ゼロネンダイノゾウゾウリョク メモ
2010年1月25日 読書メモ・問題設定
大きな物語とは国民国家的イデオロギーであり歴史的に個人の人生を根拠づける価値体系をさす。この40年は「モノはあっても物語(生きる意味、信じられる価値)のない世界」が進行する過程であった。不自由だが暖かい(わかりやすい)世界から自由だが冷たい(わかりにくい)社会へと変遷を辿る。
・データベースの生む排除型社会
「~する/~した」という行為=社会的自己実現ではなく、「~である/~ではない」という自己実現=キャラクターの承認によってアイデンティティを獲得するという回路が90年代の社会状況下の産物である。
キャラクターは物語から独立することが原理的に不可能。小さな物語の共同性はむしろキャラクターによって再強化される。キャラクターによる小さな物語は決断主義的な思考停止、棲み分け、つまり排他的なコミュニティと親和性が高いのだといえる。キャラは表現の空間からは独立できるが物語には隷属するしかない。(二次創作を繰り返すことでむしろキャラは多面性を帯び、トラウマすら強化されるのだということ。)
2000年代初頭から物語の想像力は小さな物語が小さな物語によって回収されるというバトルロワイヤル的様相を帯び始める。
・「引きこもり/心理主義」の90年代
この本においては、70年代以降段階を踏んで徐々にポストモダン状況が進行したのだということになっている。80年代は多文化主義と相対主義が台頭した時代とされる。だがそれはあくまでも相対主義と言う名の絶対主義に過ぎない。90年代は80年代から好景気と冷戦を引き算したものである。岡崎京子はリバースエッジにおいて平坦な戦場に死を導入することで物語を描いた。しかしそれは外部に頼ることの擬似超越性に過ぎない。ポストモダン状況において外部とは存在し得ない。全ては入れ替え可能だからである。90年代は歴史や社会が「意味」を供給してくれない世界、物語のない平坦な戦場として幕を開けた。文化人たちの多くは左翼的なロマンティシズム、あるいは新保守的なイデオロギーに回帰していった。そして時代は1995年という転換期へと以降する。
・「95年の思想」をめぐって
平成不況の長期化が決定的となりつつあった時期に発生した阪神淡路大震災(1月)は成長時代の終焉を象徴する事件として消費された。地下鉄サリン事件(3月)は人々の実存が本格的にポストモダン状況下の流動性に耐えられなくなってきたことを示した。そして新世紀エヴァンゲリオン(10月)が始まる。エヴァの思想はカルト的な「間違った父親(社会)に向き合うことを」を拒否し、「誤るくらいなら何もしない」という「引きこもり/心理主義」的想像力である。
「95年の思想」とは発泡スチロールのシヴァ神の誘惑に負けない強固な個(デタッチメント)の確立を目的とした、ある種のニーチェ主義的な傾向であったが、引きこもりの帰結はゼロ年代の決断主義に回収されてしまうこととなる。
宮台真司の変遷
終わりなき日常を生きろ→援助交際をする少女たちは売春に意味を見出しておらず自己の商品化にためらいのない新人類である→しかし人間は「物語(意味)」からは逃れられない→実は少女たちは身体の商品化に自傷的なパフォーマンスという意味を込めていた→では「あえて」物語にコミットしていけばよい(あえての天皇主義、亜細亜主義)→だが、「あえて」を忘れてしまうと決断主義に陥る→「適度な強迫や抑鬱(物語)を設計するアーキテクトの要請」が必要→動員ゲーム的な衝突を調整しようという立場(現在)
エヴァ劇場版においてシンジは母親的承認のもとに全能感の確保される内面(自己愛、セカイ)への引きこもりを捨て他者であるアスカとの共存をを選択する。だがアスカはシンジを「キモチワルイ」と拒絶する結果に終わる。
この拒絶される結果が受け入れられないエヴァの子供たちは90年代末~ゼロ年代初頭にかけて徹底した自己愛への撤退を試みる。それがセカイ系である。
セカイ系とはつまるところ「結末でアスカに振られないエヴァ」である。
ヒロインは世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く。そして主人公は少女=世界によって承認され、その自己愛が全肯定される。90年代の心理主義のもっとも安易な完成形であるといえる。
「安全に痛い」自己反省が劇中に盛り込まれ免罪符として機能し、女性差別的な暴力性を自覚することもなく、むしろ「自分は反省しながら萌える優しい人間だ」と思い込む構造(レイプファンタジー)が支持された結果、セカイ系は台頭することとなった。
レイプファンタジー、つくる会の外国人差別、ニート論壇の疎外感、ノスタルジー系の歴史修正、はいずれも「究極的には無根拠にもかかわらず、あえて」「信じたいものを信じる」という小さな物語である。だがそれら相対化した物語を決断主義的に選択した人々にとっては超越性として機能する物語だとしても、彼らの神様は共同体の外側の人間、別の物語を信じる人間にとっては「信じたいものを信じる」安易さが暴力と差別を強化保存する「発泡スチロールのシヴァ神」に過ぎないのだと宇野氏は断ずる。
