ここ数年、将棋界が電王戦に取り組み始めたころから将棋を始めたのだが、藤井竜王凄いな。彼の指してはAI的な読み筋に人類としては最も近い領域に到達しているそうなのだが、何やら奇妙な気分にもなってくるのでなんだろなあこれ、てなっている。

彼は何かのインタビューで「盤上の物語は不変である。」と答えているのだが、これはつまり、人間の指し手がAIから学んだものであっても盤上で物語を紡いでいるのは人自身であり、そうであれば毎回別のドラマが展開されているわけだから、それは永遠に不変的に続いていくものだ、という話をしているのだと思われる。
だが、その言葉から感じられるジワリとした違和感は、AIの局面把握に物語性は存在しないということを藤井さん自身が知っていて、あえてそのようなことを話している点ではないかと思う。

彼は「もっと強くなりたい。」と常にインタビューでは答えているが、その先にある景色、帰結は「盤上の物語の終わり」につながる細くて孤独な一本道のようなものではないか、と抒情的には解釈できたりもする。
21世紀は神の死、やら人間の終わりに次いで「物語の終焉」を迎える世紀になるのも、また必然なのかもしれないなあ。しかしそれはそれでそういうものだからね。大きかろうが小さかろうが物語で社会を駆動するのは凄く危険なことだとこれまでの歴史が証明しているからね。しょうがないね。
浮気や不倫についてふと思ったことを書く。

基本的に恋愛ってかなりパワーがいるしただでさえ、時間的なリソースも必要になるのだが、浮気とかって要するに本命と別の対象に2倍のコストをかけて挑むことになるんだよなあたぶん。
要するにかなりの暇人だったり、よほどの金持ちか、苦しいことを全部他人に押し付けて自分は楽なポジションをキープするような卑怯な人間か、あるいは嘘で人生を塗り固めてはったりの中で生きている人間でもない限り無理なんじゃないか、と思ってる。

恋愛することが少なかった自分だからそう思ってるだけだろうか。
でもそんなカジュアル的に惚れたり惚れなかったりあっさり別れたりくっついたりするパワーってやっぱ自分には無理だなあ、て思ったりした。
同性の友人とですら話したりするのが億劫な自分にはもともと向いてないのだろうな恋愛と不倫。
良く思ってたんだけど議論というものはあまり意味はない気がしている。
議論はただの確認作業で相手が思っていることを訂正したり共感しあったりできるものではないのかもしれないな。

人間が見たいものは事実の羅列ではなくて物語のプロセスなわけなので、自分の中の主軸から外れる視点というものはそもそも見えないし、見たくもない。そこに対話の意味を見出すことはできなくて、そこから先に本当に必要な作業は人間の紡ぐドグマではなく、事実確認的に判断できるなにがしかなんだけどその能力は残念ながら人間には備わっていないだろう。今までの歴史、今現在の社会的状況が、その事実を逆説的に確定してしまっているようにも感じられる。

人間が人間を説得し賛同させるのはやはり難しいことだし、コスパが悪すぎる。それでもなお議論を続け、物語的な誘導を果たすことは可能かもしれない。でもそのような過程で導かれる結論は、どんな時も対話じゃなくて、洗脳なんだな。或いは一方的な暴力となって収束し、帰結していく。
久々にツイッターでも開こうかとアカウントを探してたらいつの間にか削除されていた。ちょっと反社会的なことでも書こうものならこうやって言葉が封殺されていく時代になったのだなあとしみじみ感じた。

ところで最近は金のことばかり考えている。物語を楽しんだり音楽を楽しむ感性が極端に衰えているようだ。要するに楽しむ思考と体力が残っていない。

お金のことを考えるしかない生活を続けているがお金があった時に、何かやりたいことがあるかと問われれば特に何もないわけだ。自分が作ったわけでもない借金を返すためにアホみたいに毎日、自己を殺して働き続けている。家族の為に。社員の為に。

何かもう何のために生きてきたのかよくわからない日々だ。でもそういうもんなのか。近代的自我なんて邪魔なものを意識してはいけないのかもしれない。
自分はとても弱いし頭が悪かった。であればこの結果もしょうがなかったとしか言いようがない。
鬼滅の刃DVDを2巻まで借りて観た。
とても感動した。

