換されるのかな、とも思う。ストーカー的なことや憎悪もある種の「愛」の形なのかもな。だからこそ愛憎は表裏一体と呼ばれてるのだろう。
でも例えば、男が漢に惚れるとか、よくある男気の世界観として「俺はアンタに惚れたぜ」を「俺はあんたを愛したぜ」なんて変換したりするととホモセクシャルな世界観にどっぷりつかってしまう。これは矛盾だろう。この場においての「愛」は性欲的な意味合いしか持ち得ないわけで。
ボーイズラブとかアレもよく分からんのだけども、最終的に愛を高尚なところにアウフヘーベンしてのボーイズラブなのか、いや、あくまでこの男の子はあの男の子のアナルをファックしたいだけなのか、その辺が全く分からないので混乱する。女性作家のよくやるボーイズラブ、て結局なんなん?みたいな。
日本語は難しい。
もともと彼も佐賀にいたのだけどもD君は少しばかり荒唐無稽なところがあり山形に飛んで逝ってしまった。ちょっと言い回しがヘンだ。彼なりの決意を固めての旅立ちだったのだろうが、それでもこの前電話したときは弱っていた。僕も弱ってたので励ましてもらうつもりが励ますハメになった。まあ人間は便利に出来てるので自分より弱ってる相手がいるのを確認すると勝手な優越感で自己回復出来るものなのでそれでOKだったのだろう。
僕は男の子だし彼も男の子だから極端な話、酷い言い方をすれば彼が何時くたばったとしても、それは僕には関係のないことだ。あくまで僕は自己欲求を満たすために彼を利用するし、彼も同じであろう。これはおそらく僕たちの友情の形だ。そういう関係が好きだし、そういう友情が本当の友情だと思ってる。男が男のために命をかけるなんて男じゃないと思うからだ。男はあくまで孤高であるべきであり、友情がために覚悟を決めるべきではない。同姓はあくまで目的を争う競争者であるか、利用しやすい協力者であるかだけの問題でしかない。
ところで
突拍子もない勝手な妄想なのだけど、D君が例えば学校ではアイドル的存在でミナからもてはやされ、個人的にも萌え萌え(死)な女の子だったりして、まだ僕に貫通を許してなくて、しかしながらエロイボディを供えた女の子だったりしたら僕はどーしたのだろうか。それだけ弱ってるのなら、ともっと必死に励ましたのではないか。ていうか僕は彼女を愛してるかもしてない、とばかりに山形までぶっ飛んでたかもしれない。だって相手は女の子だ。寂しくて死にそうになってるのなら守ってあげないといけない。でもこれって愛なのか?モロに下半身で動いてる気がする。D君が女の子だったらもっと必死に励まして、D君が男だから自分でなんとかしろと叱責するのが僕だ。愛、てなんだ?愛とは下半身?
そもそもえらい人たちが考えた語源としてはダイレクトにエッチしたいです、と述べるのが恥ずかしくて恋に変換されたのかもしれない。恋とか友情とか親が子を観る保護欲とかモノに対する異様な執着心の総称として「愛」に変換されるのかな、とも思う。ストーカー的なことや憎悪もある種の「愛」の形なのかもな。だからこそ愛憎は表裏一体と呼ばれてるのだろう。
でも例えば、男が漢に惚れるとか、よくある男気の世界観として「俺はアンタに惚れたぜ」を「俺はあんたを愛したぜ」なんて変換したりするととホモセクシャルな世界観にどっぷりつかってしまう。これは矛盾だろう。この場においての「愛」は性欲的な意味合いしか持ち得ないわけで。
ボーイズラブとかアレもよく分からんのだけども、最終的に愛を高尚なところにアウフヘーベンしてのボーイズラブなのか、いや、あくまでこの男の子はあの男の子のアナルをファックしたいだけなのか、その辺が全く分からないので混乱する。女性作家のよくやるボーイズラブ、て結局なんなん?みたいな。
日本語は難しい。
気分が高揚すると冷静な判断が出来なくなる。
いい気分になろうと
悪い気分になろうと
多分一緒。
いい気分なときは自分が唯一絶対な存在に思えちゃう瞬間があったりしてあとで振り返ってみてそれが慢心であったことに気づいて気分が落ち込む。そしてまた冷静な判断が出来なくなる。これの繰り返しで成長してくれてるならそれがベストなんだろうけど。やっぱり短時間で一気に、というやり方は危ないし生産的ではないなあ、と学んだ自分。
いい気分になろうと
悪い気分になろうと
多分一緒。
いい気分なときは自分が唯一絶対な存在に思えちゃう瞬間があったりしてあとで振り返ってみてそれが慢心であったことに気づいて気分が落ち込む。そしてまた冷静な判断が出来なくなる。これの繰り返しで成長してくれてるならそれがベストなんだろうけど。やっぱり短時間で一気に、というやり方は危ないし生産的ではないなあ、と学んだ自分。
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絶対者への欲望と展望
