男女間で発生する「愛」とは何か
2005年8月4日 エッセイ心理学に関してはまだ手を出していないのでフロイトもラカンもよく知らないので前前から思っていたこの命題には確固たる結論は導き出せそうもないが便宜上の考察だけを今記しておくとどうなるのかをやってみる。
そもそも愛すという言葉は定義不能な矛盾を含んだ言葉であると思う。なぜなら「性の対象である」ということと「好きである」ということはある意味で全くの相反しかねない言葉の形成であるからだ。
たとえば、ある異性を嫌っていたとして、その嫌悪の相手は性の対象になりえないかといえば、実はなりえるわけだ。むしろ、その人の性的な嗜好によっては嫌悪の対象であるほどにセクシャリティは増大しかねない。苛めたいというサド的な志向性といえば分かりやすいだろうか。別の性的嗜好の例を挙げるなら、その異性を恐ろしい、怖い、と感じていていても性の対象になりうる場合もある。つまりマゾ的志向性。恋として好きであることと、性的に興奮させられることとは必ずしもイコール足りえない。
一方で相互理解を前提とした理解したい、理解されたい、という間柄で形成される友好のコミュニケーションは男女間よりも、むしろ同性の方が向いているだろう。共感した、その人間にシンパシーを感じた、理解してもらえた、等の感覚が起こりやすいのは絶対的に異性ではなくて同性に対しての方が起こりやすい。
だが、同性間で交わされるこの好意の交換関係にセクシャリティがかかわることはほとんどのケースではないことだといえる。
つまり先に述べた性の話とは逆説的な現象が起きる。理解して欲しい相手には(異性)理解されず、特に求めるべくもない相手(同性)に理解される、ということだ。
だのに、男性は女性に理解を求めるし、女性は男性に理解を求める。考えてもみてほしいのは、この部分で、どうして理解されにくい効率性の悪い異性に対してわれわれは相互理解を求めるのかという点だ。セクシャリティと相互理解の逆説的部分を照らし合わせればどれだけ「愛す」ということが矛盾律の中に落としこめられた解体不能な言語であるかが浮き彫りになってくる。
そもそも愛すという言葉は定義不能な矛盾を含んだ言葉であると思う。なぜなら「性の対象である」ということと「好きである」ということはある意味で全くの相反しかねない言葉の形成であるからだ。
たとえば、ある異性を嫌っていたとして、その嫌悪の相手は性の対象になりえないかといえば、実はなりえるわけだ。むしろ、その人の性的な嗜好によっては嫌悪の対象であるほどにセクシャリティは増大しかねない。苛めたいというサド的な志向性といえば分かりやすいだろうか。別の性的嗜好の例を挙げるなら、その異性を恐ろしい、怖い、と感じていていても性の対象になりうる場合もある。つまりマゾ的志向性。恋として好きであることと、性的に興奮させられることとは必ずしもイコール足りえない。
一方で相互理解を前提とした理解したい、理解されたい、という間柄で形成される友好のコミュニケーションは男女間よりも、むしろ同性の方が向いているだろう。共感した、その人間にシンパシーを感じた、理解してもらえた、等の感覚が起こりやすいのは絶対的に異性ではなくて同性に対しての方が起こりやすい。
だが、同性間で交わされるこの好意の交換関係にセクシャリティがかかわることはほとんどのケースではないことだといえる。
つまり先に述べた性の話とは逆説的な現象が起きる。理解して欲しい相手には(異性)理解されず、特に求めるべくもない相手(同性)に理解される、ということだ。
だのに、男性は女性に理解を求めるし、女性は男性に理解を求める。考えてもみてほしいのは、この部分で、どうして理解されにくい効率性の悪い異性に対してわれわれは相互理解を求めるのかという点だ。セクシャリティと相互理解の逆説的部分を照らし合わせればどれだけ「愛す」ということが矛盾律の中に落としこめられた解体不能な言語であるかが浮き彫りになってくる。
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