セカイ

2004年1月8日
セカイ系と呼ばれる物語作品、別の言い方をするとポストエヴァンゲリオン症候群と揶揄されてるこのセカイ系と言う分野についてちょっと考えてみた。そもそもセカイ系のセカイ、と漢字で書く世界とどう違うのかについても仮説をぶち上げてみる。あくまで僕の勝手な仮説なのだけども多分

セカイ=自分が見ている世界(主観)
世界=神の視点(客観)

相対化させるとこういうことを言ってるのではないかと思われ。で、人ってのはセカイから世界へと視点を切り替えることは永遠にかなわないからこの分野を突き詰めてくと結局行き着く果てはメタ構造の心象セカイになっちゃうのではないかなと。

自分→彼女→世界へとまっすぐ世界そのものの構造に直結するセカイ系は間違った認識であり自分→彼女→家族→社会→地球→宇宙こそが正しい認識のあり方である、というのがセカイ系批判をしてる人たちの常套句なのだけれどもこれってでも、社会とか法とかそういう枠組みは人間が生きていくために意図的に定義したものでしかないものなわけで、主観を取っ払わずに見たときのものの本質としてはセカイ系の描いてる縮図こそが正しいものの見方ともいえなくはないのではないかと。社会に帰属することでしか生きていけないのが人間の真実なのだけどそれってやっぱ哀れだと思うのね。いくらよりそって、孤独感紛らわしたって結局人はセカイの枠からは死ぬまで脱却できないから。セカイは一人の人間の一人のセカイを超えることは永遠にかなわないから。

すでに社会にコミットされてしまったオヤジからすればノスタルジーを思い起こさせ、まだ社会の荒波を知らん若者には端的に絶望と希望を提示してくれる作品達、セカイ系。セカイ系=ヒキコモリ文学にもなるのも、また事実だろうけどセカイから目をそむけてしたり顔で世界情勢や政治、社会を語ってみるのも結構寂しいような気がする。孤独は容認するしかないよなあ。

※ああ、でも自分→彼女→世界、てあたりはまだ救い求めるのが分かって萎えるよな。クロスチャンネルみたいに亡命者として孤独を享受してしまえよ、とか思ったりもする。

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