御大の講演会に行ってきた。北陵高校主催の講演会なので会場の9割は高校生。御大の熱演も思春期真っ盛りの無気力青年たちには届かないらしく、4割くらいは寝てたwまあ隣の人としゃべくらないだけマシか。
講演前は俺も含めたキモオタの列が出来ててなかなかの趣だったよ。ノースリーブのアウトドア派気取りのメガネ君とかハゲ隠しの為のバンダナ君とか5割はデブだったり6割はメガネだったり、田村ゆかりみたいなファッションした変な人とかそういうのでほとんどの列が形成されてた。中には単なる興味混じりで来た主婦の人とかいて、どっかの宗教セミナーに間違えて紛れ込んだ迷い子のような表情をしておられました。
で、話の内容だけど、いつものようにスポンサーサイドへの愚痴から始まり、いきなりニュータイプ論を語りだしかと思うと室町時代とか江戸時代の話をしだして、遺伝子工学的にどーのこーの、薀蓄が始まって、あっという間に時間がなくなって、最後は「もうすぐ死ぬ予定なので」とか黒いジョークをまくし立てて台風のようにさっていかれました。御大超素敵…
スピーチの内容で気になった点が、遺伝子の話と戦争と美の相互関係のところ。遺伝子的に優勢劣勢はあまり関係なく環境的に人の能力は決定されるというのが今日の遺伝子学の見解なのだとか。俺もその点は同意で、天才とか言われる人たちの回りはだいたい天才が集まって出来てんだよね。いい環境下で生きてる人はやっぱりいい人間になる。ただ、それが先天的(ある種運命的)であるか後天的(受動性)であるかの判断がとても難しい気がする。馬鹿の回りが天才ばっかりだと馬鹿はやっぱりその集団からはオミットされるんじゃないかなと。じゃあ、その馬鹿がいつから馬鹿なのかというのは結構線引きが難しいんじゃないかなと。生まれたときから馬鹿なのか環境がウンコだったから馬鹿なのか。
もうひとつ気になったのが、人が戦争を求める潜在意識は、美的なものを愛でる感覚で抑制できる、代替できる、という論について。富野監督は人間はずっと戦争しないで停滞した社会に生きてると飽きてきちゃってまた人を殺したくなる、すべてをぶっ壊したくなる衝動を人は遺伝子的に持ち合わせているのだという。その理由は狩猟民族であったことが引き金になっているだとか。だけど自然的な人間(狩猟民族)ではなく反自然的な人間社会を形成した人間は、美を求める心でその戦争への欲求を去勢できるのだという。「おまえら、フィギュアとかプラモデルとか好きだろ?そういうことだよ!」とか言ってたなw
華道とか能とかそういうのが古来から日本にあった美学的なもので、その延長線上にアニメがあったっておかしかないじゃん、てことが言いたかったのかなあと俺は解釈したんだけどどうだろう?
で、話を戻すと、決して完結し得ない美的な欲求を永遠に循環させていくことが本当に争いを抑制させる鍵となるのかという点では、かなりのレベルで同意なのだけれど、今、問題になってるのはそれによって生まれる全体性と個人の解離なのだと東浩紀なんかは指摘してんだよね。皆が美を追求してって先鋭化していくと個人と個人の文化性も美的感覚もどんどん遠いものとなっていって、一緒に暮らしてる家族にでさえ僕らは共感できなくなっていく。いわずものがな社会に対する共感なんてミジンコほどにも沸かなくなっていく。こういった全体性の共感による統治体制の規律訓練型権力(全体の思想に従わないと袋叩きにあう)のあり方がもはや通用しなくなっていて、今は環境管理型権力(社会にコミットしないと飯が食えねえ)になっている。価値観の多様性を認めた上でのセキュリティ体制となってる。動物のように脊髄反射的に萌え少女にハアハアする俺らの欲求をまさしくその動物のように管理するというわけだ。イデオロギーではなくて、良く分からないカオス的な視線が僕らの病理的な側面をえぐっていく。どっからが病気かなんてやっぱり言及不可能なんだけども。
果たして、戦時下の状況と、誰もが苦しそうに「強制的に」生き長らえ「させられている」美を永遠に循環させていく状況と比べて、どっちが悲惨なのかは結構微妙な気がすんだよね。押井守でいうところの真実としての戦争と偽りの平和の対立に似てんだけど。平和という状況の胡散臭さは中東とこちら側の軋轢にも見て取れるとおりで、いつか終わりが来るんじゃないか、という終末思想的なものの均衡のバランスで成り立ってて、今にも壊れそうで、もう生きてるだけで辛くなるし。かとイってアンガージュするだけアホ臭いというアイロニーもあるしね。ああウンコしてー