ゼロ年代とはこうして決断主義的に選択された「小さな物語」同士の動員ゲーム=バトルロワイヤルの時代だといえる。「何もしない」という選択すら動員ゲームへとコミットされてしまう。そして時代は911、小泉構造改革等の時代的背景も経て必然的にサヴァイヴ系へと移行していく。
・戦わないと生き残れない
大きな物語の失効は、小さな物語の共同性が乱立するバトルロワイヤルを生んだ。初期のサヴァイヴ系は「強大な社会」がおぼろげながら設定されていたが、時代を経るごとにその力を失墜させていき、動員ゲームの一プレイヤーに過ぎないように機能していく。
・私たちは今、どこにいるのか
動員ゲームを終わらせるためには、それを批判するのではなく受け入れることからはじめなければならない。ひとつの時代を乗り越えるにはそれに背をそむけるのではなく、むしろ祝福し楽しみながら克服することである。ゼロ年代の想像力とは「ポスト決断主義」とも言うべき新しい想像力に他ならない。
・宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか
「社会や歴史が共同体を裏付けてくれない世の中」=「ポストモダン状況下での郊外的空間」
一見「脆弱な共同体」ではあるが短期間でも人を支え、最後にはきっちり消滅すること、それが宮藤の作品の共通点。
「郊外化」とは、ポストモダン状況の進行が都市計画として実現されること。流通全体のジャスコ化により都市計画は地域格差を大きく是正し、人々の消費生活を多様にした(コミュニティの層の多様化)。
一方でそのハードウェアとなる街の風景を決定的に画一化した(アーキテクチャーの層の画一化)。
一見絶望的(物語が失効したかのように見える)に見えるこの状況もセカイ系と決断主義とでは受容のされ方が違ってくる。
池袋ウェストゲートパーク、木更津キャッツアイ、マンハッタンラブストーリー、この三作は終わりある日常であるからこそ、流動性の中で自由に選び取った共同体がたとえ歴史から切断されていたものだとしても「入れ替え不可能なもの(物語)」として機能する、ように設定されたドラマ(のようだ)。
これらは、碇シンジや夜神月のようにならないための想像力である。では、現在、そこにいる夜神月をとめる方法とは何か。
大きな物語とは国民国家的イデオロギーであり歴史的に個人の人生を根拠づける価値体系をさす。この40年は「モノはあっても物語(生きる意味、信じられる価値)のない世界」が進行する過程であった。不自由だが暖かい(わかりやすい)世界から自由だが冷たい(わかりにくい)社会へと変遷を辿る。
・データベースの生む排除型社会
「~する/~した」という行為=社会的自己実現ではなく、「~である/~ではない」という自己実現=キャラクターの承認によってアイデンティティを獲得するという回路が90年代の社会状況下の産物である。
キャラクターは物語から独立することが原理的に不可能。小さな物語の共同性はむしろキャラクターによって再強化される。キャラクターによる小さな物語は決断主義的な思考停止、棲み分け、つまり排他的なコミュニティと親和性が高いのだといえる。キャラは表現の空間からは独立できるが物語には隷属するしかない。(二次創作を繰り返すことでむしろキャラは多面性を帯び、トラウマすら強化されるのだということ。)
2000年代初頭から物語の想像力は小さな物語が小さな物語によって回収されるというバトルロワイヤル的様相を帯び始める。
・「引きこもり/心理主義」の90年代
この本においては、70年代以降段階を踏んで徐々にポストモダン状況が進行したのだということになっている。80年代は多文化主義と相対主義が台頭した時代とされる。だがそれはあくまでも相対主義と言う名の絶対主義に過ぎない。90年代は80年代から好景気と冷戦を引き算したものである。岡崎京子はリバースエッジにおいて平坦な戦場に死を導入することで物語を描いた。しかしそれは外部に頼ることの擬似超越性に過ぎない。ポストモダン状況において外部とは存在し得ない。全ては入れ替え可能だからである。90年代は歴史や社会が「意味」を供給してくれない世界、物語のない平坦な戦場として幕を開けた。文化人たちの多くは左翼的なロマンティシズム、あるいは新保守的なイデオロギーに回帰していった。そして時代は1995年という転換期へと以降する。
・「95年の思想」をめぐって
平成不況の長期化が決定的となりつつあった時期に発生した阪神淡路大震災(1月)は成長時代の終焉を象徴する事件として消費された。地下鉄サリン事件(3月)は人々の実存が本格的にポストモダン状況下の流動性に耐えられなくなってきたことを示した。そして新世紀エヴァンゲリオン(10月)が始まる。エヴァの思想はカルト的な「間違った父親(社会)に向き合うことを」を拒否し、「誤るくらいなら何もしない」という「引きこもり/心理主義」的想像力である。
