を考えてみた。
たとえばAさんの子供が病気や怪我などで亡くなった場合に、Aさんが骨髄移植が出来れば生きられた、とかもう少し早くワクチンが届いていれば、とかの強い思念に突き動かされて、この悲劇を社会的に知ってもらいたい、子供の死を無駄にしたくない、とその系統の思想の主義者となった場合、Aさんは子供が死に至らなければ主義者にならなくて住んだのではないかと思えてくる。Aさんにとって「子供」の存在は代替不可能だったのではないかと。
でも、本当にそうだろうか。実はAさんにとって子供の死はもともと深層的に潜伏していた主義者の素質を目覚めさせるためのスイッチでしかなくて、その悲劇によってスイッチが入っただけだとは考えられないだろうか。子供が亡くなっていようがいまいが、遅かれ早かれ何がしかの思想に目覚め、Aさんは主義者になっていたのではないかという意地悪な予想が成り立つ。
ある、それまでは誰にでもやさしくおおらかに接っしていた人物のBさんが、巨額のお金を騙し取られて一気に人間不信に陥ったとしよう。このトラウマは代替不可能なものであって、お金を騙し取られなければ、その人間は人間不信に陥らずに済んだのではないかと思えてくる。
でも、それだけ優しいBさんに今までそういった類の不幸が舞い降りなかったことのほうがそもそも不自然なことだったとはいえないだろうか。遅かれ早かれ、Bさんは何がしかのトラウマに没入させられ、人間不信への道をたどる羽目になったんじゃなかろうか。
Cさんが特に求めるべくもなく巻き起こった出来事によって、唐突に啓蒙されたとしよう。それまで宗教家でもなんでもなく、ただの一般人だったCさんが、ある時間に、たまたま、その場所を訪れたことによって、その出来事に出くわし、啓蒙され、宗教家となった、と仮定してみよう。そのとき、その場所でその出来事に出くわさなければCさんは宗教家の道をたどることはなかったのか?
いや、やっぱり遅かれ早かれ、Cさんは潜在的に宗教家になりたいという欲求を持っていて、何がしかの代替可能なスイッチによって宗教家の道を選んでいたと考えれるような気がする。
ある不運な交通事故(何も過失のない)で死んだDさんという人がいたとして、もしその後生き続けていればF1の世界的なドライバーになっていたかもしれないDさんは、遅かれ早かれドライバーになることなく何がしかの不運に見舞われて死んでいたといえるだろうか。
それはいえないだろう。不運な事故に見舞われなければDさんはシナリオどおりちゃんとF1ドライバーとして名をはせたはずだ。
しかし、実はこの出来事そのものに関しては代替可能だったのではないだろうか。つまりDさんに代わってEさんというF1ドライバーが生まれ、間接的に大衆の求めるヒーローは代替される。Dさんはいなくても大衆が求め続けたヒーローとしてのF1ドライバーは代替されて必然的に生まれ出るわけだ。
でも、さすがにここまで反駁を繰り返すと昨日の思索には若干無理があった気がしてくる。気がするだけなので、もう少し考えてみるしかないけれど・・・
たとえばAさんの子供が病気や怪我などで亡くなった場合に、Aさんが骨髄移植が出来れば生きられた、とかもう少し早くワクチンが届いていれば、とかの強い思念に突き動かされて、この悲劇を社会的に知ってもらいたい、子供の死を無駄にしたくない、とその系統の思想の主義者となった場合、Aさんは子供が死に至らなければ主義者にならなくて住んだのではないかと思えてくる。Aさんにとって「子供」の存在は代替不可能だったのではないかと。
でも、本当にそうだろうか。実はAさんにとって子供の死はもともと深層的に潜伏していた主義者の素質を目覚めさせるためのスイッチでしかなくて、その悲劇によってスイッチが入っただけだとは考えられないだろうか。子供が亡くなっていようがいまいが、遅かれ早かれ何がしかの思想に目覚め、Aさんは主義者になっていたのではないかという意地悪な予想が成り立つ。
ある、それまでは誰にでもやさしくおおらかに接っしていた人物のBさんが、巨額のお金を騙し取られて一気に人間不信に陥ったとしよう。このトラウマは代替不可能なものであって、お金を騙し取られなければ、その人間は人間不信に陥らずに済んだのではないかと思えてくる。
でも、それだけ優しいBさんに今までそういった類の不幸が舞い降りなかったことのほうがそもそも不自然なことだったとはいえないだろうか。遅かれ早かれ、Bさんは何がしかのトラウマに没入させられ、人間不信への道をたどる羽目になったんじゃなかろうか。
Cさんが特に求めるべくもなく巻き起こった出来事によって、唐突に啓蒙されたとしよう。それまで宗教家でもなんでもなく、ただの一般人だったCさんが、ある時間に、たまたま、その場所を訪れたことによって、その出来事に出くわし、啓蒙され、宗教家となった、と仮定してみよう。そのとき、その場所でその出来事に出くわさなければCさんは宗教家の道をたどることはなかったのか?
いや、やっぱり遅かれ早かれ、Cさんは潜在的に宗教家になりたいという欲求を持っていて、何がしかの代替可能なスイッチによって宗教家の道を選んでいたと考えれるような気がする。
ある不運な交通事故(何も過失のない)で死んだDさんという人がいたとして、もしその後生き続けていればF1の世界的なドライバーになっていたかもしれないDさんは、遅かれ早かれドライバーになることなく何がしかの不運に見舞われて死んでいたといえるだろうか。
それはいえないだろう。不運な事故に見舞われなければDさんはシナリオどおりちゃんとF1ドライバーとして名をはせたはずだ。
しかし、実はこの出来事そのものに関しては代替可能だったのではないだろうか。つまりDさんに代わってEさんというF1ドライバーが生まれ、間接的に大衆の求めるヒーローは代替される。Dさんはいなくても大衆が求め続けたヒーローとしてのF1ドライバーは代替されて必然的に生まれ出るわけだ。
でも、さすがにここまで反駁を繰り返すと昨日の思索には若干無理があった気がしてくる。気がするだけなので、もう少し考えてみるしかないけれど・・・
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