講演前は俺も含めたキモオタの列が出来ててなかなかの趣だったよ。ノースリーブのアウトドア派気取りのメガネ君とかハゲ隠しの為のバンダナ君とか5割はデブだったり6割はメガネだったり、田村ゆかりみたいなファッションした変な人とかそういうのでほとんどの列が形成されてた。中には単なる興味混じりで来た主婦の人とかいて、どっかの宗教セミナーに間違えて紛れ込んだ迷い子のような表情をしておられました。
で、話の内容だけど、いつものようにスポンサーサイドへの愚痴から始まり、いきなりニュータイプ論を語りだしかと思うと室町時代とか江戸時代の話をしだして、遺伝子工学的にどーのこーの、薀蓄が始まって、あっという間に時間がなくなって、最後は「もうすぐ死ぬ予定なので」とか黒いジョークをまくし立てて台風のようにさっていかれました。御大超素敵…
スピーチの内容で気になった点が、遺伝子の話と戦争と美の相互関係のところ。遺伝子的に優勢劣勢はあまり関係なく環境的に人の能力は決定されるというのが今日の遺伝子学の見解なのだとか。俺もその点は同意で、天才とか言われる人たちの回りはだいたい天才が集まって出来てんだよね。いい環境下で生きてる人はやっぱりいい人間になる。ただ、それが先天的(ある種運命的)であるか後天的(受動性)であるかの判断がとても難しい気がする。馬鹿の回りが天才ばっかりだと馬鹿はやっぱりその集団からはオミットされるんじゃないかなと。じゃあ、その馬鹿がいつから馬鹿なのかというのは結構線引きが難しいんじゃないかなと。生まれたときから馬鹿なのか環境がウンコだったから馬鹿なのか。
もうひとつ気になったのが、人が戦争を求める潜在意識は、美的なものを愛でる感覚で抑制できる、代替できる、という論について。富野監督は人間はずっと戦争しないで停滞した社会に生きてると飽きてきちゃってまた人を殺したくなる、すべてをぶっ壊したくなる衝動を人は遺伝子的に持ち合わせているのだという。その理由は狩猟民族であったことが引き金になっているだとか。だけど自然的な人間(狩猟民族)ではなく反自然的な人間社会を形成した人間は、美を求める心でその戦争への欲求を去勢できるのだという。「おまえら、フィギュアとかプラモデルとか好きだろ?そういうことだよ!」とか言ってたなw
華道とか能とかそういうのが古来から日本にあった美学的なもので、その延長線上にアニメがあったっておかしかないじゃん、てことが言いたかったのかなあと俺は解釈したんだけどどうだろう?
で、話を戻すと、決して完結し得ない美的な欲求を永遠に循環させていくことが本当に争いを抑制させる鍵となるのかという点では、かなりのレベルで同意なのだけれど、今、問題になってるのはそれによって生まれる全体性と個人の解離なのだと東浩紀なんかは指摘してんだよね。皆が美を追求してって先鋭化していくと個人と個人の文化性も美的感覚もどんどん遠いものとなっていって、一緒に暮らしてる家族にでさえ僕らは共感できなくなっていく。いわずものがな社会に対する共感なんてミジンコほどにも沸かなくなっていく。こういった全体性の共感による統治体制の規律訓練型権力(全体の思想に従わないと袋叩きにあう)のあり方がもはや通用しなくなっていて、今は環境管理型権力(社会にコミットしないと飯が食えねえ)になっている。価値観の多様性を認めた上でのセキュリティ体制となってる。動物のように脊髄反射的に萌え少女にハアハアする俺らの欲求をまさしくその動物のように管理するというわけだ。イデオロギーではなくて、良く分からないカオス的な視線が僕らの病理的な側面をえぐっていく。どっからが病気かなんてやっぱり言及不可能なんだけども。
果たして、戦時下の状況と、誰もが苦しそうに「強制的に」生き長らえ「させられている」美を永遠に循環させていく状況と比べて、どっちが悲惨なのかは結構微妙な気がすんだよね。押井守でいうところの真実としての戦争と偽りの平和の対立に似てんだけど。平和という状況の胡散臭さは中東とこちら側の軋轢にも見て取れるとおりで、いつか終わりが来るんじゃないか、という終末思想的なものの均衡のバランスで成り立ってて、今にも壊れそうで、もう生きてるだけで辛くなるし。かとイってアンガージュするだけアホ臭いというアイロニーもあるしね。ああウンコしてー
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