2003年6月23日 エッセイ例えばこの前、示したようなイデオロギーとか東の言う「大きな物語」などを渇望する人のあり方ってのは絶対なるものへの欲望のそれと類似してるのではないかなと思う。宗教も、オカルトも、主義や思想、王制、天皇制、民主制、革命、文化、文明とまあ色々と共同体に影響を及ぼしそうなものを揚げてみても全ては絶対的なるものへの欲望に還元されるのではないかなという。
大きな物語=絶対論(真理、答え、生きる意味)
への欲望があるかないかが人間と動物の違いの決定的なものの一つにあるのではないか。でも絶対の真理なんていうのは今の時代にさえ存在しないし結局誰一人としてその答えたりえる真理を指し示しすことが出来た人間はいない。「大きな物語」的な主張をアジってみせて民衆をだまくらかすことは出来たみたいだけど。
苦しい時代に突入すれば便宜的なイデオロギーをもってして人を先導するカリスマが必ずといっていいほど登場するわけなんだけど、でもそれはやはり真理ではなくて祭り(闘争)が終局を迎えるとやがて虚構へと移り変わり、また人は絶対者を探し回り、終わらない生きる意味への渇望が始まる。そして存在しない敵に向かって(虚構へ)異議申し立てする人間は必ずまた出てくる。スノビズム(俗物主義)とかシニシズム(犬儒主義)と呼ばれるものらしい。それは生きる意味への畏怖の心であり、虚構の敵対者を増長させる結果につながる。そしてまた虚構は現実へと姿を変える。現実のイデオロギーに回帰した人間は再び生への欲望が満たされる。平和への欲望も芽生える。そして恐怖の根本たる「生きる意味」は考えなくて済む。
闘争は繰り返されることになるけど、そもそも、現実世界を変革しようともくろむことと自己の内閉世界の浄化を図る活動とのどちらが現実的であると言えるのだろうか、と。
動物化というのはデータベースにチンコをおったてる行為のことを言うらしいからそりゃ世界は沈静化して非常によろしいことなんだろうなあ。ま、でも現実問題としては既に虚構のレベルで言える敵は現実化しちゃってるみたいだから完全なる動物化への道は断たれてしまったと考えていいだろうね。
大きな物語=絶対論(真理、答え、生きる意味)
への欲望があるかないかが人間と動物の違いの決定的なものの一つにあるのではないか。でも絶対の真理なんていうのは今の時代にさえ存在しないし結局誰一人としてその答えたりえる真理を指し示しすことが出来た人間はいない。「大きな物語」的な主張をアジってみせて民衆をだまくらかすことは出来たみたいだけど。
苦しい時代に突入すれば便宜的なイデオロギーをもってして人を先導するカリスマが必ずといっていいほど登場するわけなんだけど、でもそれはやはり真理ではなくて祭り(闘争)が終局を迎えるとやがて虚構へと移り変わり、また人は絶対者を探し回り、終わらない生きる意味への渇望が始まる。そして存在しない敵に向かって(虚構へ)異議申し立てする人間は必ずまた出てくる。スノビズム(俗物主義)とかシニシズム(犬儒主義)と呼ばれるものらしい。それは生きる意味への畏怖の心であり、虚構の敵対者を増長させる結果につながる。そしてまた虚構は現実へと姿を変える。現実のイデオロギーに回帰した人間は再び生への欲望が満たされる。平和への欲望も芽生える。そして恐怖の根本たる「生きる意味」は考えなくて済む。
闘争は繰り返されることになるけど、そもそも、現実世界を変革しようともくろむことと自己の内閉世界の浄化を図る活動とのどちらが現実的であると言えるのだろうか、と。
動物化というのはデータベースにチンコをおったてる行為のことを言うらしいからそりゃ世界は沈静化して非常によろしいことなんだろうなあ。ま、でも現実問題としては既に虚構のレベルで言える敵は現実化しちゃってるみたいだから完全なる動物化への道は断たれてしまったと考えていいだろうね。
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時間という概念はただ人が都合よくことを運ばせるための手段に過ぎなくて時間などというものは存在せず常に「現在」という無数の断片が切り取られては貼り付けられているだけなんだよ、という説が実はあるらしいのは驚いた。だってこの前僕がやっていた仮説と一緒だったもの。つまり並行世界が存在しうるというのと同じで縦軸の時間の概念も実はグラフみたいに横軸に並んでいるだけなのかも知れない。そうすれば始まりと終わりの世界を考えなくてすむわけで。つまりボードのようにそれは位置付けられているだけという。だったらそのボードを作り上げたのは誰?と言うのもそもそも過去が存在しないというシステムであるとすれば、ん、いや、
その辺が良く分からなくなってきたのはやはり過去と未来に捕らわれてるせいかな?