何が良い、てこの主人公の炭治郎が自分とその家族の未来を信じて直向きに頑張ってるとこだね。炭治郎はずっと負けたり挫折を味わってるんだけど自分の可能性を一貫して信じているし、くじけそうになっても気力を振り絞る。
この振り絞る勇気に若さを感じてしまうのは俺が精神的に衰えている証拠なんだけど元々自分の可能性を信じるのに若さって別に必要ないし、いつになってもやれることを粛々とやるための意志と知的な体力を持ち続けることに言い訳をしてしまうのはやっぱり違うのだよね。

俺は歳をとったから自分に興味を持てなくなってしまったのではなく、いろいろな苦労や敗北で挫けてしまっているだけなのだと思う。挫けるなと、もっと自分に期待をしろと。自分をもっと好きになってやり、そのことを恐れるな、と自分に言い聞かせてこれから奮起したいなと思った。
炭治郎はとても良い子だ。ああいう真っ直ぐな人間を目指して日々を送りたいなと思った。

生活リズム

2020年7月1日 日常
不規則な日々が続いている。

風呂を後回しにしがちなのが睡眠不足を引き起こす
要因になっていやしないだろうか。

帰ると妻子がまだ風呂に入っていないのでそれを待ち、飯を食ってぼーとしているうちにウトウトする。だんだん風呂に入るのが面倒くさくなってネットサーフィンなどをする。そして夜中に風呂に入ってまた目が醒めまたしばらくネットを見てしまう…などを繰り返しているうちに寝る時間が1時過ぎとか2時過ぎになってしまっているので、まずは風呂を最優先に考えて動きを制限下のほうが良いのだろうか。夜中に洗濯物を干したり皿洗いしたりもしているので、それも後回しにせず率先して終わらせるべきなのだろう。

しかし疲れているのよなあ…。

いろいろ書く

2020年6月30日 日常
日頃からなにがしかアウトプットすることが脳のスタミナをつける為に良いらしい。
そういえばいつの間にやら考えることを放棄してたな俺は。

無駄な思考のデフラグをして効率化を図っていたつもりが、単に脳の運動不足を引き起こす結果になっていた可能性が微レ存であったかもしれない。

気になったことは気にかけて努めてログを残すように心がけようね。

コロナ

2020年4月18日 日常
コロナやばい。

いやコロナがやばいんじゃなくて、コロナに恐怖の感情で向き合っている人間らのヒステリーやばい。
ネット社会と民主主義が合わさるとここまで人類は脆弱になってしまえるのかという驚き。
太平洋戦争下の日本もだんだんこんな雰囲気から加速度的に狂った方向に舵を切ってしまったのだろうね。
しかも、今回まずいのは世界規模で間違った方向に舵を切ってしまったことだと思う。各国の偉い人たちはコロナという恐怖に対して声の大きい人間たちがどのような反応を見せるのか見誤ってしまった。

収束が早かろうと遅かろうと広がろうと広がらなかろうと、そもそもやれることはコロナの恐怖を日常として受け入れ、経済活動に向き合うことしかなかったし、それは今現在も変わらないことだし、粛々と社会を継続するほかなかったはずなのに、人類は世界的にコロナを恐怖し、抑え込むことに執着してしまった。

最早それは不可能な段階まで来ていることを理解すれば自ずと次は二次被害を防ぐ舵を切れるはずなのだが、まだそれにすら気づくことが出来ない、というかその現実すら見たくないのだ。

こんなことを繰り返しているから社会は毎度毎度崩壊してきたのだなあ、と変な感慨にふけってしまう。このままの見通しだと人類はそう遠くない未来、結構ガチめに滅んでしまうかもしれないなと、思っている。
この自分の見込みが間違えであってくれることを祈りたい。

日記を書く

2018年10月6日 日常
まだ日記が残っていたことにびっくりした。

今後また定期的に何がしかを書いて行こうと思う。
もうとんがっていられる年齢でもないので高尚な何がしかではないだろうし、ただのおっさんの人生を呪う文章にしかならないかもしれないがそれはそれで良い。

ここ最近はといえば、今自分が考えていることを整理する上でツイッターは案外不向きなのではないかと感じている。外向けのポストにどこまで自分の本音が含まれているのかというとちょっと純度が低いのではないかなと。

