ここ最近の思索の結論
2010年2月13日 エッセイつまりこう言いたいのだ。現実ってのは物語のように地続きではなくて断続を繰り返す、よくわからないやっかいな奴らなのだ。にもかかわらず我々は物語的文脈で世界を捉えようとする。それはある種の誤謬を生む源にもなっているのだと。
これってつまり象徴界と現実界の問題に過ぎないのだけど、問題は近代まで存在していた「大きな物語」が抜け落ちてしまい、想像界に無数のデータベースが組み込まれ、そこからアウトプットされるもの(象徴界)は全体性を喪失した「小さな物語」たちに過ぎないという点なのだ。
東さんの言う「動物化」という概念は個別で完結しうる問題ではなくて、人間間のコミュニケーションにまでその問題性を拡大している。僕らが他者を評価する際に「おまえのキャラって~だよね」というのはつまり他者の向こう側にデータベースを見ている事例としてはかなり象徴的なのだ。もともと物語内的であった人間の視線は更にメタなフィルターを通して包括され、他者の向こう側に各々で勝手な「萌え」やら「心理学」やら「非モテ」やらの人間不信データベースを構築して、それがディスコミュニケーションにつながる引き金になっているのかもしれない。
現代のコミュニケーションはデータベースの共有なくしては成立しえない。にもかかわらず我々個人が所有できるデータベースの容量などはたかが知れているし、更に言えば志向性すら存在しない。
そしてこれが異性間によるものになれば他者はより遠くて深い溝に覆われた到達不可能な存在になっていくのかもしれない。動物化ってつまりそういうことなのだ。非常に厄介である。
これってつまり象徴界と現実界の問題に過ぎないのだけど、問題は近代まで存在していた「大きな物語」が抜け落ちてしまい、想像界に無数のデータベースが組み込まれ、そこからアウトプットされるもの(象徴界)は全体性を喪失した「小さな物語」たちに過ぎないという点なのだ。
東さんの言う「動物化」という概念は個別で完結しうる問題ではなくて、人間間のコミュニケーションにまでその問題性を拡大している。僕らが他者を評価する際に「おまえのキャラって~だよね」というのはつまり他者の向こう側にデータベースを見ている事例としてはかなり象徴的なのだ。もともと物語内的であった人間の視線は更にメタなフィルターを通して包括され、他者の向こう側に各々で勝手な「萌え」やら「心理学」やら「非モテ」やらの人間不信データベースを構築して、それがディスコミュニケーションにつながる引き金になっているのかもしれない。
現代のコミュニケーションはデータベースの共有なくしては成立しえない。にもかかわらず我々個人が所有できるデータベースの容量などはたかが知れているし、更に言えば志向性すら存在しない。
そしてこれが異性間によるものになれば他者はより遠くて深い溝に覆われた到達不可能な存在になっていくのかもしれない。動物化ってつまりそういうことなのだ。非常に厄介である。
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