その辺が良く分からなくなってきたのはやはり過去と未来に捕らわれてるせいかな?
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理想の時代 45年〜70年(戦後〜安保闘争)
虚構の時代 71年〜95年(失われた理想〜オウム事件)
動物の時代 96年〜03年現在(物語は消滅し、データベースへ
「大きな物語」たるイデオロギーの凋落が始まったのは1914年。イデオロギーが完全に形骸化したのが70年。この時点でハードコアの歴史は消滅する。失われた「大きな物語」を望む人々の渇望が「ガンダム」的な「虚構の歴史ドラマ」を生む。虚構のイデオロギーは回復したかに見えたがオウム事件により虚構を受容できなかった人間(動物化しきれなかった人間)の行き着く果てを目の当たりにした人々は、虚構のイデオロギーを捨て、スノビズムからも乖離する。エヴァにイデオロギーはなく、そこにあるのは「小さな物語」のジャンクの寄せ集めでしかなかった。それは「大きな物語」(イデオロギー)の「データベース化」の始まり。人は「大きな物語」を求めるが存在するのは「データベース」のみであり、永遠にセカイを横滑りするしかない。そして虚構のセカイを受容した人間は動物化する。
その後、ガンダムシードがエラく人気が出たのはイラク戦争による反米のイデオロギーの高まりの影響もあるかもしれない。「大きな物語」の復権がかかれば、人々はまた他者性を回復した共同体を結成できるのだからこれは必然なのかもしれない。人は「大きな物語」を求め、そしてまた闘争は生まれる。それが歴史。
と、後半は着色しまくりだけど東浩紀の動物化するポストモダンで語っていたみたいです。まあ、これは僕の見解なわけだが。
虚構の時代 71年〜95年(失われた理想〜オウム事件)
動物の時代 96年〜03年現在(物語は消滅し、データベースへ
「大きな物語」たるイデオロギーの凋落が始まったのは1914年。イデオロギーが完全に形骸化したのが70年。この時点でハードコアの歴史は消滅する。失われた「大きな物語」を望む人々の渇望が「ガンダム」的な「虚構の歴史ドラマ」を生む。虚構のイデオロギーは回復したかに見えたがオウム事件により虚構を受容できなかった人間(動物化しきれなかった人間)の行き着く果てを目の当たりにした人々は、虚構のイデオロギーを捨て、スノビズムからも乖離する。エヴァにイデオロギーはなく、そこにあるのは「小さな物語」のジャンクの寄せ集めでしかなかった。それは「大きな物語」(イデオロギー)の「データベース化」の始まり。人は「大きな物語」を求めるが存在するのは「データベース」のみであり、永遠にセカイを横滑りするしかない。そして虚構のセカイを受容した人間は動物化する。
その後、ガンダムシードがエラく人気が出たのはイラク戦争による反米のイデオロギーの高まりの影響もあるかもしれない。「大きな物語」の復権がかかれば、人々はまた他者性を回復した共同体を結成できるのだからこれは必然なのかもしれない。人は「大きな物語」を求め、そしてまた闘争は生まれる。それが歴史。
と、後半は着色しまくりだけど東浩紀の動物化するポストモダンで語っていたみたいです。まあ、これは僕の見解なわけだが。
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言い換えるなら誰か俺のことをオートマトンではないと証明して見せろ、てことだ。多分誰も僕を人形(オートマトン)ではない、とは証明できないだろう。解体でもするか?そして肉体が、脳が同じなのだからオマエは人間である、と。でもどこに自己意識が潜んでいたかなんて機械的には証明できても、そもそも機械的なるものの具体性があいまいになってくる。数式も言葉も誰が創ったんだよ?という。僕が僕であることの証明というのは結局僕自身でしか体感としては認識できないことであって、例えば僕が「オマエのことが好きだ〜」とか言って相手ノ女の人が迷惑に感じるか、照れるのか、はまあ別にどーでもいいので無視しよう。で、相手ノ女の人は僕が自分を好いてくれている、と認識するのだろうけど実際僕が本心からこの人のことを好きかどうかなんて表層の問題でしか理解し得ない、ていう。もしからした僕はホモかもしれない、その女を殺害するためのカモフラージュなのかもしれない、実は後ろの人に告白してて勝手な自意識過剰だったのかもしれない、というのは全て僕にしか分からないことだ。
