クォンタム・ファミリーズ 雑感
2010年3月12日 読書東浩紀は人生をゲームのように解釈している。いや、正確にはポストモダン化しデータベース的動物化を果たした我々は人生をゲームのように解釈し、そのように生きるしか手段がないのだと言っている。
だから法制度に関しては文字通りゲーム的な制度に改革すべきだと主張しているのだろう。人々が新たに獲得しつつある実存の問題に制度設計が追いついてないと。今私たちが感じてる息苦しさの正体はこの辺にあるように思える。
やりたいことをやりたいようにやれればそれが一番いい。自由ってそういうことだ。だが実際は何がしかに、ゲゼルシャフトだのゲマインシャフトだのの共同体に属するしかない。コミットメントしないと迫害される。問題はそこだ。大きな物語などとっくの昔に崩壊したというのにいまだに権力の力を信じてる人々がいっぱいいる。
自由ってのは他人と競いあうことじゃない。やりたいようにやる、てことだ。自由競争社会とか意味がよくわからない。社会は成熟し、これ以上の経済成長も見込めないのに更につぶし合うことになんの意味があるのか。
何で俺がこんなに東浩紀に惹かれるのかよくわかった。彼はゲーム的で可能性に満ちた「自由」を愛してるのだ。そして我々の現実が、監視的で不可視な視線(よくわからない権力)によって固着化し「仮定法の亡霊」(もしかしたらあったかもしれない過去と未来)に囚われ続ける自由という名の不自由から開放されるべきだと主張しているのだ。
そして俺自身、そんな自由を獲得したいと願っている。そうなればいいと思っている。それは不透明でよくわからないこの世の中において、すごくラジカルで希望にあふれた言説なのだと実感している。
だから法制度に関しては文字通りゲーム的な制度に改革すべきだと主張しているのだろう。人々が新たに獲得しつつある実存の問題に制度設計が追いついてないと。今私たちが感じてる息苦しさの正体はこの辺にあるように思える。
やりたいことをやりたいようにやれればそれが一番いい。自由ってそういうことだ。だが実際は何がしかに、ゲゼルシャフトだのゲマインシャフトだのの共同体に属するしかない。コミットメントしないと迫害される。問題はそこだ。大きな物語などとっくの昔に崩壊したというのにいまだに権力の力を信じてる人々がいっぱいいる。
自由ってのは他人と競いあうことじゃない。やりたいようにやる、てことだ。自由競争社会とか意味がよくわからない。社会は成熟し、これ以上の経済成長も見込めないのに更につぶし合うことになんの意味があるのか。
何で俺がこんなに東浩紀に惹かれるのかよくわかった。彼はゲーム的で可能性に満ちた「自由」を愛してるのだ。そして我々の現実が、監視的で不可視な視線(よくわからない権力)によって固着化し「仮定法の亡霊」(もしかしたらあったかもしれない過去と未来)に囚われ続ける自由という名の不自由から開放されるべきだと主張しているのだ。
そして俺自身、そんな自由を獲得したいと願っている。そうなればいいと思っている。それは不透明でよくわからないこの世の中において、すごくラジカルで希望にあふれた言説なのだと実感している。
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