オルタナティブとか代替可能とかいう単語にも飽きてきたんだが、最後にもう一文記しておきたい。代替可能な事象として特徴的なものに「嫌悪の対象」というものがる。これは結構恐ろしいもので、人間は決して幸せになれない生き物であることの根源的な理由がここにあると思われる。

つまり人はどんなに幸せであっても、何かに対して嫌悪感を抱かずにはいられない、という事実だ。人は常に何かの悪害、悪意、悪そのものというものを欲求している。どうして悪を欲求するか。それは自分が潔癖でありたいから、とか、悪を見下し相対的に自分の社会的立場を上位に見せたい、といった選民的な欲求だったりするのだろう。

しかし問題の本質はそういうことじゃなくて、人にとっての嫌悪の対象(悪)は、その人間がどんなに幸せであろうとも、裕福であろうとも、愛に満ち足りていようとも、常に主観的にではなく、見えない何かの意志に従って、なるべくして代替されていく、ということなのだ。常に仮想敵なり、非難する対象を索敵しなければ人は正気を保っていられなくなる。

集団や組織であれば内部に意図的に悪が見出され、その人物がスポイルされるのではなし、生きたまま公開私刑を味わうという必然が生み出される。内部にリンチ(弱者をいたぶり、組織全体の士気を煽る意味がある)の存在しない組織なんてない。大なり小なり、ではあるが。リンチがなければ、組織は成り立たない。上位の人間にとって弱者の人身御供を用意する行動は示威行為を意味する。組織を統括する手段としてやらなければならない活動。
個人であれば戦争を憎む人間。孤独を憎む人間。飢餓、宗教、政治、思想、人種、悪意、トラウマ、病気、組織、人間、オタク、ヘテロ、ホモ、家族、兄弟、他人などに対する嫌悪。そして自分自身、果てには幸せそのもの(没落の欲求)への嫌悪感が生まれれる。
これらは果てしなく人の内部から沸き立つものであって未来永劫、人の歴史において決して消え去ることはないだろう。存在不安とか自己疎外とか、そういったタームで説明できるかもしれないけれど、人は常に嫌悪の対象を求めてやまないのだ。
決してすべてを愛すことは出来ない。嫌悪するものが、悪の性質が自分という物語にコミットしてこないと生きられないのだ。

この悪を求める情緒量は人それぞれに大小はあるだろう。少ない人間はそれだけ情緒量も欠落してるのかもしれないw(俺みたいにw)
それでも人は、「叩かなくてもいい対象」まで叩かずにはいられないのだ。平和とか愛とかお祭りだとか楽しくて愛しくてたまらない大切な思いが、代替品として捏造された「嫌悪の対象(悪意)」に叩き潰されてしまう瞬間が現実にはある。この瞬間こそが人間の一番愚かしい側面ではないかと思える。どうあっても悪意は消えない、消せない。意図的に、そして必然的に、意志と関係なくして僕らの物語(実存)が悪の代替品を見出していくのだ。

本来的に、その嫌悪の対象が善であったか悪であったかは問題ではない。その物語にとって悪である、と決定付けられていることがおぞましいのだといえる。

神の見えざる手はこういうことを言うのかなと思う。だって、個人の意識とは関係なく、なるべくして、フィルターの向こう側に押し込めた、意識でも自我でもない言いようもない絶望感が人を取り込んでしまうのだから。その絶望感からは死ぬまで開放されることはない。いかにして目をそむけるかだけであって。直視する人間は早々に死んでしまう。

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