そして、もしかした僕や他の人たちはただオートマトンであるかもしれない。そして「あなた」自身をコントロール下におき、あるへんてこな実験を行おうとしてるのかもしれない。ある日突然この世界はドッキリだったんです、というオチもありうるかもしれない。
もしかしたら自分のイメージした世界がそのまま世界、足りえてるのかもしれない。そんなことはない、自分はそれほど複雑怪奇で広大な知性は持ち合わせていない、とは言っても、意識化に現れていないだけで深層心理の実はさらに深いところに神なる存在が潜んでるかもしれないよ?その神の夢の中の主人公が自分であり、周りの全ては模型だったんです、というオチもありうるかもしれない。
まあぶっちゃけ逝っちゃうと俺の見えているこの世界が虚構ではないと誰が言える?ということで。こんなことは大分昔から言われてたのは知ってたけど(押井守とか)一つのストーリーテリングに過ぎないと思ってたので深く考察したことはなかったのだけど。考えてみればこれは怖いことだ。
他者性の完全に廃絶された世界において存在はただ一人自分のみ。しかもそうではない、という証明は誰も出来ない。人は永遠の孤独を「受け入れるしかない」というジレンマはとても恐ろしいものだと自覚できるようになった。昨日「キノの旅」とか言う犬儒派臭い、自分探し臭い、はっきり言ってあまり好きではないアニメを観賞していたところある作家のオッサンが「人は自分自身が主役である、という虚構を生きてるだけだ」といってたのが微妙に印象に残った。とは言ってもキノだけは傍観者な立場をとっていたのはちょっとキモかったけど。オマエも傍観されてんだろうが、というか(まあ、キノそのものの虚構性も提示はされてたんだけど)
どっちにしろ僕が消えた瞬間世界が消えない、保証なんてどこにもない。友人が「人には体温があるのだから全てが虚構だなんてあるわけがない」という情緒あふれるいい言葉を言ってたのは覚えているけど、それは便宜的な生きる意味の解釈でしかない。でもその便宜上の定義にすがるしかないのも小生というちっぽけな存在なのです(いつの間にやら富野語に転化)
そりゃね、こんな小賢しいことを色々こねくり回して色々考えたって、女の子の尻を見れば欲情するし、腹は減るし、臭いのはいやだし、男らしくありたいという欲望の矛盾もあるし、他人の上に立って見下ろしたい気持ちだってある。きっとそれは実感であるはずなんだ、子を産み育て死んでいくことこそが、生きる目的なんだと信じたいのも確か。というかそれにすがってないと頭がカチ割れそうなんで、とりあえずの現状においての僕の方向性は「いつか誰かのために死んでやる」という感じ。そして神に向かってザマー見ろ、て。今のちっちゃな脳味噌ではそれくらいしか言い及ぼせそうもないのが現実。現実。現実
そして、もしかした僕や他の人たちはただオートマトンであるかもしれない。そして「あなた」自身をコントロール下におき、あるへんてこな実験を行おうとしてるのかもしれない。ある日突然この世界はドッキリだったんです、というオチもありうるかもしれない。
もしかしたら自分のイメージした世界がそのまま世界、足りえてるのかもしれない。そんなことはない、自分はそれほど複雑怪奇で広大な知性は持ち合わせていない、とは言っても、意識化に現れていないだけで深層心理の実はさらに深いところに神なる存在が潜んでるかもしれないよ?その神の夢の中の主人公が自分であり、周りの全ては模型だったんです、というオチもありうるかもしれない。
まあぶっちゃけ逝っちゃうと俺の見えているこの世界が虚構ではないと誰が言える?ということで。こんなことは大分昔から言われてたのは知ってたけど(押井守とか)一つのストーリーテリングに過ぎないと思ってたので深く考察したことはなかったのだけど。考えてみればこれは怖いことだ。
