佐藤大がいってたんだけどブログやらネットで自分の思っていることを吐露する行為はクリエイティブじゃなくて「消費」なのだそうだ。ちょっと久々に脳天をぶち抜かれたような感覚が来たね、これには。いやほんと。

そもそも何処からがインプットでどこからがアウトプットなのかという問題もある。学校行って勉強すること。聞く、書く、覚える。この行為はインプットでありながらもアウトプットであったりもする。アウトプットすることでより強固なインプットを固める。
工場仕事してる人たち。彼らはルーチンワークを繰り返しながらもおそらく別のこと、今日の晩飯は何を喰おうか、昨日の北朝鮮問題はどーだった、とか考えてるわけで、これは一見アウトプットに見えるインプット作業の一貫でもありうる。

じゃあブログやネットでの発言はどうなのかを考えてみるとやはりこれはアウトプット(消費)であってインプット(クリエイティブ)であるともいえる。ただ、問題はこの行為は明らかに消費の比率がでかい。クリエイティブの面におけるレスポンスがほとんど期待できない。
その状態というのは、たとえば僕みたいに漫画描きを目指してるような連中は手軽に自分の本音を晒して納得の行くテキストを消費し続けていき手軽に作家性(と呼ぶにはおこがましいですが)を消費し続けてる可能性があるわけだ。無駄に。
僕が、テキストを組めが組むほどに本来物語りを作成したいという欲望が別のものに消化されていっていることになる。それは非常に困るのでできるだけ必要最小限のことしかネットに文章を垂れ流すのはやめにしておきたいところだなあ。思考パターンを記録していく意味で意外は使わないほうがいいのかもしれない。

別の話
ストーリーを製作する上で、「自分がストーリーを製作する」のか「ストーリーを製作するのが自分」なのかという考え方がある。前者の志向性はまず自分という作品ありきなのであってストーリーを製作することで自分自身を高めたいという感覚が重要になってくる。後者の指向性は自分はストーリーというコアを作り上げるために必要なオプションに過ぎないのだという考え方。これは両方ある意味で真理なのだろうけれど、自分はなるだけ後者でありたいと考える。そっちのほうが楽だからだ。

自分という主体は時間性に縛られていて変化し続ける物体なのでいずれ衰え朽ち果ててしまう。そんな中で人が何とか永遠を手に入れたいと渇望して出来上がった文明が自分の外部に記憶を記す行為なのだと思う。記録を続けることで今の自分ではない過去の自分にまた出会えるわけで、過去の自分というものは、あるいは現在の自分よりも素晴らしい自分である場合もありえるわけだ。その素晴らしい自分の断片は歳をとってからも色あせることはない。だから自分を客体として主体としての永遠なる物語に断片を投影させていくほうがきっと死ぬまで楽に違いないと勝手に思ってる。これはある意味で自分をちっとも大事にしない行為でもあるのだけれど。

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