大人も子供信じねーよ馬鹿野郎
2005年6月26日 エッセイ ニヒリズム的視点で見ると絶対的なアイデンティティ(神、実存)なんてものは 形成しようがないので、よって社会でよく言われる「成長したよき大人」なんて ものは定義しようがない。単なる幻想だし、システムによる先鋭化されたオートマトンを精製しているだけで、それは変化であって成長でもなんでもない。抑圧的で傲慢な命令形でしかない善良なる大人は「偉い」ではなく「偉そう」な人間でしかない。結婚することは偉くないし、社会人になることも何ら偉くはない。それはわれわれの時代の人間が「そうである」と資本主義のシステムになぞらえるように、つじつまを合わせるように、道徳やら法律やらを改変していっただけに過ぎない。昔はブサメンだろうがセックスできたし、恋愛なんて糞メンドクセー仲介なしに結婚が出来た。そうしたほうがその「時代的に」便利だったからだ。
単なる一時代のパラダイムにコミットして 「偉そう」にしてるだけなのが「大人」の実態だ。いまだに虚構の平和の象徴ともいえる経済や法律なんてものに自己を委託して安心している人たちは、監視されるマゾヒズムで神を実感している。神は死んだのに神の亡霊はいつまでも現実世界を跋扈していく。そしていつしか「大人」に目覚め、「成長」したかに見える高圧的なその人たちは自分たちが子供の頃何をされたかも忘れて、「成長せよ」という強制を促す。
元長征木が「成長などしてやるものか」という結論の論文をファウストで書いてたんだけど、じゃあその高圧的なよき大人にならないで社会を機能させることは可能か?という問いに関して何か具体的な方策があるのかというとそれがなかなか難しく・・・。
フーコーは監獄を法律違反者を非行者という狂気に変えてしまうのだと指摘してましたよ。
単なる一時代のパラダイムにコミットして 「偉そう」にしてるだけなのが「大人」の実態だ。いまだに虚構の平和の象徴ともいえる経済や法律なんてものに自己を委託して安心している人たちは、監視されるマゾヒズムで神を実感している。神は死んだのに神の亡霊はいつまでも現実世界を跋扈していく。そしていつしか「大人」に目覚め、「成長」したかに見える高圧的なその人たちは自分たちが子供の頃何をされたかも忘れて、「成長せよ」という強制を促す。
元長征木が「成長などしてやるものか」という結論の論文をファウストで書いてたんだけど、じゃあその高圧的なよき大人にならないで社会を機能させることは可能か?という問いに関して何か具体的な方策があるのかというとそれがなかなか難しく・・・。
フーコーは監獄を法律違反者を非行者という狂気に変えてしまうのだと指摘してましたよ。
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