違和感

2007年11月24日 アニメ・マンガ
京アニ版のCLANNADとかAirやKANONを見てて感じることは他者性の広がりだ。

麻枝作品のone→KANON→Air→CLANNADという流れにしてもその世界観は段階を経るごとに世界観を広げていっている。
oneの他者の交わりを拒絶してしまうかのように薄くなって永遠に消える主人公をその彼女だけは忘れず覚え続ける、というまさしくセカイ系の流れから
KANONでは家族の存在を示唆し、Airでは親と子、そして血の流れの歴史を語り、CLANNADではoneで見せた永遠の世界の具体的な世界観と街に住む人々の物語りをつむいだ。(リトバスはまだ出来てない・・・)
麻枝さんはこのように段階を踏んだ上で自分が作品で語りたいことの出来る限りを描き続けている。

では、京アニ版のこれらの作品のリメイクが原作の世界観をきちんと表現できているのか。若干の違和感を覚える。
なんだろうか、と考えてみたところ、つまりその、他社性の広がりなのだということに気づく。
画面が俯瞰気味に広がりのあるアニメという特性上、どうしようもないことなのかもしれないのだが、キャラクター一人一人が生きているのが分かる、という点が逆説的にセカイ系の流れを否定してしまっているように見えてしまう。

本来セカイ系作品の特性は他人が他人であってはいけない。他人=背景の一部でしかないわけだ。
エヴァンゲリオンは街に人がほとんど存在しない。この排他的で虚無的な感覚にセカイ好きな人はうっとりしてしまうわけだが、京アニ版のこれらの作品はその流れを時折無視してしまっている。
他者の広がりが増えれば増えるほどに、今回の(CLANNNAD8話)風子みたいな「徐々に忘れられていく可哀想な存在」という童話的でお花畑な物語には説得力が無くなっていく。(俺としてはoneが一番出来がいいと思える理由も低スペックゆえの説明不足なところがいいのかもしれない)
特に渚まで風子のことをずっと覚えているのは孤独な風子を主人公である智也=プレイヤーだけが覚えているという特別性が消失してしまうのでなおさら説得力がなくなるように思える。

この辺は麻枝さんと京アニの悲劇に対するスタンスの違いが現れているのかもしれない。
麻枝さんの作品の中には究極的に人間は一人なのだ、という強い自意識を感じる。
oneの時に感じた、低スペックゆえのとてつもない空虚感の感じられる流れは完全に中和され、セカイを断ち切って他者のいる世界と連帯を持っていく京アニ版の主人公たちではあるのだけど、それは京アニの作った作品のひとつのCLANNNADというアニメであって、麻枝さんが作品で訴えたかったものとはちょっと違うようなア、と思う。
これはこれで面白いし、いいんだけどね。

まあ俺のわがままとしては泣いた、とか泣ける、とかそういうのは正直イラネえんだわ・・・w
たまにゃ、誰もいないとこで程よく空虚に浸りながらうっとりしたい、てだけなんだけどね。春樹でも読んでろ、てか。サーセン

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