例えばこの前、示したようなイデオロギーとか東の言う「大きな物語」などを渇望する人のあり方ってのは絶対なるものへの欲望のそれと類似してるのではないかなと思う。宗教も、オカルトも、主義や思想、王制、天皇制、民主制、革命、文化、文明とまあ色々と共同体に影響を及ぼしそうなものを揚げてみても全ては絶対的なるものへの欲望に還元されるのではないかなという。

大きな物語=絶対論(真理、答え、生きる意味)

への欲望があるかないかが人間と動物の違いの決定的なものの一つにあるのではないか。でも絶対の真理なんていうのは今の時代にさえ存在しないし結局誰一人としてその答えたりえる真理を指し示しすことが出来た人間はいない。「大きな物語」的な主張をアジってみせて民衆をだまくらかすことは出来たみたいだけど。

苦しい時代に突入すれば便宜的なイデオロギーをもってして人を先導するカリスマが必ずといっていいほど登場するわけなんだけど、でもそれはやはり真理ではなくて祭り(闘争)が終局を迎えるとやがて虚構へと移り変わり、また人は絶対者を探し回り、終わらない生きる意味への渇望が始まる。そして存在しない敵に向かって(虚構へ)異議申し立てする人間は必ずまた出てくる。スノビズム(俗物主義)とかシニシズム(犬儒主義)と呼ばれるものらしい。それは生きる意味への畏怖の心であり、虚構の敵対者を増長させる結果につながる。そしてまた虚構は現実へと姿を変える。現実のイデオロギーに回帰した人間は再び生への欲望が満たされる。平和への欲望も芽生える。そして恐怖の根本たる「生きる意味」は考えなくて済む。

闘争は繰り返されることになるけど、そもそも、現実世界を変革しようともくろむことと自己の内閉世界の浄化を図る活動とのどちらが現実的であると言えるのだろうか、と。

動物化というのはデータベースにチンコをおったてる行為のことを言うらしいからそりゃ世界は沈静化して非常によろしいことなんだろうなあ。ま、でも現実問題としては既に虚構のレベルで言える敵は現実化しちゃってるみたいだから完全なる動物化への道は断たれてしまったと考えていいだろうね。

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