だから、最近顕著に考えるのは相互理解の問題であって、やっぱり人間は他者との、言葉とコミュニケーションの結論に相互理解を見ているわけじゃないんじゃないかと思う。

私は決して理解されない→私は一人である→それは絶望である、ではなくて

私は私の存在を確認したい→他者の中に私がみえる→私は生きている

私が存在したという確証を外界に残したい→他者は私の断片を記憶してくれる→だから彼(彼女)が死ぬのは悲しい→彼は私の断片であるからだ→つまりそれは私という思い出の死である、私という断片の死である→だから悲しい

となるんじゃないだろうか。相互理解がありえないのは確かに断絶なんだけれど彼ら一人一人の中に多分、幻想的、心象的な「私」が形成されていて、その一個一個の自己存在を消失させたくなくて、私がそこにいたのだという確認を取りたくて、僕は誰かと一緒にいたいんじゃないだろうか。

でなけりゃ、どうして僕は同性愛者にならない?相互理解が欲しいなら、それこそ男性と愛し合うべきであって女性にその理解を求める必然性は何一つない。
それは根源的なエディプスコンプレックスの原理で、おっぱいに顔うずめてーよというのと、えらいね、いい子いい子、としてもらいたいような、そういう肉感的な欲望があるからなんじゃないだろうか。理解してもらいたいのじゃなくて、ただ、愛してもらいたいんじゃないだろうか。たとえそれが彼女の中にある僕という幻想であっても、それはかまわないんじゃないだろうか。

コメント

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索