他者の死という概念を前に、人は喪に服すことでとりあえずの意味を棚上げするわけだけれど、つまりは我々にはどうしようが抗いようのない虚無だということだ。生は蓋然性によるものなのに生まれてしまえば最後。死だけは必然的に訪れる。
我々はこのどうしようもない悲劇性に対して時に涙を流す。

ところが同時に死は喜劇性をも含む。死をオブジェクトレベルの位相に移し対象化することで我々はそこにしばしば喜劇なるものを見出す。
毎度のごとく撃退されるバイキンマンやら特撮の怪人たちを見て子供たちはそのこっけいな死に様に笑い声を上げるのだ。

死は何も生産することのない変わりに、もっともニヒリスティックで超越的な魅力を秘めているのも事実で、そこには人間の生まれるつもりもないのに誕生させられた悲劇性と、にもかかわらず絶対的に死んでしまうという喜劇性が同居しているのだ。僕が舞城王太郎に惹かれる理由は死の喜劇性と悲劇性を同じ位相で行うことに成功した稀代な作家だからなのだろう。

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