アーキテクチャノセイタイケイ
2010年2月24日 読書メモ コメント (1)・アーキテクチャの生態系とは
英語でアーキテクチャのことを建築や構造と呼ぶが、本書ではこの言葉をネット上のサービスやツールをある種の建築とみなし、その設計の構造に着目するという意味で使用する。
ローレンス・レッシグの「CODE」によるとアーキテクチャとは規範(習慣)・法律・市場に並ぶ、人の行動や社会秩序を規制(コントロール)するための方法だという。
その後、日本においては東浩紀が「環境管理型権力」であると概念化する。
権力と聞くと我々は抵抗しなければならないかのように錯覚してしまいがちではある。権力バイアス。権力と自由のゼロサム理論。
・グーグルはいかにウェブ上に生態系を築いたか
ウェブ→グーグル→ブログという生態系(エコシステム)が築かれた背景には、個々が勝手気ままに行動することでいつの間にか全体的な秩序が実現されているというロジックによって成り立っている。しかしそれは楽観的過ぎる批判する人々も当然いる。
ウェブ楽観論と悲観論の対立はしばしば性善説と性悪説の対立にもなぞらえられる。悲観論者は「もともと人間は愚かで馬鹿であるからこそ、それらの行動が相互に影響しあったところでますます世の中がだめになっていくフィードバックがかかるだけであり、その動きに歯止めをかけるにはこれまで人類が築き上げてきた伝統的な知や情報をやり取りするための仕組みをこれまでどおり用いるべきなのだ」と語っている。
進歩とは何がしかの基準があらかじめプリセットされているアプリオリな概念。
進化とはより良きものへの変化ではなく、より複雑なものへの変化をさす。そしてそれらのほとんどは超越的な意図が介入することなく偶然の積み重ね、ランダムな遺伝子の組み換えによって生じたものである。
・どのようにグーグルなきウェブは進化するか?
一度形成されたコミュニティはその内部における結束を高めれば高めるほどに、排他性を高めることになる。新たに外部からやってくるものからすれば障壁となる。信頼関係、暗黙の習慣(お約束)、常連、等。
いわゆる「常連優遇政策」はコミュニティを中長期的には衰退されることにつながる。2ちゃんねるは階層性を否定するためにこそ匿名性が導入されている。
都市(アソシエーション=ゲマインシャフト(目的達成のための組織、組織・結社))⇔共同体(コミュニティ=ゲゼルシャフト(本質意志によって結合した共同体、家族))
そして2ちゃんねるは都市であり、かつ共同体であるともいえる。
日本は集団主義/安心社会(どの集団に属しているかを見てから関係性を結ぶこと。空気を読まなければならない。内輪びいきであることが合理的。)
アメリカは個人主義/信頼社会(個人の間で信頼性を結ぶこと。あらかじめ見知らぬ他者への信頼度を高く設定しておき、後から細かく判断、修正していく。)
・なぜ日本と米国のSNSは違うのか?
2ちゃんねると同じく、MIXIもつながりの社会性で成り立っている。新しいジャーナリズムやSNSの政治活動というインターネットを通じた「民主主義の再民主化」、「電子公共圏」を目指す理想主義者にとってみてば否定的なものに見えた。彼らからすればインターネットは自己目的型のコミュニケーションに見える。
ビジネス論→インストゥルメンタル(道具的)な繋がり。人脈や社会関係資本(ソーシャルキャピタル)
若者論→コンサマトリー(自己充足的)な繋がり。距離感。ポジション。
日本のインターネットがオープンソーシャルになるためには「文化の翻訳」(アーキテクチャと文化のすり合わせ)が必要になる。
・ウェブの「外側」はいかに設計されてきたか?
ウィニーは「コモンズの悲劇」を回避し、アーキテクチャの社会秩序を実現した重要なケースである。
・アーキテクチャはいかに時間を操作するか?
同期メディア=電話・テレビ
非同期メディア=手紙・本・雑誌
(ただし新聞は、同期型、非同期型どちらともいえる)
ではインターネットは?
