とりあえず当面の僕が気づいたこと、個人的な思索の末に結論だてていることを述べると、これからの人間は「思想的な意思疎通をあきらめなければならないのだ」という結論に至る。

 とにかくイデオロギーをはらんだ主義者や思想家のアジっぽい言説はすべてにおいて、アテにならない。例外なくアテにならない。これはもう哲学者においても一緒で、哲学者なんて思想家となんも変わらなくて単に後だしジャンケンやって、結果論的にシニカルな結論を導き出してこれはアプリオリだ、いやアポステリオリだとか意味のない言葉遊びをこねくり回してるだけのチンカスでしかないのも良く分かった。(好きだけどね)
 とにかく人は人を信用してはいけない。それでも人を信じたい人間は対象者という自己の中に内在する他者という自己を愛すしかない。決して観測しえない他者そのものをアテにしてはいけない。アテにするとその人間と自身との思考精製過程の温度差に驚愕し、絶望させられるだけなのだ。だから最初から意思疎通はあきらめてしまわなければならない。他者に指向性とか同意を求めてしまうとその時点でカルトが発生してしまう。思想が発生してしまう。徒党が発生してしまう。それは危険な縄張り意識の始まりでしかなくて愛すもの以外それらすべてを疎外してしまう。そしてその愛すらも絶対でないことを知る人間はこの世のあらゆるものに絶望し、結局は他者に冷たい自己中心的な傲慢な人間性にいたる。自分さえ良ければそれでいいのだという結論に至る。
 愛の絶対性が単なる欺瞞であることすら気づかないおめでたい人間は平気でシステムを壮大な幸福発生装置だとか勘違いするし、平気で人を傷つけ、それを正当化しうる言説があるという錯覚に陥る救いようのない人間になってしまう。

 僕たちは幸福など一生訪れることないのだから、他者と分かり合えることなど絶対にありえないのだから、幸せでなくても大丈夫なのだ、という強さを獲得すべきなのではないだろうか。ニーチェは多分こんなことを言って発狂したのかな?それでも声を張り上げて俺は幸せだよ!と欺瞞的と分かっていながら欺瞞としての愛を宣言するよりも多少楽ではないかと思えてくるのだけど。アズマンや舞城王太郎とはこの点で少し結論が違ってくる。幸せじゃなくてもいいのだという納得が必要なんだ。

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