仮説

2005年7月23日 エッセイ
客体、客観の存在を哲学者の人たちは疑ってきたけれど彼らはまず主体の存在可能性を疑うべきだったのではなかろうか。僕の、自身そのものの存在性を僕は証明することが出来ない。僕は自我の起源を知ることなく無自覚に文章をアウトプットしている。存在不安は生まれてから自我に目覚め、そして死ぬまで開放されうることのない永遠の議題だろう。結局存在論なんてモノにはフタをするしかないんだ。

ところで主体性の確証すら得られないわれわれがどうしてコミュニケーションの最大目的は相互理解であると考えているのだろうか。逆のような気がする。

このコンセプトを一般的に知らしめたのは他でもないエヴァンゲリオンだろう。いまだにセカイ系が跋扈する理由として、僕と彼女のコミュニケーション不全の問題がある。エヴァンゲリオンは僕らに相互理解を強要する。相互理解がないとすれば自殺するしかないとまで言い切る思考プロセスを提供する。

でも、あくまで仮説なのだが、もしも客体が、不確かな自身の確認装置でしかないと考えてみると相互理解とコミュニケーションが全くイコールにはなりえないのではないだろうか。他者はあくまで外部自覚装置なのであって、究極的にに「理解してもらいたい」という欲求をはらんでいるとは限らないのではないだろうか。単に自分の存在の不確かさにおびえるわれわれが便宜上、相互理解という言語を適用しているだけであって、相互理解に至れないときに「彼らに理解されない俺は不幸である」と言い切る必要性はないような気がする。

僕たちは確証の持てない不確かな自分から発生する不確かな言語を他者に理解して欲しいのではなくて、自分が今ここに確かに存在するはずだと確認する活動として他者を求めていたのではないだろうか。自己確認のツールとして今までは他者こそが最大のものだったとは考えられないだろうか。

だとすれば、他者と交わる以外に自己確認装置の豊富になってきた現代においてそこまでコミュニケーションが重要なのかと言えばそうとは思えなくなってくる。ヒトの存在しない物語がつむがれるような世の中もそう遠くはないきがする。ヒトは、自分が存在することを確認できれば、それだけで納得して死んでいけるんじゃないだろうか。

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