やっぱり何度か考えてみるに事象は代替可能なものと代替不可能なものをはらんでるのだなと思い直した。
黒人はやっぱりボクシング強いし日本人は柔道が強い。すべてがそのように代替可能であって、あるようにある、のであるなら住んでいる土地や環境で人間の生き方や宗教がそうそう違ってくるはずもないのに、一神教と多神教ではやはり理念も考え方も違う。その人種によって向いている文化も違うのだ。これは代替不可能なものだ。
トラウマが必要以上に恐ろしければ、やっぱりそれは人生のバックボーンとなるものではなく、記憶を封印したいほどの重たい真実としてのトラウマになるだろう。主体的な側面だけじゃなくて環境いかんでも、人間は左右されて生きていく。
周りが秀才ばっかりだと自分も影響されて賢くなるし、馬鹿ばっかりだとやっぱり自分も馬鹿になる。中には突然変異体の天才が時々生まれるけれどこれも蓋然的でしかなくて確定的なわけじゃない。ただ、いつの時代もやっぱり天才は天才だっただろう。これもやっぱり真実で。
だから、環境のせいにしていじけるのも、自分の実存の至らなさを嘆くのも、どっちも真実性の側面をはらんではいるけど、どちらも真実それ自体には至らないということだ。
で、多分、僕たちの世代は現在の自分の至らなさを「環境のせいにしていじける」ような人が多いような気がするんだな。もう少し自分の主体性に問題がなかったかを省みるべきなのではないだろうか。つまり、僕が自身のトラウマだと思っている程度の高校時代の苦痛なんて、なにくそ根性で跳ね返せるレベルの絶望でしかないんじゃないかと思うわけだ。なにくそ根性でひっくり返したい。
黒人はやっぱりボクシング強いし日本人は柔道が強い。すべてがそのように代替可能であって、あるようにある、のであるなら住んでいる土地や環境で人間の生き方や宗教がそうそう違ってくるはずもないのに、一神教と多神教ではやはり理念も考え方も違う。その人種によって向いている文化も違うのだ。これは代替不可能なものだ。
トラウマが必要以上に恐ろしければ、やっぱりそれは人生のバックボーンとなるものではなく、記憶を封印したいほどの重たい真実としてのトラウマになるだろう。主体的な側面だけじゃなくて環境いかんでも、人間は左右されて生きていく。
周りが秀才ばっかりだと自分も影響されて賢くなるし、馬鹿ばっかりだとやっぱり自分も馬鹿になる。中には突然変異体の天才が時々生まれるけれどこれも蓋然的でしかなくて確定的なわけじゃない。ただ、いつの時代もやっぱり天才は天才だっただろう。これもやっぱり真実で。
だから、環境のせいにしていじけるのも、自分の実存の至らなさを嘆くのも、どっちも真実性の側面をはらんではいるけど、どちらも真実それ自体には至らないということだ。
で、多分、僕たちの世代は現在の自分の至らなさを「環境のせいにしていじける」ような人が多いような気がするんだな。もう少し自分の主体性に問題がなかったかを省みるべきなのではないだろうか。つまり、僕が自身のトラウマだと思っている程度の高校時代の苦痛なんて、なにくそ根性で跳ね返せるレベルの絶望でしかないんじゃないかと思うわけだ。なにくそ根性でひっくり返したい。
コメント