たとえば恋をあきらめても恋はあるかもだし、コミュニケーションをあきらめても応答不能だろうがコミュニケーションは起こりうる。問題なのはそこに他者性を見出してしまうことにあるのだろう。寂しいときは寂しいのだといえる世の中になればいい。そこに相互理解というおぞましい同一性による主体が生まれるから戦争も争いもなくならないし、嫉妬やヒステリーが巻き起こる。

 独立した主体の思惟同士が肉体を絡めるようにまぐわることなんて絶対に起こりうることじゃない。もし、それがあるなら僕らはとっくに人じゃない。何もかもをあきらめてしまっても、悲劇は悲劇としてちゃんとそこにあるものだし、人の心の「やさしさ」もきっとなくなりやしないのだろう。だって本質的に人がそうなら、それらが消える道理はないのだし。僕は人がそういう生き物であるということを信じたい。

 逆にやさしさが言語化されてしまうと、それは冷たい客体と化され、定義付けの嵐に巻き込まれ、やさしさは決してありうることのない相互理解の小道具に成り下がってしまう。本来重要なのは言語じゃなかったはずだ。ウィトゲンシュタインが述べようとしていたことがだんだん分かってきた気がする。

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