自己分析

2005年7月15日 エッセイ
 すべてをあきらめるという宣言は言語を放棄することだと僕は書いているのだろう。
 言語を全否定してしまうと僕らはただの猿になっちまうのか、と考えたりした。言語なくして論理的思考は可能なのだろうか。多分可能だろう。というかそもそも猫や犬にだって論理的思考は宿っていると思う。

僕が立ち上がる→えさをやる→食べる→しばらくする→立ち上がる→えさをやる

の動作を何度も繰り返せば猫は立ち上がる=えさをもらえる、という思考プロセスを形成するわけで、それは論理的思考と言えるのではないかな。僕らはもともと持っている論理的思考を言語化することでそれが自明であることを証明しているだけで、もともと頭の中に思考のプロセスを持ち合わせているのだろう。
 だけども、この「現に存在する言語化不可能な思考プロセス」というもの、つまり「語りえない何か」はあるのだろうか?それはたとえば「存在」であったり「意味」「絶対性」「神」と呼ばれる公理をさすのだろうけど、それは僕らが勝手に言語化しているだけで、説明がつかなくなる矛盾性をはらむのは当たり前だとも言えるかもしれない。僕らの始動させる行動そのものに公理的な何かはあるだろうか?
 ここに矛盾性が見つけられないと僕は何もかもを放棄することを、さらにあきらめなければならなくなるのかもしれない。となるとまた頭がぐるぐるぐるぐる・・・

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