・ふたつの『野ブタ』のあいだで
漫画デスノートでは95年以降の過剰流動性は前提であり「何が正しいかは政治的に勝利した人間が決定する」という世界観で夜神月は行動している。だがそれはゲームの構造には相対的に無自覚であるといえる。
『野ブタ。』は非日常的なロマンティシズムがないと生きられないと無根拠に思い込んでいる人間たちに対する処方箋となっている。というも、そのような超越性ではない、素直に自分の欲望と向き合う謙虚さを示したドラマだからだ。ゲームの勝利では手に入らない仲間の存在。入れ替え不可能な関係性の共同体。それらを示した作品であるといえる。

・解体者としてのよしながふみ
二者関係の共依存的なロマンティシズム「セカイ系=決断主義」が本質的にはらむ暴力の問題を抉り出した作品、『日出処の天子』。1980年代にしてセカイ系の限界を知らしめた作品。

・肥大する母性のディストピア
AIRにはマチズモと自己反省が同居している。「安全に痛い自己反省パフォーマンス」をすることでマチズモをむしろ強化温存している。
「本当に痛い」自己反省をするのであれば少女からは拒絶されなければいけない。援助交際で女子高生とセックスした後にその後ろめたさを解消すべく、「こんなことしてちゃいけないよ」と諭す男性は「繊細で文学的」だとはいえない。彼らは心理的な抵抗を排除し、少女を安心して所有するするためのパフォを行っている。

高橋留美子作品などにみられる「肥大化した母性」の暴力は承認の障害を徹底的に排除する構造を持つ。高橋留美子や美少女ゲーム(セカイ系)における自己のキャラクターを無根拠に全承認してくれる少女こそが帰るべき現実をも遮断し、オタクのマッチョイズムをより強化温存していくのだと宇野は主張する。

・「成熟」をめぐって
オタクは成長忌避的な母性のディストピアとも言うべき思考停止に陥っている。現代における成熟のためには「父」を見せるのではなく環境を整備することが大事なのだと新教養主義の立場の人間たちは言う。後は祈るしかない。祈りの時代に我々は生きているのだと。

・仮面ライダーにとって「変身」とは何か
かつて「変身」とはエゴの強化だった。だが現在において「変身」とはコミュニケーションの手段である。モバイル的実存。

・昭和ノスタルジーとレイプ・ファンタジー
昭和ノスタルジーとレイプ・ファンタジーは双子関係にあるといってもいい。「自分は一度反省したのだから倫理的である」という免罪符はより無自覚な依存へと人々を導く。終わりある日常であるからこそセカイ系的なレイプファンタジーに陥ることなく人を支えうる。

・「青春」はどこに存在するか
ハルヒシリーズは脱セカイ系であり、ハルヒは一方で宇宙人や未来人や超能力者のいる非日常をほしがる肥大化した自己(プライド)をさらけ出すが、実は非日常ではなく、日常の中のロマンとしての青春を望んでいる。
本作は「セカイ系的な世界観に生きる少女を所有するセカイ系(メタセカイ系)」という形式をとることにより、マチズモが迂回路をたどって消費者に備給される。見事に自己反省ごっこを隠蔽する。そういった意味ではセカイ系の臨界点だといえる。

・脱「キャラクター」論
共同体における位置=キャラクターは小さな物語の中で与えられた位置に過ぎず、書き換え可能である。モバイル的実存。しかしそれは両義的な評価をせざるをえない。それらは長所を生かし、短所を補うことで変化させていくしかない。

・時代を祝福/埋葬するために
キャラクター的な実存(~である)では承認は得られないし、成長を拒んでも人はいやおうなしに老いて死んでいく。人生は一度きりで決してリセットできない。「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」ではない「終わりのある(ゆえに可能性にあふれた)日常」を生きるべきで、少なくとも自由であるということは、それだけ生の可能性にあふれているのだと宇野は主張する。

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