他者性の完全に廃絶された世界において存在はただ一人自分のみ。しかもそうではない、という証明は誰も出来ない。人は永遠の孤独を「受け入れるしかない」というジレンマはとても恐ろしいものだと自覚できるようになった。昨日「キノの旅」とか言う犬儒派臭い、自分探し臭い、はっきり言ってあまり好きではないアニメを観賞していたところある作家のオッサンが「人は自分自身が主役である、という虚構を生きてるだけだ」といってたのが微妙に印象に残った。とは言ってもキノだけは傍観者な立場をとっていたのはちょっとキモかったけど。オマエも傍観されてんだろうが、というか(まあ、キノそのものの虚構性も提示はされてたんだけど)
どっちにしろ僕が消えた瞬間世界が消えない、保証なんてどこにもない。友人が「人には体温があるのだから全てが虚構だなんてあるわけがない」という情緒あふれるいい言葉を言ってたのは覚えているけど、それは便宜的な生きる意味の解釈でしかない。でもその便宜上の定義にすがるしかないのも小生というちっぽけな存在なのです(いつの間にやら富野語に転化)
そりゃね、こんな小賢しいことを色々こねくり回して色々考えたって、女の子の尻を見れば欲情するし、腹は減るし、臭いのはいやだし、男らしくありたいという欲望の矛盾もあるし、他人の上に立って見下ろしたい気持ちだってある。きっとそれは実感であるはずなんだ、子を産み育て死んでいくことこそが、生きる目的なんだと信じたいのも確か。というかそれにすがってないと頭がカチ割れそうなんで、とりあえずの現状においての僕の方向性は「いつか誰かのために死んでやる」という感じ。そして神に向かってザマー見ろ、て。今のちっちゃな脳味噌ではそれくらいしか言い及ぼせそうもないのが現実。現実。現実
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人は自分以外の人間が存在することを証明できない、と言われる、それの意味するところは、自分がこの世からいなくなった場合に自分にとっての世界がなくなるということは=主体の消えた世界がそもそも存在するわけがない、それは世界そのものの終末である、ということになるわけだ。自分が存在しない世界をどうして人が知覚できようか、ということだろう。僕にとっての世界とはセカイでありセカイが終われば世界も終わる。(主体の終わり
では前に書いたように自分の子孫を残すことに何の意味があるのだろう。僕は自分に似た全くの他人に無常の愛を注ぎ、僕の意志でも受け継いでもらうつもりなのか。しかし彼は僕そのものには決してなれるわけもなく、そもそも彼の中に僕は存在しない。僕は彼にはなりえない。彼の中にある僕、というイメージが存在するだけだ。それが人の意志を継ぐ、ということみたいだが、それは困る。
死んだらどうなるのか?神というのは実は僕たちの意識体の総称を指すのかもしれない、とか、そもそも時間という概念はかなり不確かなものじゃないかとか、それらをひっくるめて「始まり」と「終わり」に縛られているのは欺瞞に過ぎないのではないか、とか、実は時間なんて存在しなくて現在という存在が断片的に積み重なっているだけなのでは、とか、そのもの全てに限界があり逆説であるきがする。逆説だって所詮シニカルな様に過ぎなくてそれがいずれ具現化すると価値観も反転し、それが世の主軸となる。それの繰り返しが世界の歴史。宇宙の歴史にもなるんだろうか?
では前に書いたように自分の子孫を残すことに何の意味があるのだろう。僕は自分に似た全くの他人に無常の愛を注ぎ、僕の意志でも受け継いでもらうつもりなのか。しかし彼は僕そのものには決してなれるわけもなく、そもそも彼の中に僕は存在しない。僕は彼にはなりえない。彼の中にある僕、というイメージが存在するだけだ。それが人の意志を継ぐ、ということみたいだが、それは困る。
死んだらどうなるのか?神というのは実は僕たちの意識体の総称を指すのかもしれない、とか、そもそも時間という概念はかなり不確かなものじゃないかとか、それらをひっくるめて「始まり」と「終わり」に縛られているのは欺瞞に過ぎないのではないか、とか、実は時間なんて存在しなくて現在という存在が断片的に積み重なっているだけなのでは、とか、そのもの全てに限界があり逆説であるきがする。逆説だって所詮シニカルな様に過ぎなくてそれがいずれ具現化すると価値観も反転し、それが世の主軸となる。それの繰り返しが世界の歴史。宇宙の歴史にもなるんだろうか?