「95年の思想」とは発泡スチロールのシヴァ神の誘惑に負けない強固な個(デタッチメント)の確立を目的とした、ある種のニーチェ主義的な傾向であったが、引きこもりの帰結はゼロ年代の決断主義に回収されてしまうこととなる。
宮台真司の変遷
終わりなき日常を生きろ→援助交際をする少女たちは売春に意味を見出しておらず自己の商品化にためらいのない新人類である→しかし人間は「物語(意味)」からは逃れられない→実は少女たちは身体の商品化に自傷的なパフォーマンスという意味を込めていた→では「あえて」物語にコミットしていけばよい(あえての天皇主義、亜細亜主義)→だが、「あえて」を忘れてしまうと決断主義に陥る→「適度な強迫や抑鬱(物語)を設計するアーキテクトの要請」が必要→動員ゲーム的な衝突を調整しようという立場(現在)
エヴァ劇場版においてシンジは母親的承認のもとに全能感の確保される内面(自己愛、セカイ)への引きこもりを捨て他者であるアスカとの共存をを選択する。だがアスカはシンジを「キモチワルイ」と拒絶する結果に終わる。
この拒絶される結果が受け入れられないエヴァの子供たちは90年代末~ゼロ年代初頭にかけて徹底した自己愛への撤退を試みる。それがセカイ系である。
セカイ系とはつまるところ「結末でアスカに振られないエヴァ」である。
ヒロインは世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く。そして主人公は少女=世界によって承認され、その自己愛が全肯定される。90年代の心理主義のもっとも安易な完成形であるといえる。
「安全に痛い」自己反省が劇中に盛り込まれ免罪符として機能し、女性差別的な暴力性を自覚することもなく、むしろ「自分は反省しながら萌える優しい人間だ」と思い込む構造(レイプファンタジー)が支持された結果、セカイ系は台頭することとなった。
レイプファンタジー、つくる会の外国人差別、ニート論壇の疎外感、ノスタルジー系の歴史修正、はいずれも「究極的には無根拠にもかかわらず、あえて」「信じたいものを信じる」という小さな物語である。だがそれら相対化した物語を決断主義的に選択した人々にとっては超越性として機能する物語だとしても、彼らの神様は共同体の外側の人間、別の物語を信じる人間にとっては「信じたいものを信じる」安易さが暴力と差別を強化保存する「発泡スチロールのシヴァ神」に過ぎないのだと宇野氏は断ずる。
ゼロ年代とはこうして決断主義的に選択された「小さな物語」同士の動員ゲーム=バトルロワイヤルの時代だといえる。「何もしない」という選択すら動員ゲームへとコミットされてしまう。そして時代は911、小泉構造改革等の時代的背景も経て必然的にサヴァイヴ系へと移行していく。
・戦わないと生き残れない
大きな物語の失効は、小さな物語の共同性が乱立するバトルロワイヤルを生んだ。初期のサヴァイヴ系は「強大な社会」がおぼろげながら設定されていたが、時代を経るごとにその力を失墜させていき、動員ゲームの一プレイヤーに過ぎないように機能していく。
・私たちは今、どこにいるのか
動員ゲームを終わらせるためには、それを批判するのではなく受け入れることからはじめなければならない。ひとつの時代を乗り越えるにはそれに背をそむけるのではなく、むしろ祝福し楽しみながら克服することである。ゼロ年代の想像力とは「ポスト決断主義」とも言うべき新しい想像力に他ならない。
・宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか
「社会や歴史が共同体を裏付けてくれない世の中」=「ポストモダン状況下での郊外的空間」
一見「脆弱な共同体」ではあるが短期間でも人を支え、最後にはきっちり消滅すること、それが宮藤の作品の共通点。
「郊外化」とは、ポストモダン状況の進行が都市計画として実現されること。流通全体のジャスコ化により都市計画は地域格差を大きく是正し、人々の消費生活を多様にした(コミュニティの層の多様化)。
一方でそのハードウェアとなる街の風景を決定的に画一化した(アーキテクチャーの層の画一化)。
一見絶望的(物語が失効したかのように見える)に見えるこの状況もセカイ系と決断主義とでは受容のされ方が違ってくる。
池袋ウェストゲートパーク、木更津キャッツアイ、マンハッタンラブストーリー、この三作は終わりある日常であるからこそ、流動性の中で自由に選び取った共同体がたとえ歴史から切断されていたものだとしても「入れ替え不可能なもの(物語)」として機能する、ように設定されたドラマ(のようだ)。
これらは、碇シンジや夜神月のようにならないための想像力である。では、現在、そこにいる夜神月をとめる方法とは何か。
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