非同期=BBS・ブログ
選択同期=チャット・ツイッター(同期を選択により一時的/局所的に変換するアーキテクチャ)
擬似同期=ニコニコ動画(自発的な選択なしであたかも同じ現在を共有しているかのような錯覚を味わえる)
真性同期=ネットゲーム・セカンドライフ(ログと対話できないのでコミュニケーションだけでは祭り(ライブ感)を味わえない。閑散化問題。)
真性同期型アーキテクチャは<後の祭り>を不可避にし、擬似同期型アーキテクチャは<いつでも祭り>を作り出すことで閑散化問題を解決している。ニコ動は「いま・ここ性」の複製装置であるといえる。コメント/メタレベルから動画/オブジェクトレベルにツッコミをいれネタ的に物語を享受するコミュニケーション。
・コンテンツの生態系と「操作ログ的リアリズム」
限定客観性=そのセカイ界隈における絶対性、超越性、美のあり方。内輪ネタ。小さな物語≒限定されたリアル
ニコニコ動画における初音ミクや東方、ケータイ小説における物語的ダイナミズムは限定客観性によって駆動している。プラットフォームの存在しない空転するリアリズム。それらの「多様性」を理解するためには蓄積された操作ログのリテラシーを逆向きに読み込んでいくことで解決するはずだと濱野氏は主張している。
・日本に自生するアーキテクチャをどう捉えるか?
濱野氏はウェブという「アーキテクチャの生態系」をレッシグやハイエクを例に挙げ、遺伝子レベルの多様性に見立ててそれらを肯定していくべきだと主張する。
しかしハイエクのいう「自然成長性」は日本では成立しうるのか?日本社会の「集団主義」的かつ排他的性質はそれらをオミットしてしまうではないか?
濱野氏はそれらの考えに対してアメリカ式の「個人主義」ではない日本独自のアーキテクチャのあり方が築けるはずだという。アーキテクチャが社会をハッキングすることは可能であるという話で本書は収束している。
英語でアーキテクチャのことを建築や構造と呼ぶが、本書ではこの言葉をネット上のサービスやツールをある種の建築とみなし、その設計の構造に着目するという意味で使用する。
ローレンス・レッシグの「CODE」によるとアーキテクチャとは規範(習慣)・法律・市場に並ぶ、人の行動や社会秩序を規制(コントロール)するための方法だという。
その後、日本においては東浩紀が「環境管理型権力」であると概念化する。
権力と聞くと我々は抵抗しなければならないかのように錯覚してしまいがちではある。権力バイアス。権力と自由のゼロサム理論。
・グーグルはいかにウェブ上に生態系を築いたか
ウェブ→グーグル→ブログという生態系(エコシステム)が築かれた背景には、個々が勝手気ままに行動することでいつの間にか全体的な秩序が実現されているというロジックによって成り立っている。しかしそれは楽観的過ぎる批判する人々も当然いる。
ウェブ楽観論と悲観論の対立はしばしば性善説と性悪説の対立にもなぞらえられる。悲観論者は「もともと人間は愚かで馬鹿であるからこそ、それらの行動が相互に影響しあったところでますます世の中がだめになっていくフィードバックがかかるだけであり、その動きに歯止めをかけるにはこれまで人類が築き上げてきた伝統的な知や情報をやり取りするための仕組みをこれまでどおり用いるべきなのだ」と語っている。
進歩とは何がしかの基準があらかじめプリセットされているアプリオリな概念。
進化とはより良きものへの変化ではなく、より複雑なものへの変化をさす。そしてそれらのほとんどは超越的な意図が介入することなく偶然の積み重ね、ランダムな遺伝子の組み換えによって生じたものである。
・どのようにグーグルなきウェブは進化するか?
