僕は漫画家になるのを諦めてしまった人間なので、これからはより批評的、哲学的に「物語とは何であるのか」ということについて探求する欲求が深まるであろうことが予想される。なので、そのことについての現状認識のようなもののまとめを記しておこうと考えた。


・端的に言ってしまえば物語とは「願い」のようなものだと解釈している。こうであればいい、こうであってほしい、という願いが物語を形成し変容させ、ドグマティズムへと昇華させていく。
だから、現実と物語には、当然乖離がある。

現実に象徴界(物語)なるものは存在しない。それは我々が描いている仮想現実(物語)に過ぎないのだから。我々は世界の断片だけを収集し、世界そのものをさも「こうである」という風に総括を執り行うが、それ自体がフィクション(物語)であり、つまりはドグマなのだ。
では物語では認識を間違えるのかを問えば、万事がそうではないと思う。というより人が物語を認識しないことは原理的に不可能なのでそこは、きちんと折り合いをつけていくほかないのだ結局のところは。

ただし、付け加えるとすれば、物語と現実は常に相関関係がある。現実が物語を生成し、また、物語は現実を侵食し、包括する。人々の物語がシンパシーで連結されることで、神にも似た何かが巻き起こり、現実が決壊する瞬間は確かに存在する(ように見える)。だからそれが何であれ、人は祈りを捧げずにはいられないのだ。


・僕は著作権、肖像権、というものがあまり好きではない。
創作物は生成されたそのときに本体である創作者からは離れ、一つの独立した「何か」へと転化する。その転化した何かは、世界と創作者を繋ぐためのデバイスとして機能するのだと言われがちではある。

しかし僕はそれは違うと考えている。物語はコミュニケーションの道具ではない。物語は創作者から独立した瞬間から、別の不特定多数の人間の想像界に意味を投げかけるものへと変貌するのだ。そのとき、他者と創作者が見ている物語媒体のそれは似ても似つかないものになっているはずで、多くの誤配を生む。

創作物とは、つまり人間の文明において、唯一コミュニケーションを切断したまま世界に風穴を開けるための手段なのだ。だから創作物における物語とは世界に対するコミットメントではなくてデタッチメントでなければならない。
半分直感的な話なので間違えているかもしれないけれどおそらくはそうなのだ。作家は外界への欲望を絶えず切断し続けなければいけない。僕はそう思う。
自分が生み出した、自分ではない何者かが世界のアーキテクチャとして機能している状況は、メタフィクショナルかつ愉快なものでなければならない。そう考えている。

コメント

nophoto
n
2011年12月6日0:22

創作物とは、つまり人間の文明において、唯一コミュニケーションを切断したまま世界に風穴を開けるための手段なのだ。だから創作物における物語とは世界に対するコミットメントではなくてデタッチメントでなければならない。
>作家の個性の問題になるんですね。
 漫画で言うと近頃はtwitterの発展なんかもあり、作家自身の重要性があるように感じることもありますが、あくまで読者が一次的に消費するのは作家から切り離された(作家が意識されない)物語であってその点においては作品そのものが固有性を保持し、読者に働きかける存在として成り立っているのですね。
プロはコミュニケーションの道具として漫画を使うべきではないんですね。
最高の作品をつくるためだけの奉仕者(奴隷?)として従事せねばならないのですね・・・。
マゾですね!笑
表現とはマゾ的快楽なんでしょうか笑

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