ノスタルジーという言葉が思い出せなくて6時間くらい身悶えしてた日
2005年10月31日 エッセイ人は主体的な目的をもたずして活動可能かということを考えてみた。答えは、可能だが精神的にものすごく辛いということだ。子供がわけもわからず泣くのはその主体性が何かを知らない為だと思う。同じくあまりに言語的思考が稚拙な人間はその「主体性の不在」というわけのわからない不安に押しつぶされるのが怖くて他者を常に求めつづけ、プライドとか主体性とかおざなりにベタベタと24時間誰かに擦り寄って、寄生して生きている。
人間は眠らずにおきている限りは常に何かを思考しているわけだから、そのつど目的をもたない場合の意識の思考は内側に傾く。生きていることの不安。死に対する不安。存在そのものの無根拠性に対する不安。だからその真実から目をそむける為に僕たちは現実なるものと対峙し戦い抜く。考えなくていいよう、死と向き合わなくていいよう。無矛盾の公理の証明が成り立たないことと向き合わなくて済むよう。
だからいわゆるよりよく生きるということは現実と向き合って他人と交わり生きていくということなのだと思う。つまり考えない、直視してはいけないということ。そして証明は不可能であるがやはり僕たちにとっての現実とは目の前に広がる現実そのものでしかないということだ。カントのいう物自体ではないし、そこには神もいないし、証明も不可能だけれど、紛れもなくやはりそれは現実だといえる。僕らの意識にとっては。
でも現実を直視してもやはり人は疲れる。だから物語や音楽で自分の救われない心に救済を与える。
仮想現実を直視しても現実を直視しても、それで生きられるほどに人間は器用には出来ちゃいない。一番してはいけないことは物事の真実を直視しようとする試みであり、絶対性を求める欲望だろう。
だから、そのつどに目的をもって生きればいい。それが永遠でなくても絶対的な愛でなくてもその瞬間に思ったことや感じた他人との絆とか感動とか喜びだけは多分本当なのだという欺瞞を抱えながらアイロニカルに。
だってどんなに理性が死にたがっていても腹は減るんだし。逆もしかりで、どんなにお腹いっぱいでも死にたいという理性的な衝動からは抜け出すことは出来ない。
人間は眠らずにおきている限りは常に何かを思考しているわけだから、そのつど目的をもたない場合の意識の思考は内側に傾く。生きていることの不安。死に対する不安。存在そのものの無根拠性に対する不安。だからその真実から目をそむける為に僕たちは現実なるものと対峙し戦い抜く。考えなくていいよう、死と向き合わなくていいよう。無矛盾の公理の証明が成り立たないことと向き合わなくて済むよう。
だからいわゆるよりよく生きるということは現実と向き合って他人と交わり生きていくということなのだと思う。つまり考えない、直視してはいけないということ。そして証明は不可能であるがやはり僕たちにとっての現実とは目の前に広がる現実そのものでしかないということだ。カントのいう物自体ではないし、そこには神もいないし、証明も不可能だけれど、紛れもなくやはりそれは現実だといえる。僕らの意識にとっては。
でも現実を直視してもやはり人は疲れる。だから物語や音楽で自分の救われない心に救済を与える。
仮想現実を直視しても現実を直視しても、それで生きられるほどに人間は器用には出来ちゃいない。一番してはいけないことは物事の真実を直視しようとする試みであり、絶対性を求める欲望だろう。
だから、そのつどに目的をもって生きればいい。それが永遠でなくても絶対的な愛でなくてもその瞬間に思ったことや感じた他人との絆とか感動とか喜びだけは多分本当なのだという欺瞞を抱えながらアイロニカルに。
だってどんなに理性が死にたがっていても腹は減るんだし。逆もしかりで、どんなにお腹いっぱいでも死にたいという理性的な衝動からは抜け出すことは出来ない。
コメント