DVD ビデオメーカー 2001/01/27 ¥15,540

キッズステーションで放送されてたのを何年かぶりくらいに観た。よくこれだけいかれた映像作品を富野監督はやってのけたものだと感嘆した。ガキの頭は吹っ飛ぶは、ヒロインは蜂の巣にされるは主人公は腕がぶっちぎれて爆死するわで。最後は皮肉にしか思えない転生ラストだし。あれ絶対転生じゃないよな。飛翔した先ではまたも煉獄の炎でみんなやきつくされてるに決まってんだ。

富野監督は僕が「悪意を探求する欲望」といってるものについて単純に「業」という言葉で説明している。
バッフクランの総統であるオッサンは己が業を理解してもなお欲望を抑えられない。自分の過ちを認めてもなお正当性をあきらめきれない人間だ。これが避けようもない代替可能な悪意の正体である。
コスモたちの場合だとイデ(神)の意志を知ってなお抗うことをやめられなかったという点がそれにあたる。無駄であるとわかっていながら、自分たちが間違いを犯した罪びとであることを自覚してもなお運命に逆らわずにはいられなかった。その逆らうという行為に意味を見出しているわけじゃない。イデを超えて生き延びられるかもしれない、という欲望に執り憑かれ、運命に逆らったのだ。

そして避けられようもなく訪れるのは戦争による種の絶滅であり、その過程の原因は、どうしようもない悪意の根源としての業が原因だとこの作品は述べている。
僕たちは自分が間違えていることを自覚してなお、自己の正当性の主張をやめられない。そして本来的で客観的な善の精神は夢幻泡影に帰する。もしくは悪の根源へと自動的に転化される。

これらの例を考えると思考と業とはまったくかけ離れたものであると実感せざるを得ない。僕らが科学や言語学や論理学、哲学や思想などの知性もったところで富野監督のいう、この業は超えられない。
むしろそれらは更なる誤解の溝を深める不完全性の定理wでしかない。それらを知ってアンガージュする人たちは、その知りすぎた頭に一度問い直してみるほうがいいだろう。果たして自分に間違いの可能性がないのかという点、と、その主張するという主体性のプライドは本当に必要なのかという点。人がよりよく生きることにロジックやインテリジェンスは必ずしも必要なわけじゃない。だから、そこに相互理解が必要なわけでもない。いいやつ、悪いやつ、というもののくくりに思想性とか宗教とかが介入してくるのは本来おかしな話なんだと思う。

が、そうは言っても人は社会的な動態であり、誰かの影響なくしては生きていけない。他人に悪意を向けられれば更なる悪意で対抗する。果たして僕らの脳みそはめぐりにめぐってまた「間違い」へと到達する。知りすぎてまた人間不信に陥り、疑心暗鬼になる。悪意は自意識の中で過剰に増殖し世界を真っ黒に彩る。だから直視できない、してはいけない。

そんな不完全性の世界に生まれてしまった人類たちのかくも悲惨なラストでこの物語では閉められる。ハルマゲドンを回避するためのメシアは存在しない。いや、存在はするが、当のメシアは率先して人間を排除しにかかる。人間の排除こそが恒久的な平和だと言い切る終わらせ方は本当に身も蓋もない。

思うんだが、富野監督はこんな話を作ってしまって、どうして生きてらのだろうか。完全に人間を否定しきった物語を作ってしまって、普通の精神じゃちょっと生きてられないんじゃないかと思うのだけどw

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