言い換えるなら誰か俺のことをオートマトンではないと証明して見せろ、てことだ。多分誰も僕を人形(オートマトン)ではない、とは証明できないだろう。解体でもするか?そして肉体が、脳が同じなのだからオマエは人間である、と。でもどこに自己意識が潜んでいたかなんて機械的には証明できても、そもそも機械的なるものの具体性があいまいになってくる。数式も言葉も誰が創ったんだよ?という。僕が僕であることの証明というのは結局僕自身でしか体感としては認識できないことであって、例えば僕が「オマエのことが好きだ〜」とか言って相手ノ女の人が迷惑に感じるか、照れるのか、はまあ別にどーでもいいので無視しよう。で、相手ノ女の人は僕が自分を好いてくれている、と認識するのだろうけど実際僕が本心からこの人のことを好きかどうかなんて表層の問題でしか理解し得ない、ていう。もしからした僕はホモかもしれない、その女を殺害するためのカモフラージュなのかもしれない、実は後ろの人に告白してて勝手な自意識過剰だったのかもしれない、というのは全て僕にしか分からないことだ。

そして、もしかした僕や他の人たちはただオートマトンであるかもしれない。そして「あなた」自身をコントロール下におき、あるへんてこな実験を行おうとしてるのかもしれない。ある日突然この世界はドッキリだったんです、というオチもありうるかもしれない。
もしかしたら自分のイメージした世界がそのまま世界、足りえてるのかもしれない。そんなことはない、自分はそれほど複雑怪奇で広大な知性は持ち合わせていない、とは言っても、意識化に現れていないだけで深層心理の実はさらに深いところに神なる存在が潜んでるかもしれないよ?その神の夢の中の主人公が自分であり、周りの全ては模型だったんです、というオチもありうるかもしれない。

まあぶっちゃけ逝っちゃうと俺の見えているこの世界が虚構ではないと誰が言える?ということで。こんなことは大分昔から言われてたのは知ってたけど(押井守とか)一つのストーリーテリングに過ぎないと思ってたので深く考察したことはなかったのだけど。考えてみればこれは怖いことだ。

他者性の完全に廃絶された世界において存在はただ一人自分のみ。しかもそうではない、という証明は誰も出来ない。人は永遠の孤独を「受け入れるしかない」というジレンマはとても恐ろしいものだと自覚できるようになった。昨日「キノの旅」とか言う犬儒派臭い、自分探し臭い、はっきり言ってあまり好きではないアニメを観賞していたところある作家のオッサンが「人は自分自身が主役である、という虚構を生きてるだけだ」といってたのが微妙に印象に残った。とは言ってもキノだけは傍観者な立場をとっていたのはちょっとキモかったけど。オマエも傍観されてんだろうが、というか(まあ、キノそのものの虚構性も提示はされてたんだけど)

どっちにしろ僕が消えた瞬間世界が消えない、保証なんてどこにもない。友人が「人には体温があるのだから全てが虚構だなんてあるわけがない」という情緒あふれるいい言葉を言ってたのは覚えているけど、それは便宜的な生きる意味の解釈でしかない。でもその便宜上の定義にすがるしかないのも小生というちっぽけな存在なのです(いつの間にやら富野語に転化)

そりゃね、こんな小賢しいことを色々こねくり回して色々考えたって、女の子の尻を見れば欲情するし、腹は減るし、臭いのはいやだし、男らしくありたいという欲望の矛盾もあるし、他人の上に立って見下ろしたい気持ちだってある。きっとそれは実感であるはずなんだ、子を産み育て死んでいくことこそが、生きる目的なんだと信じたいのも確か。というかそれにすがってないと頭がカチ割れそうなんで、とりあえずの現状においての僕の方向性は「いつか誰かのために死んでやる」という感じ。そして神に向かってザマー見ろ、て。今のちっちゃな脳味噌ではそれくらいしか言い及ぼせそうもないのが現実。現実。現実

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