僕は前提としてヒトに敗北者であって欲しいのかもしれない。なんセ僕が人生の敗者ですからね(笑)いかにして社会のシステムの無意味性を見抜こうかと厨房の頃から躍起になってましたよ。そうして、ようやく出会えた先生達がニーチェ先生とハイデガー先生ですた。でも問題なのは二人ともニヒリズムと向き合って自覚存在(存在のすばらしさ)に至れなんてウンチッチな結論で問題を先送り。放りっぱなしでくたばってしまった人たちなのでその点が嫌かもしんない。悪しき形而上学を否定しながらも結局は絶対者的神秘性から逃れられてないような。どんなに現にあるこの刹那(存在)が奇跡的であろうとも虚無性から逃れることも、向き合うことすら人間には出来やしないんだろう。ニヒリズムと正面から向き合えば最後、発狂するか、ナチだけはガチ!みたいなことになるかのどっちかだ。

現代人は、そのニヒリズムから逃げ回ることを選択し忘却した状態で自己疎外を当たり前の状態と認識することで精神を保つことに成功(?)しているらしい。ニヒリズムを自覚しながらあえて神の代替品を求めつづける僕たちですよ。これってスノビズムとかいわれてなかったか?萌えキャラに神を求めるも良し、政治批判に命を燃やすも良し、経済、株式事情をしたり顔で語るも良し、宗教に加担して他人に迷惑かけない程度に神を感じるのも良し、でもテロは駄目、テロはかっこ悪い。苛めも駄目。超かっこ悪い。

でも多分、何をやっても思想も思考も相対主義に並列化されていくだけなんだろう。今の僕(私)は本物の自分ではない、と感じる錯覚(自己疎外)に陥っていくだけなのは避けられようもない。そもそも自己疎外も何も、本来的自己そのものが僕たちには存在しない。存在がないんだから当たり前だ。意味の根拠だってどこにもありゃしないのだから。まず前提としてヒトは永遠に「幸せに至れない」、ということからはじめるべきではないのかと思う。幸せには至れないけれども、錯覚としての(疎外されたヒトという場においての)幸せならいくらでも体感していけるのだろう。

幸福の始まりは凋落を示唆してるだけだ。僕らの人生は存在無をもってして完結する。時間性の中の存在なのだからこれは避けようもなく当たり前のことなんだろう。でも考えてみれば非存在すらも実は絶対的ではない気もするけども。だって、現に僕は存在してるしな。パラドクスだけはガチ、てことにしておこうかな。

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