物語と現実の関係性を少し
2010年1月12日 エッセイ コメント (1)圧倒的な現実を前に人はそこへいたるまでのメタ物語性(運命だとか因果だとか)を喚起する生き物なわけだが、それって実はただの思い込みに過ぎなくて、リアリティというものは常にその現在という時間性にだけ宿るもので。
俺はこんなトラウマ的過去があるから・・・
こんな過ちを繰り返してきたから
今までいい加減に生きてきたから、
このような失敗を繰り返してきたから
おそらくこう動けばこのようなつっこみが入るだろうから
=だから何も出来るわけがない。
という前提はメタ物語的には回収できる事象ではあっても、現実という空間においては適応不可能な前提なのではないかと考えている。
時が常に断絶を繰り返しているのであれば、歴史観や前提などは意味をなくす。
それを防ぎたくて人間は物語において物事の関連付け、伏線作り、メタファー作りに試行錯誤するわけだが、物語ではなくて現実に連続性があるかといえば、実はそうでもないのだろう。
結果が出てからそこに物語性を見出すことは簡単だが、だったら別のシナリオだってありえたはずなのだ。
だから、そんなもの関係なくどこまでも愚かしく挑戦し続けてもそれは何もおかしなことではないのではないか。ま、屁理屈だけどね。しかし、なんにせよ僕らが考えているほど、現実は物語的なシナリオは用意してはくれない。予定調和よりもはるかに面白いフィクションだとも言える。
人は現実において現実を生きているのではなくてある種の物語的なシナリオに沿って生きていると実感したい欲望を抱えているに過ぎない。現実が物語を作り出すのか物語が我々を突き動かす力となっているのか。なんという相関関係だろうか。面白いよなあ。
ラカンのことばを借りるのであれば
リアリティとは現実界のことで
フィクションと時間性は想像界と象徴界の出来事になるのだろう。
俺はこんなトラウマ的過去があるから・・・
こんな過ちを繰り返してきたから
今までいい加減に生きてきたから、
このような失敗を繰り返してきたから
おそらくこう動けばこのようなつっこみが入るだろうから
=だから何も出来るわけがない。
という前提はメタ物語的には回収できる事象ではあっても、現実という空間においては適応不可能な前提なのではないかと考えている。
時が常に断絶を繰り返しているのであれば、歴史観や前提などは意味をなくす。
それを防ぎたくて人間は物語において物事の関連付け、伏線作り、メタファー作りに試行錯誤するわけだが、物語ではなくて現実に連続性があるかといえば、実はそうでもないのだろう。
結果が出てからそこに物語性を見出すことは簡単だが、だったら別のシナリオだってありえたはずなのだ。
だから、そんなもの関係なくどこまでも愚かしく挑戦し続けてもそれは何もおかしなことではないのではないか。ま、屁理屈だけどね。しかし、なんにせよ僕らが考えているほど、現実は物語的なシナリオは用意してはくれない。予定調和よりもはるかに面白いフィクションだとも言える。
人は現実において現実を生きているのではなくてある種の物語的なシナリオに沿って生きていると実感したい欲望を抱えているに過ぎない。現実が物語を作り出すのか物語が我々を突き動かす力となっているのか。なんという相関関係だろうか。面白いよなあ。
ラカンのことばを借りるのであれば
リアリティとは現実界のことで
フィクションと時間性は想像界と象徴界の出来事になるのだろう。
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