ataraxiaをプレイしてつくづく実感として、いまだに心に響いてるのはどんなにみっともない自分でもそれを請け負って生きてかないといけない。それを誰かや何かに全部預けて、もたれかかってちゃいけない、てことだ。

ずっと対象に寄り添い、嘘つきのまま生きるならそれもありだろう。信仰者として、その期待と違う結果を見たときに「良くも俺を裏切ったな」となって、また次の信仰対象を模索することを繰り返すうちに何も信じられなくなってもいいのならそれもありだろう。
そして「自分は死ぬまで報われない」というルサンチマンが目の前の世界をゆがめるだろう。世界から隔絶された「美しい自分」という欺瞞を内面に構築させるだろう。

目の前の世界を肯定的に捕らえたいのなら、人を信じたい、今までの人生を肯定したいと切実に願うのなら、負け犬の自分を自覚しても、みっともなくても、それに立ち向かっていかないといけない。
その信仰の対象を嫌いならない為にも、肯定するためにも、そういった欺瞞で取り繕う自分自身と戦わなくちゃいけない。誰がなんと言おうとも、という断固たる決意、てやつでw

まあ人間て即物的なもんで、結果が伴わなけりゃ自分すら信じられなくなっちゃうんだけどね。バゼットのカッコ良かったところは真実としての世界が=死そのものであろうとも「それでも肯定できるという」答えに行き着けたところだ。
実は消えるのはアンリだけでバゼットは真実の醜い自分と向き合った見返りとして救済されるわけなのだけど。本当に何もないアンリはそれでも笑って消えていける。どうして笑っていられるのかといえばその後のバゼットの人生はきっと最良のものであるだろうという確信があるからだろう。結果として、もしかしたらまたバゼットがどうしようもない人生を送ったとしても、それはアンリには関係のないことで、ただそう信じられる強い自分というものを抱いて死(消滅)んでいけることが重要なのであって。

奈須きのこ氏の凄いところは、まさにこういったどうしようもなく救いがたい惨めな存在(オタク)に対して真正面から向き合って本気で勝負する姿勢だと思う。惨めでもみっともなくても自分自身のために戦いつづけろ、ていうね。この人自身も必死に戦ってるからこそ言えることなのであって。

ある意味、hollow ataraxiaはアムロ(自分にとっての世界はどうしようもないけどちょっとだけ希望はあるかも)→シンジ(希望も糞もない。自分の周辺の世界は終わってる)→アンリとバゼットw(終わってるけど、向かい合って這いつくばってでも生きていくべきだ。それが良い結末であるかどうかは問題ではない)という3段階のオタクの実存進化のあり方を示した作品だったんではないだろうかw
やっぱ誉めすぎかw

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