ごちゃごちゃしてたんで、ごちゃごちゃと書こう。押井守の御先祖様万々歳を観た。3巻だけビデオレンタル屋においてなかったので全部は観れなかったよ。オヤジが何で強盗やらかしたのかの部分が抜け落ちてる感じでなんかあれだ。
胡蝶之夢の立ち食い蕎麦屋で語られる犬丸の語りと麿子と文明の会話はどっちが本当だったんだろう。無理やり矛盾なく解釈すると文明が自殺することによって麿子消滅。その後目を覚ました犬丸は「捨てられた」と解釈し、タイムパラドクスを主観的に否定。でもラストで麿子の乗ってきたタイムマシンが発見されるのはなんだったのかという話になりそうだけど。全編にわたって矛盾律で構成されてる物語をそもそも順序だてて解析しようとするのが間違いかw
物語で物語について言及するスタイルはこのままトーキングヘッドに連なるようになってる感じだね。ポストモダーンがまだようわかってないんでトーキングヘッドはもう一回見直すべきだろうなあ。人は自分という物語の始まりも完結も知りえないから起承転結のある物語を求めるのだ、て感じの話をしてたあたりはなるほどと納得させられた。真に生きられる物語は強固なロジックの無限の反復なんだそうだ。終わりがある作品は駄作認定てことですね!押井監督にしてはえらく直球(それとも押井流の変化球なんか?)なラストシーンはかなりずきゅーんと来たなあ。

ここからはぜんぜん関係なく自己言及。自分がボクシングや格闘技が好きである理由について考えてみた。と、いっても格闘技の見せるすべてを好きだと思ってるわけじゃない。時折格闘技の見せる過酷な現実に目をひきつけられるのだろう。特に世界最高峰のレベルのボクサーの見せる現実性の美しさと、故の残酷さには陶酔させられる。その圧倒的な実力たるや情緒や人情が入り込む余地なんてない。僕は人情という実に無責任極まりない贔屓的な感情が好きではないので、だからこそ冷徹にあっさりと現実を突きつけられ没落していくボクサーを見るとついつい感情移入してしまう。

格闘技の「殺陣」についてももっぱら瞬間の攻防が大好きで、根性とか気持ちのこもった、たこ殴り合いは好みじゃない。一発で倒す威力も、駆け引きする脳みそもない凡人同士がひーひー言いながら殴り合ってる姿にはすぐ飽きてしまったし長距離マラソンやってるようなもんだから、こういった消耗戦ならぬ泥試合は好みじゃない。一般の顧客にはこういったわかり安いのが好まれるのだけど、やっぱりボクシングのすばらしさといえばいつ終わりの一発が決まるのかという、研ぎ澄まされた瞬間瞬間の駆け引きにあるだろう。
その点を言えば野武士のような佇まいのマイクタイソンの殺傷性、相手を小ばかにしてるとしか思えないロイジョーンズの一瞬のスピード、総合力とクレバーさで常に相手を上回るバーナードホプキンスの技術と反応速度の融合、などはその刹那の芸術性をわかりやすく示していると思う(ホプキンスは一見わかりにくいんだけどw)。どこまでも凡庸な「頑張りや」の人間に才能の差をまざまざと見せつけ根性論を完璧無比に否定しきってしまう実力主義の世界。

つまり僕がボクシングを好きな理由は実に日本的な根性論の否定にあるのかなと思う。前回の「燃え」についての考察の続きになるが、僕はいわゆる「燃え」があまり好きではないのだ。友人にこれは「燃える展開だからみろ」と何かの作品を奨められるととたんに見る気がなくなる。「身も蓋もない現実」ではなくて「現実から目をそむけた超越原理による仮想現実」というシチュエーションが許せないのだと思う。
監督として富野と北野が好きな理由もその殺陣シーンの情緒をはさむ余地のないスピード感、疾走感によるものがでかい。根性論を挟む余地なく時間は高速で進行し、あっさりと終局へといたる。何で根性論を否定するのかといえば、そんなものが、どうしようもない現実を改変させる要素にはなりえないと断言できるからだ。

本当は根性そのものを否定してるわけじゃない。ただ、いわゆる少年漫画とかが最後は愛、だとか根性、だとか勇気、だとか安易な完結へ向けての単一のテーマを掲げる点に疑問を抱いてしまうわけで。こういった媒体の見せる希望とか唯一性がどれだけの人間を失敗と自意識過剰に追い込んだだろうか。そら観たことかとばかりに世の中には大人になりきれないセカイ系(自己唯一性)の物語が散乱しまくってますよ。とにかくもう「これだ」とか言い切る物語は許せん。許せんといってる主張が許せん。やった!同語反復がなりましたよ!こじつけも甚だしいぜ俺!

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