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人は望まざる状況に立たされれば世の中を斜めに見てしまう傾向があるような気がする。逆に何もかも不自由なくことが運んでる人にはこの世は楽園に見えるのではないかな。何が言いたいのかというと僕には世界が歪んで見えるわけなんだけど。厭世的になってるのは多分僕が現状に満足していないからなんだと思う。
しかし「現状に満足していない」という状況に満足しつつある自分がいることにも気づく。一生「俺は発展しているはずだ」などといいつづけられるのはある意味現実逃避的だと思う。40歳になって50歳になって60歳になればいやでも頭は悪くなる。それまでにどこまで自分を高められるか、というのも冷淡に浸ったまんまじゃ何も出来やしない、てことでもあるのだけど、その逆説としての肯定的過ぎる世界見識というのもやっぱり危険だと思う。正しいこと間違ってること、というのは常にケースバイケースなんだからそこを毎回毎回探ろうとする姿勢こそが大事なのかもしれない。
しかし「現状に満足していない」という状況に満足しつつある自分がいることにも気づく。一生「俺は発展しているはずだ」などといいつづけられるのはある意味現実逃避的だと思う。40歳になって50歳になって60歳になればいやでも頭は悪くなる。それまでにどこまで自分を高められるか、というのも冷淡に浸ったまんまじゃ何も出来やしない、てことでもあるのだけど、その逆説としての肯定的過ぎる世界見識というのもやっぱり危険だと思う。正しいこと間違ってること、というのは常にケースバイケースなんだからそこを毎回毎回探ろうとする姿勢こそが大事なのかもしれない。
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なんのために生きるか
2003年6月7日 エッセイこれ自体に意味が見出せなかったから究極的に生きてることに意味はない、全ては虚無なんだ、とか、んなこと言ってごまかしごまかし毎日過ごしてきたんだけど、昨日辺り不意に、いや、もしかすると、それを探るために文明が形成されて哲学が発展して教育機関が施されてみんなの知的レベルを底上げしていずれは神様と接触してやろうではないか、なんてことをインテリの人は意気込んでたわけなんじゃなかろうか、という考えが浮かんだ。
とすればやはり人間はこれからも進化してかなきゃいけないわけだ。そうでないと歴史も血の繋がりも想いも全て無駄になっちまうわけだから。イデオン的終末論を夢見ちゃった僕がこんなこと言うのもなんだが、だから富野監督は「世代を重ねる」ことの重要性を訴えてるわけなんだな。だって多分僕らの世代では神様とは接触できないもの。なんで人が生まれて生物が生まれたか、という答えを見出すことは不可能。でも次の世代なら、そしてまたその次の世代へと、文明も人も発達していけるのならいつか生きることの価値を見つけ出すことができるかも知れない。つまるとこさっさと子供を産んでバタバタ死んでくのが僕の「生きる意味」であり使命なんだろう。これからはこれを基準に毎日を過ごそうと思う。
とすればやはり人間はこれからも進化してかなきゃいけないわけだ。そうでないと歴史も血の繋がりも想いも全て無駄になっちまうわけだから。イデオン的終末論を夢見ちゃった僕がこんなこと言うのもなんだが、だから富野監督は「世代を重ねる」ことの重要性を訴えてるわけなんだな。だって多分僕らの世代では神様とは接触できないもの。なんで人が生まれて生物が生まれたか、という答えを見出すことは不可能。でも次の世代なら、そしてまたその次の世代へと、文明も人も発達していけるのならいつか生きることの価値を見つけ出すことができるかも知れない。つまるとこさっさと子供を産んでバタバタ死んでくのが僕の「生きる意味」であり使命なんだろう。これからはこれを基準に毎日を過ごそうと思う。
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心の純粋さや正しさとかと
認識というのは別の問題で
人は惑わされやすく、常に見誤りの可能性を
はらんでいるのだ、と誰か言ってた。
優しくても頭悪いと死ぬよ、てことなんだろう。
頭良くて惑わそうとする人はタチ悪いけど。
でも上のことを言ってた人が言うには、頭良くても間違えるときは間違えるよ、ということも含まれるらしく。無知なのは悪いことじゃない、んだそうで、無知のために核爆弾落として一杯殺しちゃった人にも罪はないとおっしゃってるようだ。
聖人ですな。
まあ俺も聖人だから彼には賛同する(げ
僕はどっち側の人間かなあ。
無知であることをいいことに被害者の顔
しまくりな人になるのも良し、かもな〜(藁
という考えがたまらなく嫌になったのが最近。
もう少し早く自意識に目覚めたかった20歳の春。夏かな…
認識というのは別の問題で
人は惑わされやすく、常に見誤りの可能性を
はらんでいるのだ、と誰か言ってた。
優しくても頭悪いと死ぬよ、てことなんだろう。
頭良くて惑わそうとする人はタチ悪いけど。
でも上のことを言ってた人が言うには、頭良くても間違えるときは間違えるよ、ということも含まれるらしく。無知なのは悪いことじゃない、んだそうで、無知のために核爆弾落として一杯殺しちゃった人にも罪はないとおっしゃってるようだ。
