個性という名の没個性
2005年8月11日 エッセイ「個性という名の没個性」が蔓延してる昨今でございますが、だからと言ってそれらの没個性集団が没個性同士に寄り添って生きていけるわけがないと思う。個性的なもの同士の「孤独性」の埋め合わせは出来るだろうけど、寄り添い、近づき合うごとにだんだんと価値観、趣味の違いを認識しあった本人たちは近づきすぎるあまりに関係が破綻して引き離される運命にあるのだろう。
多分人間はある一定以上の、自我を自分なりに形成してしまうと誰かに寄り添って生きていけなくなるのだと思う。
調停的絶対者、つまり神がいたころの僕たちは自意識や懐疑心にとらわれることなくそれこそ「動物」のように共同体にコミットしていけた。でも文明が発達して生きるために努力をしないでいいようになり、プラクティカルな意味では共同体の必要性をなくした僕たちには、その委ねられる場は酷く空疎で、何の恐怖を生み出すかわからないおぞましいものとなってしまった。
人は目的がないと組織を作れないという。目的があるから組織があるのだ。目的をなくした組織はその場にとどまる必要性をなくし解体されていく。そして本来存在した宗教的共同体(生きる理由を与えてくれる組織)という組織すらも相対化され、擬似家族的空間でさえもネタ化されてしまった。こういった悲しいシニシズム社会に何か救いはないんだろうか。
多分、本当は一人一人が、ただ、寂しいから一緒にいてよ、仲良くしてよ、と言えばいいんだろう。でも、なんでかな、僕ら一人一人がもっちゃった、似非イデオローグは他者を拒絶するように作られてしまった。どこへも帰結できない。帰っていけない。
多分人間はある一定以上の、自我を自分なりに形成してしまうと誰かに寄り添って生きていけなくなるのだと思う。
調停的絶対者、つまり神がいたころの僕たちは自意識や懐疑心にとらわれることなくそれこそ「動物」のように共同体にコミットしていけた。でも文明が発達して生きるために努力をしないでいいようになり、プラクティカルな意味では共同体の必要性をなくした僕たちには、その委ねられる場は酷く空疎で、何の恐怖を生み出すかわからないおぞましいものとなってしまった。
人は目的がないと組織を作れないという。目的があるから組織があるのだ。目的をなくした組織はその場にとどまる必要性をなくし解体されていく。そして本来存在した宗教的共同体(生きる理由を与えてくれる組織)という組織すらも相対化され、擬似家族的空間でさえもネタ化されてしまった。こういった悲しいシニシズム社会に何か救いはないんだろうか。
多分、本当は一人一人が、ただ、寂しいから一緒にいてよ、仲良くしてよ、と言えばいいんだろう。でも、なんでかな、僕ら一人一人がもっちゃった、似非イデオローグは他者を拒絶するように作られてしまった。どこへも帰結できない。帰っていけない。
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