時々自分がとんでもなく冷たい人間なんじゃないかと感じる。今日の仕事の終際、祖母が具合が悪いというので、歳を考えるとちょっとしたことでも一大事になりかねないので家まで送っていったのだけどその間、僕にとって一番の優先事項が何だったのかと言うと実は「腹が減った」とかだったりして、祖母への心配と敬いの心は何でもいいので早く晩飯にありつきたい、という気分に押され気味だったりする。

僕は性根が多分「悪人にあこがれる甲斐性なし」だと思うので普段から毒を吐く訓練をしとかないとすぐ優男(駄目男)になってしまうので必死こいて悪ぶったこと書きまくって頑張ってるのだけど、んな機械的散文的なことばっか頭の中で思考してたせいか、これがもともとの本質なのかは微妙なところなのだけど現実での祖母の死やら両親の死、祖父の死、友人の死を目の前にしたとき悲壮にくれてやる自信が正直なところ、ない。

母方の祖父が死んだときも悲しまなかったし(ちょっとは悲しかったけど)、例えば明日、自殺願望の気配ちょい有りのとても仲の良い友人が首くくって逝きました、とか言う話を聞いても僕は機械的に頭の中を整理してしまうのではないかという気配がある、ような不安。

けれども最近思うのは、僕の人生におけるテーマはもともと「現象」であったのではないかと言うことで。世界から自分自身に至るまでの一括りをすべて「現象」として捕らえたい欲求があるわけで。僕はあくまで僕という現象でしかなくあくまで世界(セカイ)とやらを構成しているひとつのパーツに過ぎないのだと思いたいし、自我とか信念とか、そういう観念的な何かにすがりたくない。

自我の拡大がそのまま共同体の形成へと連なるから(だって故郷に帰結する、とか奮起してるナショナリスト気取りの人間だって結局自分自身が幸せになりたいだけだし)結果として人間全体は幸福になれないし、もともとありえもしない幸福なんて概念にすがらなくてはいけなくなる。救済も混沌も人が勝手に二元論化してバランスを図ってた便宜的な言葉でしかなかったはずなのにいつのまにかそこに帰属意識を感じてしまってる人たちが近代の傾向だったと思える、とか考えるとやっぱり僕は人間を「現象」以上のモノとして捕らえたくないと考えるようになった。それくらいに皆が情念を抑えてくれないと、本当に「実力」があるはずの人が可哀相だし、頑張った(フリ)をしてる人が認められたり、ヘンな人情話とかへりくだりが人間関係に浮かび上がってくるのは限りなく残酷で醜悪だと思えるわけで。(矛盾してるなあ

・・・
あー、いつのまにか話が遠くに逝っちゃったな。つまりこういう機械的かつ臨機応変な人間力を身につけたいと思ってるうちにいつのまにか人情味の薄い頭も薄い人間になっちまったのかなあ、と。でも最近の人って僕みたいな人増えたと思うのね。

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