聖人ですな。
まあ俺も聖人だから彼には賛同する(げ
僕はどっち側の人間かなあ。
無知であることをいいことに被害者の顔
しまくりな人になるのも良し、かもな〜(藁
という考えがたまらなく嫌になったのが最近。
もう少し早く自意識に目覚めたかった20歳の春。夏かな…
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終末思想はある程度持ち合わせてなくては
いかん、みたいなこと言ってる人がいた。
今の人は楽観的過ぎる、核や原子力という
大量自殺兵器、人類抹殺兵器が隣に
あたりまえのように存在するというのにあしたも
あたりまえのように来る、と信じきっている。
そんなことでは人は堕落していくばかり
ではないですか、みたいな。
あした死ぬかもしれない、と実感として
分かっている病人の方々などはとても人に優しく
なれるんだそうです。
そういう人たちを隔離した施設。
ハンセン病の施設なんかではとても理想的な
共同体が結成されてたとかされてなかったとか。
まあ分かる話かな。
だから俺は子供を産みませんとかその筆者が
語ってたのは疑問ですが。
いかん、みたいなこと言ってる人がいた。
今の人は楽観的過ぎる、核や原子力という
大量自殺兵器、人類抹殺兵器が隣に
あたりまえのように存在するというのにあしたも
あたりまえのように来る、と信じきっている。
そんなことでは人は堕落していくばかり
ではないですか、みたいな。
あした死ぬかもしれない、と実感として
分かっている病人の方々などはとても人に優しく
なれるんだそうです。
そういう人たちを隔離した施設。
ハンセン病の施設なんかではとても理想的な
共同体が結成されてたとかされてなかったとか。
まあ分かる話かな。
だから俺は子供を産みませんとかその筆者が
語ってたのは疑問ですが。
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という本を読んだのですが
大塚氏と東氏の言ってることの6割くらいは
ワケ分からんのでどうしたものかと。
なんでインテリはここぞとばかりに難しい横文字
を使用したがるのか。
対談のときくらいもっと噛み砕いて分かりやすくしゃべれよコノヤローと文句を言ってやりたくなりましたが
まあそれだけ意味の含まれている難解な単語を使用するのもいちいち噛み砕いてしゃべってたら対談おわらネエよ馬鹿、というかむしろ抽象的に僕らに伝えたい心持があるのかもしれない、と考えればそれなりに必死に辞書開きながらでも読むのは苦痛ではありませんでしたけど。
しかしどっちにしても多少なりとも
理論武装して愚民ドモと隔絶されたポジションを持っておきたいという気分だってあるのは確かなはずだ。だってそうでないと最近突如として整合性のない横文字を乱立させ出した僕のいいわけが成立しなくなりますからね!!
↑
何を怒ってるのかわけわからん
↑
煽るなよ、兵が見てる
というめんどくさい言い訳がましい自作自演はここら辺にして本編のできるだけ分かったとこを書き記しておこうと思います。
東氏が言うには
これからは主義や思想におけるハードコア面での支配体制はその力を失っていき、セキュリティ管理によるシステムによる統治がなされるのではないか、とのことであります。
つまり監視社会というものによる精神的居住区のすみわけもなされるそうで、それを「タコツボ」とか言ってたカナ…
つまりだ、これから人を先導するのは思想ではなく
システムであり俺は自由だ権利を主張だ言ったところでいつの間にやら狭いマーケットやら情報の中に組み込まれて自意識を失ッてるくせに、俺は正気だよ!!というような人間にはなっちゃいけないでしょ、みたいなことを言ってたと思います。
で、後半は
やはり二人とも腐れお宅ですのでオタク話に花がさいて
データベースの上に作家性を上乗せするべきなのだ、が東論で
作家性があってそれが全面的に押しデテおるならそれはデータベースでなくて立派なエンタテイメントだ、みたいなこと言ってたのが大塚氏だったような・・・
でもそれ自体がデータベースにはまってるだろう、というツッコミもあったような気もする。
とにかくワケわかんなかったので
もう少し頭を良くしたいですね。
オタク知識ばかり増量されてってる感は否めませんが。
大塚氏と東氏の言ってることの6割くらいは
ワケ分からんのでどうしたものかと。
なんでインテリはここぞとばかりに難しい横文字
を使用したがるのか。
対談のときくらいもっと噛み砕いて分かりやすくしゃべれよコノヤローと文句を言ってやりたくなりましたが
まあそれだけ意味の含まれている難解な単語を使用するのもいちいち噛み砕いてしゃべってたら対談おわらネエよ馬鹿、というかむしろ抽象的に僕らに伝えたい心持があるのかもしれない、と考えればそれなりに必死に辞書開きながらでも読むのは苦痛ではありませんでしたけど。
しかしどっちにしても多少なりとも
理論武装して愚民ドモと隔絶されたポジションを持っておきたいという気分だってあるのは確かなはずだ。だってそうでないと最近突如として整合性のない横文字を乱立させ出した僕のいいわけが成立しなくなりますからね!!
