数年前の話だが舞城王太郎の小説論みたいなので「作家が小説を書いてるのではなく小説が書き手を選んでいる」といった感じの文章があったのを覚えてる。
これを読んだときどうにもしっくり来なかったけど今なら良く分かる。実にしっくり来る言葉だ。

俺が選んだのは漫画ではあるのだけどいつか神が舞い降りてくるようなぶったまげた作品を描きたいのだ、と意気込んでた頃はそれはそれは壮大で無理のある話ばかり描こうと頑張ってたと思う。そして思うように行かず頓挫する。
「やっぱり俺には素晴らしい作品を描くような才能はないのだ」と肩を落とす。で、しばらく描かなくなる。これの繰り返し。
描こう、描こうと気負ってばかりで結局何も進まない。

そういうことではないんだな、とようやく気づけた。
プラトンのイデア論や東浩紀のデータベース論にも通ずる部分があるかもしれない。形而上の向こう側にある数ある何がしかの作品がこちら側に存在する書き手を選別し、そして描けと命ずるわけだ。
描くに値しない作家はもちろん選ばれることはない。「その作品」を描くことに選ばれるかどうかは要するに神のみぞ知るといったところなのだろう。
だからいずれ選ばれたときにきちんと描けるよう、「作品」の足を引っ張らぬよう自分のステータスを磨いておく必要がある。
作家は作品の生みの親なのではなくて、作品に使われるマシーンなんだろう。だから心は常に冷静に閉じてゴミのように働き続ける心構えが必要になる。

だってそういう心持じゃないと世に存在する数ある名作の数々に自分程度の矮小な自尊心なんぞ藻屑となって消えてしまう。世にある作品群のひとつを「描くことが出来る」という楽な気構えを持って取り組めたらそれが一番いいし健康的だと思う。

まあこれはあくまで俺の心構えに過ぎないから誰かに押し付けるものではないのだけど。

コメント

nophoto
a
2007年8月31日0:19

歴史に残るような作品は天啓みたいなのが
おりてこないと駄目なんだろうな。

カメルーン
カメルーン
2007年8月31日13:01

後時代の流れとか運とか、まあいろんな要素が絡むんだろうね…

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