正確にはブログ自体もソーシャルネットワーク空間に無差別爆撃してるようなもんなので本当の意味での本音を吐露する部分とは言いがたいかもしれないが、それでもツイッターのポストよりは自己のもつ怨念なり想念なりを吐き出すには向いているであろうという考えに至った。

この歳になって、日記なんぞ書いていても何も面白いことが思い浮かばないし、人に読まれたくて書くものでもないのでひたすら自己を反芻するだけのダラダラとした文章になるであろうことは今から想像に難くない。とりあえず生きてるのがひたすら辛いです、ということを誰にもいえないんだよ俺。友達に言ってもしょうがねえし。家族に言っても不安にさせるだけですからね。
そういう辛くて誰にも漏らせないことはここの亜空間にひっそり吐き捨ててなるべくスッキリなれるようにやって生きてきたいなという、そういう所存でまた始めることにした。
というわけで心身の状態が良くなろうと悪かろうとここでは基本的には30代半ばの先の見えないおっさんの自己言及的なものが中心となるであろうということをあらかじめ予告しておきたい。

誰によろしくというわけでもないですが、(俺に)後悔日誌をどうぞコンゴトモヨロシク。
映画
ドラえもん 新約のび太と鉄人兵団
あしたのジョー(2011年公開 実写版)
マイバックページ
仮面ライダーアギト
仮面ライダー龍騎
トランスフォーマー
ドーンオブザデッド

小説
虐殺器官
古い本だ。今更読んだので印象は薄い。2ちゃんねるはこれから衰退の一途を辿るのだろうなあ。

ロリータ

2010年12月14日 読書
ナボコフのロリータ。
やたら文体が難解で、とにかく読みにくかった。当時の文壇を有る程度理解していないとわからないようなネタも多く、(ドフトエフスキーにも見られた傾向だが)要するにもっとリテラシーを磨くしかないのだろうな、という感想。

確か大学のときに読み始めて全部読み終わるまで今までかかったのだっけ。うーん。

暴力教室

2010年12月11日 映画
酷い映画だった。70年代の学園のリアリティてあんなんなのか。漫画なら受入れられる暴力沙汰も実写でとなるとそのイカレ具合にクビを傾げたくなる。校舎内で火炎瓶投擲とか、正気の沙汰とは思えない。学校燃えたらどうすんだよアレw

いよいよ追いつまった校長が刀振り回すというのもわけがわからなかった。まず土下座するなりして謝罪するところだろうアレは。しかしアレが70年代の精神性なのだろうな。ある意味で思想なき社会における動物化の正しいあり方のような気もする。

女が出たら即レイプなあたりが男根主義的だが、同時にげんなりした。アニメや表現が規制されたらまた70年代の精神性が芽吹いたりするのだろうか。勘弁してくれろ。暴力は大変危険が危険で危険なのでやめようぜみんな。
数学は万能じゃない、ていうそれだけの話をやたらと難解に説明してて論理学やら数学にあまり造詣の深くない自分はたいそう読むのに苦労した。
半分も理解できてればいいけど、自信はないな。
まあなんだ。ゲーデルマジぱねえっす!

・・・次行くぞ次。

地下室の手記

2010年12月2日 読書
ヒキコモリ文学だった。自身の行い全てを断罪していく生き方を選択するのであればこのような生き方しか出来ないんだろうな確かに。
そしてその姿勢にシンパシーを感じてしまう時点で俺も同類なのだろう。
久々にいい試合を観たという感想。
何より素晴らしかったのは長谷川のスタミナと打たれ強さ。

階級を上げたことで前より確実に強くなったはず。
これならフェザーのトップクラスとも十分に渡り合えるはずだと確信した。

贖罪

2010年11月13日 エッセイ
安全な個室から対岸の屑社会人どもを批判していた過去の自分。実際に屑社会人になってヒステリックな連帯感に組み込まれながられも、時折、俗物的な悦びを感じてしまっている現在の自分。どちらにも共通していえるのは等しく屑だということだ。

こうなることは目的を失った時点でわかりきっていたことではあるけれど。予想していなかったのは、自分が思っていたより適応力がそれなりにあって、あれほど毛嫌いしていた生臭い党派意識のようなものを遺憾なく発揮してるらしいことだ。俺は1人ではなかった。悪い意味で。