↑
何を怒ってるのかわけわからん
↑
煽るなよ、兵が見てる
というめんどくさい言い訳がましい自作自演はここら辺にして本編のできるだけ分かったとこを書き記しておこうと思います。
東氏が言うには
これからは主義や思想におけるハードコア面での支配体制はその力を失っていき、セキュリティ管理によるシステムによる統治がなされるのではないか、とのことであります。
つまり監視社会というものによる精神的居住区のすみわけもなされるそうで、それを「タコツボ」とか言ってたカナ…
つまりだ、これから人を先導するのは思想ではなく
システムであり俺は自由だ権利を主張だ言ったところでいつの間にやら狭いマーケットやら情報の中に組み込まれて自意識を失ッてるくせに、俺は正気だよ!!というような人間にはなっちゃいけないでしょ、みたいなことを言ってたと思います。
で、後半は
やはり二人とも腐れお宅ですのでオタク話に花がさいて
データベースの上に作家性を上乗せするべきなのだ、が東論で
作家性があってそれが全面的に押しデテおるならそれはデータベースでなくて立派なエンタテイメントだ、みたいなこと言ってたのが大塚氏だったような・・・
でもそれ自体がデータベースにはまってるだろう、というツッコミもあったような気もする。
とにかくワケわかんなかったので
もう少し頭を良くしたいですね。
オタク知識ばかり増量されてってる感は否めませんが。
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あなたの気持ち分かるわ、てのも実は嘘っぱち
2003年5月6日 エッセイ人間は固有の肉体しか保持できないわけだから
どれも全て自分発、情報も全て自分が軸。
自分という狭隘な主観からしか物事を
見定められることの出来ない存在なのであるから
決して自我を抑制することなんてできるわけがない。
それがたとえ客観的なるものであってもそれは
客観的と呼ばれる主観でしかないんだろう。
となればたくさんの人の存在のフラグメントと
やら共有できたつもりになれる、
例えば映画や小説なんかも、
漫画やアニメもそうだけど、
それは他者の気持ちを理解したということで
はなくて、自分における他者(登場人物)、という
枠組みを超えることは出来てなくて。
ということはもしかしたら自分らは俗に言う
神様とかいう意識にコントロールされてるだけだったりして。
なるべくしてなる、てことか。
だって他人の意識がこちらに流れてくることなんて
ありえないのだし。
あの人がどのように自我という情報機関に
コントロールされてんのか、
てのも何もわかんないんだからなあ。
もしかしたらワタシ以外の人間は全て虚構でした。
なんてオチ小さい頃良く考えてた人は僕だけではないはずだ。
オマエもそうなんだろ?認めろ。認めちまえ。ガオー
どれも全て自分発、情報も全て自分が軸。
自分という狭隘な主観からしか物事を
見定められることの出来ない存在なのであるから
決して自我を抑制することなんてできるわけがない。
それがたとえ客観的なるものであってもそれは
客観的と呼ばれる主観でしかないんだろう。
となればたくさんの人の存在のフラグメントと
やら共有できたつもりになれる、
例えば映画や小説なんかも、
漫画やアニメもそうだけど、
それは他者の気持ちを理解したということで
はなくて、自分における他者(登場人物)、という
枠組みを超えることは出来てなくて。
ということはもしかしたら自分らは俗に言う
神様とかいう意識にコントロールされてるだけだったりして。
なるべくしてなる、てことか。
だって他人の意識がこちらに流れてくることなんて
ありえないのだし。
あの人がどのように自我という情報機関に
コントロールされてんのか、
てのも何もわかんないんだからなあ。
もしかしたらワタシ以外の人間は全て虚構でした。
なんてオチ小さい頃良く考えてた人は僕だけではないはずだ。
オマエもそうなんだろ?認めろ。認めちまえ。ガオー
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