「およそ言いうることは言い得、
語りえないことについては沈黙しなければならない。」
とはキルケゴールの言葉ですが(太一の脳内では)この世に語りえることなんてあるのかすら疑問だ。果たして塩という言葉は塩そのものを表しているのか。うんこという言葉はうんこそのものを表しているのか。強さと言う言語は強さそのものであるのか。
強さと弱さは相反する単語であるにもかかわらずそれが同居していなければ本当の意味での強さではないと人はいう。強さと弱さの同居とはその中間である「普通」であることではないし、中途半端にふらふらとどちらかと決めかねている「優柔不断」な人間を指しているわけでもない。強さとは臆病であると同時に豪胆でなければならない。果たしてそれは本当だろうか?これだけはっきりと乖離している言語の強さと弱さが同居しうることなんてありうるのだろうか?
言語的に解体するならば、これはまさに矛盾している。矛盾とは実在しえないということになる。矛盾であるから実在しえない。実在するということはそれはしっかりと矛盾のない存在であるから実在であるといえる。矛盾律が絡んでくるとその瞬間にその実在は言語的に不在の烙印を押されることになってしまう。あくまで言語的には。
ウィトゲンシュタインはこれを言語の限界だといっているし、ヘーゲルはこのアンチノミーな状態にこそ客観としての神が宿るのだという。強さと弱さの同居であったり、塩の味と色彩の同居だったり、うんこの臭いとグロテスクな視覚とは、全く別の言語でありそれらが同時に実在されることはありえない。なのにそれらは現に実在する。実在してしまっている。強さとは結局語りようもないことであるのに「本当の強さとは強さと弱さを同居しているものだ」と無理やりに解釈しているだけなんだろう。
悟性はこの世のある側面を捕らえてはいる、とヘーゲルは言っていたけども根本的に何も保証されていない実在性について何か確かなことなんてひとつでもあるんだろうか?
語りえないことについては沈黙しなければならない。」
とはキルケゴールの言葉ですが(太一の脳内では)この世に語りえることなんてあるのかすら疑問だ。果たして塩という言葉は塩そのものを表しているのか。うんこという言葉はうんこそのものを表しているのか。強さと言う言語は強さそのものであるのか。
強さと弱さは相反する単語であるにもかかわらずそれが同居していなければ本当の意味での強さではないと人はいう。強さと弱さの同居とはその中間である「普通」であることではないし、中途半端にふらふらとどちらかと決めかねている「優柔不断」な人間を指しているわけでもない。強さとは臆病であると同時に豪胆でなければならない。果たしてそれは本当だろうか?これだけはっきりと乖離している言語の強さと弱さが同居しうることなんてありうるのだろうか?
言語的に解体するならば、これはまさに矛盾している。矛盾とは実在しえないということになる。矛盾であるから実在しえない。実在するということはそれはしっかりと矛盾のない存在であるから実在であるといえる。矛盾律が絡んでくるとその瞬間にその実在は言語的に不在の烙印を押されることになってしまう。あくまで言語的には。
ウィトゲンシュタインはこれを言語の限界だといっているし、ヘーゲルはこのアンチノミーな状態にこそ客観としての神が宿るのだという。強さと弱さの同居であったり、塩の味と色彩の同居だったり、うんこの臭いとグロテスクな視覚とは、全く別の言語でありそれらが同時に実在されることはありえない。なのにそれらは現に実在する。実在してしまっている。強さとは結局語りようもないことであるのに「本当の強さとは強さと弱さを同居しているものだ」と無理やりに解釈しているだけなんだろう。
悟性はこの世のある側面を捕らえてはいる、とヘーゲルは言っていたけども根本的に何も保証されていない実在性について何か確かなことなんてひとつでもあるんだろうか?
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