だから、とりあえず子供の頃の自分に謝罪すべきかとも思ったけど、子供の自分も大人になるとやっぱり俺になるので、何度繰り返してもやっぱり屑は屑なのだ。なるほど、これが永劫回帰か。
では子供の頃の自分を殴りに行けばよいのか。何故生まれてきたのかと説教をするのか。これも違う。やっぱり屑になるのは変えられようもない。

かつて過去と未来を連ねて現在を肯定的に引き受けようという思想が根付いていた時代がある。実存主義。しかし無理だ。だから人は祈るのだ。神に。萌えキャラに。

11月2日の日記

2010年11月2日 映画
最近観た映画。

ロッキー
ロッキー2
ロッキー3
エイリアン
エイリアン2
タワーリングインフェルノ
未知との遭遇
容疑者Xの献身
アバター
鉄男
インセプション
借り暮らしのアリエッティ
インビクタス 負けざる者たち
ウォール街
ガンダム00
僕は漫画家になるのを諦めてしまった人間なので、これからはより批評的、哲学的に「物語とは何であるのか」ということについて探求する欲求が深まるであろうことが予想される。なので、そのことについての現状認識のようなもののまとめを記しておこうと考えた。


・端的に言ってしまえば物語とは「願い」のようなものだと解釈している。こうであればいい、こうであってほしい、という願いが物語を形成し変容させ、ドグマティズムへと昇華させていく。
だから、現実と物語には、当然乖離がある。

現実に象徴界(物語)なるものは存在しない。それは我々が描いている仮想現実(物語)に過ぎないのだから。我々は世界の断片だけを収集し、世界そのものをさも「こうである」という風に総括を執り行うが、それ自体がフィクション(物語)であり、つまりはドグマなのだ。
では物語では認識を間違えるのかを問えば、万事がそうではないと思う。というより人が物語を認識しないことは原理的に不可能なのでそこは、きちんと折り合いをつけていくほかないのだ結局のところは。

ただし、付け加えるとすれば、物語と現実は常に相関関係がある。現実が物語を生成し、また、物語は現実を侵食し、包括する。人々の物語がシンパシーで連結されることで、神にも似た何かが巻き起こり、現実が決壊する瞬間は確かに存在する(ように見える)。だからそれが何であれ、人は祈りを捧げずにはいられないのだ。


・僕は著作権、肖像権、というものがあまり好きではない。
創作物は生成されたそのときに本体である創作者からは離れ、一つの独立した「何か」へと転化する。その転化した何かは、世界と創作者を繋ぐためのデバイスとして機能するのだと言われがちではある。

しかし僕はそれは違うと考えている。物語はコミュニケーションの道具ではない。物語は創作者から独立した瞬間から、別の不特定多数の人間の想像界に意味を投げかけるものへと変貌するのだ。そのとき、他者と創作者が見ている物語媒体のそれは似ても似つかないものになっているはずで、多くの誤配を生む。

創作物とは、つまり人間の文明において、唯一コミュニケーションを切断したまま世界に風穴を開けるための手段なのだ。だから創作物における物語とは世界に対するコミットメントではなくてデタッチメントでなければならない。
半分直感的な話なので間違えているかもしれないけれどおそらくはそうなのだ。作家は外界への欲望を絶えず切断し続けなければいけない。僕はそう思う。
自分が生み出した、自分ではない何者かが世界のアーキテクチャとして機能している状況は、メタフィクショナルかつ愉快なものでなければならない。そう考えている。
コミュニケーションにおいて自身の優位性を誇示することにしか興味のない連中に僕は心底嫌悪感を催す。高圧的な人間は敵であると感じる。
しかしながら人間の本質と共同体は常にそのようなパワーポリティクスによって成り立っている。
愛も、友情も、優しさも、全ては普遍性を装うだけの私的利害の関係性によって成り立っている。
だから僕は総じて人間が嫌いなのだ。
生まれてくる価値はないとまで言い切れる。

それでも何故、物語(創作物)を愛すのかといえば、そこには人間の自意識(エゴ)から開放された純粋な「願い」のようなものだけが存在するからだ。廃れた校舎や誰も寄り付かなくなった廃墟の美しさにも通ずるものがある。
物語の存在しない世界に意味を見出すことは出来ない。

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