時間が過去、現在、未来のどの点においても矛盾した概念であることを考えた上で、暫定的な時間としてとりあえず人間が認識し得るのが現在のみであると考えてみると、多分人はいつ死んでも後悔を免れないのだろう。

今、死にたくないと思っている人間が認識している今とは今以外の何者でもなく、その現在には過去も未来も含まれていない。

安らかに死に行くかのように見える老人にとっての今、とは膨大な過去の遺産によって築かれた今なのではなく、現在の意識により不確かに捏造された過去を圧縮して進み行く「今現在のみ」であると考えれば、老人とて、潔く今、死んでも構わないと思える人間なんてそうそういるものじゃないと思える。

後悔というものは輝かしい過去であるか暗い過去であるか、というものはあまり関係のあるのものではなくて、死を意識したそのときに訪れる現在の意識過程だろう。

良く「この歳になるのはあっという間だったよ」といい歳した爺さんから聞くのだけどあたりまえだろう。そのお爺さんが認識しているのは「過去からここに至る今」という膨大なデータの集積によるものなのではなく「捏造された過去を今が認識している」という状態なわけだから。今、この瞬間しかそのお爺さんには認識がないのだ。つまり、感覚的には、ぜんぜん長生きしていない。
今生まれた意識は次の瞬間には消失し、また別の今が生成される。今は常に生まれては死滅しまた生成される。2秒後において2秒前の自分はすでに消失し、その2秒後の自分も3秒後には死んでいる。常に今だけが生まれては消え、死んでいく。

幸せの今を実感しているなら一瞬の凋落としての死に後悔するし、苦しい現在を進行していれば、どうして今死ななければならないのか、俺は今幸せではないのに、という後悔が生ずる。自己の死という最悪のエピローグによって自分の物語は収束していく。救いがあるとすれば、多分いつエンドロールが来て終わったのかすら認識せぬままこの世から消失するということくらいか。

過去は今と何も繋がっていない。現在は過去から未来へと向かうベクトルの中間地点に立っているのではなくただ存在しているのは現在だけなのだと考えると、未来への展望とか過去の記憶とか、すべて無意味に思えてくるけど、実は今ここにある現在すら過去と未来がなければ生成されようがないわけで、相互に不確かなのだよな。
ただ、後悔だけが轍の後に取り残された雑草やら昆虫やらの残骸のように横たわっているというか。ああ…重いな。

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