高速道路とかで100キロ以上の速度で走ってるとたまに思うのが、このままブレーキ踏まなかったら確実に死ぬな、ということで。何気に自分の身の回りにはいつでも死ねる環境というものは整っている。死の実感がない世代だとか揶揄られる割には、かなり死は隣り合わせにあると思う。
で、運転の話に戻るのだけどずうっと100キロ以上で走ってると次第に慣れてくるのが死の恐怖への麻痺で、100キロで走ろうが結局、自分が死ぬわけがないという独我的な錯覚。んなわけないのに。
思うのだけど、戦場にいる兵隊さんたちもこれと似たようなものな感覚じゃないだろうか。
銃弾が飛び交う中、走り抜ける兵士が思い描くイメージはハリウッド映画の銃撃戦。最初はいつ自分が死ぬかわからない恐怖にさいなまれるのだけど、いつしか感覚は麻痺して、自分が死ぬことが信じられなくなっていく。長く戦っていれば戦っているほどに、周りの仲間が死ねば死ぬほどに。自分だけは死なないのではないかという錯覚はより強固になっていく・・・。という風に。
死が日常に転がっている生活というものと死が非日常であるかのような生活と、それほどに違いがあんのかな。病気のようなヒキコモリ殺人者とアッラーの神を信じてるサイコ集団と、それを狂気として弾圧する監視者のかたがたとどういうふうに死ぬことへのアプローチが違うのだろう。
エピクロスが言うにはそもそも死は体験できない、てのはなしの方向でw
で、運転の話に戻るのだけどずうっと100キロ以上で走ってると次第に慣れてくるのが死の恐怖への麻痺で、100キロで走ろうが結局、自分が死ぬわけがないという独我的な錯覚。んなわけないのに。
思うのだけど、戦場にいる兵隊さんたちもこれと似たようなものな感覚じゃないだろうか。
銃弾が飛び交う中、走り抜ける兵士が思い描くイメージはハリウッド映画の銃撃戦。最初はいつ自分が死ぬかわからない恐怖にさいなまれるのだけど、いつしか感覚は麻痺して、自分が死ぬことが信じられなくなっていく。長く戦っていれば戦っているほどに、周りの仲間が死ねば死ぬほどに。自分だけは死なないのではないかという錯覚はより強固になっていく・・・。という風に。
死が日常に転がっている生活というものと死が非日常であるかのような生活と、それほどに違いがあんのかな。病気のようなヒキコモリ殺人者とアッラーの神を信じてるサイコ集団と、それを狂気として弾圧する監視者のかたがたとどういうふうに死ぬことへのアプローチが違うのだろう。
エピクロスが言うにはそもそも死は体験できない、てのはなしの方向でw
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