一度形成されたコミュニティはその内部における結束を高めれば高めるほどに、排他性を高めることになる。新たに外部からやってくるものからすれば障壁となる。信頼関係、暗黙の習慣(お約束)、常連、等。
いわゆる「常連優遇政策」はコミュニティを中長期的には衰退されることにつながる。2ちゃんねるは階層性を否定するためにこそ匿名性が導入されている。
都市(アソシエーション=ゲマインシャフト(目的達成のための組織、組織・結社))⇔共同体(コミュニティ=ゲゼルシャフト(本質意志によって結合した共同体、家族))
そして2ちゃんねるは都市であり、かつ共同体であるともいえる。
日本は集団主義/安心社会(どの集団に属しているかを見てから関係性を結ぶこと。空気を読まなければならない。内輪びいきであることが合理的。)
アメリカは個人主義/信頼社会(個人の間で信頼性を結ぶこと。あらかじめ見知らぬ他者への信頼度を高く設定しておき、後から細かく判断、修正していく。)
・なぜ日本と米国のSNSは違うのか?
2ちゃんねると同じく、MIXIもつながりの社会性で成り立っている。新しいジャーナリズムやSNSの政治活動というインターネットを通じた「民主主義の再民主化」、「電子公共圏」を目指す理想主義者にとってみてば否定的なものに見えた。彼らからすればインターネットは自己目的型のコミュニケーションに見える。
ビジネス論→インストゥルメンタル(道具的)な繋がり。人脈や社会関係資本(ソーシャルキャピタル)
若者論→コンサマトリー(自己充足的)な繋がり。距離感。ポジション。
日本のインターネットがオープンソーシャルになるためには「文化の翻訳」(アーキテクチャと文化のすり合わせ)が必要になる。
・ウェブの「外側」はいかに設計されてきたか?
ウィニーは「コモンズの悲劇」を回避し、アーキテクチャの社会秩序を実現した重要なケースである。
・アーキテクチャはいかに時間を操作するか?
同期メディア=電話・テレビ
非同期メディア=手紙・本・雑誌
(ただし新聞は、同期型、非同期型どちらともいえる)
ではインターネットは?
非同期=BBS・ブログ
選択同期=チャット・ツイッター(同期を選択により一時的/局所的に変換するアーキテクチャ)
擬似同期=ニコニコ動画(自発的な選択なしであたかも同じ現在を共有しているかのような錯覚を味わえる)
真性同期=ネットゲーム・セカンドライフ(ログと対話できないのでコミュニケーションだけでは祭り(ライブ感)を味わえない。閑散化問題。)
真性同期型アーキテクチャは<後の祭り>を不可避にし、擬似同期型アーキテクチャは<いつでも祭り>を作り出すことで閑散化問題を解決している。ニコ動は「いま・ここ性」の複製装置であるといえる。コメント/メタレベルから動画/オブジェクトレベルにツッコミをいれネタ的に物語を享受するコミュニケーション。
・コンテンツの生態系と「操作ログ的リアリズム」
限定客観性=そのセカイ界隈における絶対性、超越性、美のあり方。内輪ネタ。小さな物語≒限定されたリアル
ニコニコ動画における初音ミクや東方、ケータイ小説における物語的ダイナミズムは限定客観性によって駆動している。プラットフォームの存在しない空転するリアリズム。それらの「多様性」を理解するためには蓄積された操作ログのリテラシーを逆向きに読み込んでいくことで解決するはずだと濱野氏は主張している。
・日本に自生するアーキテクチャをどう捉えるか?
濱野氏はウェブという「アーキテクチャの生態系」をレッシグやハイエクを例に挙げ、遺伝子レベルの多様性に見立ててそれらを肯定していくべきだと主張する。
しかしハイエクのいう「自然成長性」は日本では成立しうるのか?日本社会の「集団主義」的かつ排他的性質はそれらをオミットしてしまうではないか?
濱野氏はそれらの考えに対してアメリカ式の「個人主義」ではない日本独自のアーキテクチャのあり方が築けるはずだという。アーキテクチャが社会をハッキングすることは可能であるという話で本書は収束している。
コメント